泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
4−2
、夜


 同居人は、奴と一通りのやり取りをしてきたらしい。奴はどうやら俺をおびき出そうとしたらしいが、結果は見ての通り。馬鹿な奴。別に同居人をいじめたからといって、俺がすっ飛んでくるはずもないのに。
 あいつはずっと泣いていた。泣いて泣いて、それから手首を切った。無駄なことをする。それしきの傷なんか、すぐに塞がってしまうのに。ああ、そうか。俺は知っているけれど、あいつは知らないのだ。忘れていた。
 手首から血を流したまま、同居人は眠ってしまった。奴も馬鹿だがあいつも馬鹿だ。刃物を皮膚に食い込ませたところで死ねるはずがない。
 大体死のうとするきっかけが突然すぎる。今更なことを改めて突きつけられただけなのに、たったそれだけのことで死ぬ決意をするなんて馬鹿げている。自分の体が普通でないと分かっているなら、もっと簡単に死ぬ方法だってあったのに、何だってこんな風にしたんだか。
 近づいたって傷つくだけ。分かっているくせに望む方が悪いのだ。望むことなどできるはずが無いのに、それでも手を伸ばすから傷つけられる。今まで生きてきて、十分すぎるほどにその苦さを味わってきたはずなのに、今の今までずっと気がつかなかったのか。馬鹿の上に甘ちゃんかよ。いや、知ってたけどここまでだとは思わなかった。つくづくこいつの甘さに呆れ返る。
 互いを理解することなんて出来ない。所詮人間はエゴイスト、他人のことなど二の次三の次だ。他人は他人。踏み台に過ぎない。結局は自分が可愛いだけ。ダレカノタメニナニカシテアゲルなどといいながら、誰かに施しを与えて酔っている。自分は相手よりも高い立場にいるのだと、他人を見下しながら手を伸べているのだから。
 助け合い。相互理解。そんなものは、偽善ぶっているナルシストどもの綺麗事でしかない。馴れ合いをしながら、いつ踏みにじってやろうかと様子をうかがっている。世界なんてそんなもの、エゴイストでナルシストでサディストな奴らが群れているだけだ。
 携帯が鳴る。同居人が普段使ってるほうだったか。机の上のそれを見る。メールが一通。
『浅香さん、大丈夫? 元気? 綱島でっす。近くには香佑ちゃんとね、それから浩樹がいるよっ。最近すごーく元気ないから、私もすごーく心配。ちゃんとご飯食べてる? あっ、怪我、だいじょぶ? 何か悩みがあったら遠慮なく言ってね! 私たち、友達でしょ! それじゃ、ばいばーい』
 痛々しい文面に笑いが止まらない。吐き気がする。削除されていく電子の手紙には、ままごとのように甘ったるい綺麗事しかない。
 トモダチ。何て便利な言葉。上っ面だけ心配して、そうしてトモダチを心配する優しい自分に酔いしれている。簡単に自分の立場を確立できるインスタントな存在だ、ってぇか。お手軽にご利用いただける、大変便利な代物です。バリエーションはいくらでも。あなたが飽きたら違うものにお取替えいただけます――なんてな。
 薄笑い浮かべてもっともらしく手を伸ばして、用が済んだら捨ててしまう。邪魔だと思えば捨ててしまう。たかだかそれだけの関係、利用し利用されるエゴの押収ですら、人間は『友達』やら『絆』やらと巧妙な言葉で隠してしまう。うまいもんだ。互いが自分の言動に酔っ払うことで成り立ってしまうつまらない関係が、いかにも美しく尊いものに見えてくるんだから。
 偽善と嘘と綺麗事で飾り立てて、飽きるまで生ぬるい馴れ合いを繰り返す。人間は一人では生きていけないなんてどこかの誰かがほざいていたが、そんな主張は笑止千万。ごっこ遊びの中でしか生きられない奴らが言うことなんか、信憑性の欠片もない。
 そうだ。この世界に信じられるものなんて何ひとつない。だから俺は何も信じない。俺は一人だ。これからもずっと、一人で生きていく。

 中途半端な死に損ないには、これくらいが丁度いい。



 目を開く。見えるものは天井と電灯。夕闇に染まるカーテンと、その前に佇む黒い影――誰かがここに入ってきている。
 しまった。反動をつけて飛び起き、影の正体を確認する。
「おっす」
 片手を挙げてにやにやと笑う、見慣れた奴がそこにいた。よりによってこんな奴の侵入を許してしまったのか! 同居人の、それ以上に自分のうかつさが恨めしくなる。
 苛立ち紛れに、枕の傍らにあったカミソリの刃を投げつけた。
「危ないなぁ」
 首を傾け、奴は刃を避ける。意識が刃に向く、こちらから視線が外れた。
 ベッドの下から得物を引きずり出し、一息で相手に詰め寄った。逃げようとする奴を壁にたたきつけて、得物を首に押し付ける。
「ぉわっ! と、と、とっ! タンマタンマ! そんな物騒なもん、家の中で振り回すなよぉ!」
 情けない声をあげて、奴は両手を小さく挙げる。緊張感をまるで感じない。
「何しに来た」
「何って……浅香さんを追っかけてきたんだけど……知らない、かな?」
 貼りつく笑みを崩さないまま、奴は言う。
 苛立たしい。こいつを見ていると無性に腹が立ってくる。脳の奥がざわついて不快になる。胸の中が波打って不快になる。耳の奥で音を立てている。何を考えているのか分からなくて、それが余計に気持ち悪い。
「出てけよ、目障りだ」
 俺の言葉に耳も貸さず、奴は続ける。
「そういや……同居人、だったか? 彼女と、お前」
 奴はまた、にやりと笑う。知っているくせに、わざと知らないふりをする。その態度が、気にいらない。
「知らねぇふりしてんのはわざとか? 俺を怒らせてぇのか?」
「まあ、ね」
 案の定、奴はあっさりと肯定した。怒鳴りつける代わりに、首の皮を一枚切る。薄く血がにじむのを見て、少しばかり気分があおられる。
「ちょっとちょっと、やめろって。冷静になろうぜ。大体な、俺が知ってるお前の情報なんて、本当にごくわずかなんだよ。重要な部分は知らないの。ほとんど資料が残ってねぇんだよな……見つかったら見つかったで、面倒くさいロックがかけられてるし」
 自分の情報を漏洩することは、直接命に関わってくる。うっかり尻尾をつかまれれば、こういう情報屋にゆすられるのがオチだ。こいつらは性質が悪い。あらゆる手段を使って情報を握ろうとする。だからこちらもあらゆる手段を用いて自衛しなくちゃならない。
 幸い俺は何でも屋、オンライン上の防衛プログラムを組むくらいなら簡単にできる。情報が漏れそうな場所は全部手を回してある。ちょっとやそっとじゃ突破することは難しいくらいのものを用意したのだから、まずしばらくは心配ない。
「彼女のことも調べたいんだけど、ご丁寧にお前と同じくらいすっごいのが待ち構えてるもんで」
「同居人から漏れたら意味ねぇだろ。もっとも……あいつはいても死んでるようなもんだから、探ったところで無駄だろうがな」
 あいつは死人と同じだ。真実を抱えて彷徨う死人。空っぽの身体、望まれなかった半欠けの魂。俺がいなければたちどころに呼吸を止める偽りの存在。
 そうすると、俺はやっぱりリビングデッドだ。人間が人間を超える人間を作ろうとして失敗した、人間のなり損ない。半分腐り落ちた魂と抜け殻の身体を引きずって徘徊する、廃棄された実験動物の成れの果て――どちらも異形、どちらも異端。どちらも存在する意味を見出せない、虚ろなもの。この無駄なシンクロ率。馬鹿馬鹿しいくらいに滑稽だ。
 おかしくて、思わず嗤った。反対に奴はいぶかしそうに目を細める。
「死んだようなものって……言いすぎだろ。彼女は懸命に生きてるのに」
「あれの自殺促進した奴はどこのどいつだよ」
 一瞬、奴が返答に詰まった。そういう勢いだけの綺麗事を言うからこうなるんだ。あいつを追い詰めたのは他でもないこの男、真実を言って何が悪い。
「事実だろ? あいつも俺も死んでるようなもんだ。死人が死人を死人と呼んで、一体何がいけねぇんだよ」
 さあ、何か言ってみろ。鳥肌が立つくらいに嘘臭い、自己陶酔の透けた慰めでも吐いてみるがいい。『荒ぶる海魔』ともあろうお方が、それくらいできないはずがないだろう?
「お前さ……」
 言いかけて、奴はそれきり口を閉ざす。俺も待つことを放棄した。柄にもなく期待してしまったことが苛立たしい。
「もういい。飽きたから死ね」
 刃を立てて、喉笛へ切っ先を当てる。このまま体重をかければ、簡単に殺すことができる。抵抗しないのが意外だが、まぁそういうのもありだろう。
 と、突然奴の姿がなくなった。かと思えば俺の後ろ――着地と同時に窓を開け、いつもの嫌な笑顔を浮かべていた。
「本当は浅香さんに伝言を頼みたかったんだけど、無理そうだからやめとく。それじゃあ、また」
 ふつりと気配が消えて、後にはナイフを持ったままの俺だけが残される。やり場の無い苛立ちが全身を巡っていて、胃の辺りが痙攣している。
 俺はナイフを適当に片し、体をベッドに投げ出した。最悪な気分だ。大体なんであいつがここに来るんだ。おかげでただでさえ悪かった気分が、さらに低迷してぐちゃぐちゃになっている。
 もう何も考えたくない。考えればまた、余計なことまで思い出すから。目を閉じる。そのまま闇に引きずり込まれるように、意識が途絶えた。

(初回:2006.7.27 最終訂正:2008.10.23 更新:2009.1.10)


4-3 昼と夜
4-1 昼と



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