泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
4−1
昼と


 また、傷が増えていた。私の知らないうちに増えていく傷跡に、そっと傷口に包帯を巻く。今ではもう慣れてしまった。うまい包帯の巻き方も、知らない傷跡を隠すための嘘も。
 マンションを出て、学校へ向かう。廊下を歩けば、案の定新たに出来た傷へ興味の視線が注がれた。いたたまれなくて、傷のある箇所を隠すように早足で歩く。
「それ、どうしたの?」
 廊下の向こう、教授室から出てきた綱島さんが駆け寄ってきた。爪先立ちで包帯に触れて、それからじっとこちらを見つめてくる。大きな目は不安げに揺れ、今にも泣き出しそうだ。
 まるで心を見透かされているような、いたたまれない気持ちになってくる。私はうつむき、なるべく目をあわさないようにして答えた。
「ちょっと……近くの木の枝で引っ掻いちゃって」
「うわぁ! 痛そう〜! 浅香さん身長高いから、そういうのあるんだねっ! 大丈夫、平気っ?」
「うん、大丈夫。何ともないから」
「具合悪くなったら、言ってね。私も香佑ちゃんも、すぐそばにいるから」
 一生懸命な気遣いが、逆に辛い。無視されていたほうがよほど楽なのに、彼女はそうしてくれないのだ。
「……ごめんね」
「いいのいいのっ! あ、授業始まっちゃう! 浅香さんも同じ授業だよね? 一緒に行こうっ」
 教室に入ると、美作さんが待っていた。軽く会釈を交わしてから、私は綱島さんに促されるまま後ろに着席する。綱島さんは私に笑顔を向けてから、私の前……美作さんの隣に座った。
「香佑ちゃん。浅香さん、後ろに座ってもらったからねっ。具合悪くなったらいつでも言えるし」
 美作さんは確認するようにこちらを眺め、柔らかく微笑んでうなずく。それから包帯に気づいたのか、痛そうに眉を寄せた。
「遠慮なくシャーペンの先でぶっ刺してくれていいわよ。それにしても痛そうね……大丈夫? 無理は禁物よ」
 在好さんも綱島さんも、学校内の人気者だった。頭がいいだけでなくて、他人のことも気にかけてあげられる。誰にも分け隔てなく接するから、男女問わず好かれていた。
 嫉妬は、していない。比べられるものもないし、比べるだけおこがましいから。
 ただ。
「……ごめんね」
 ただ、私とは遠い場所にいる人たちなのだと、時折ふと悲しくなる。
「平気よ。謝らなくてもいいから、気にしないで」
「そうそうっ、私たちお友達だしっ!」
 そんなに優しくしないでいいのに。私は机の下で、きつくきつく手を握った。

 授業を終えて、帰る支度をしていたときだった。
「浅香さん」
 いつもなら黙って通り過ぎる綿津見君が、私に話しかけてきた。
 息が詰まった。心臓が、破裂しそうなほどに音を立てている。緊張している。指先から体温が抜けていくのが、痛いほどに感じられた。
「……な、に」
 綿津見君は、軽い微笑を浮かべて言葉を続ける。表面はこんなにも穏やかなのに、一切温度を持たない眼差しをされるのは、きっと私だけなのだろう。
「ちょっと、話があるんだけど……いいかな。時間」
 これは一体、何。混乱する頭を落ち着かせようとして、私は一つ呼吸をする。
「……う、ん……いい、けど」
「用意ができてからでいいよ。中庭で待ってるから」
 言い置いて、彼はゆっくりと歩いていった。何があるのだろう。不安と、ほんの少しの期待が私を急かし、追い立てる。
 かばんを持って中庭へ急いだ。この時間に通る人はほとんどいない。人一人おらずひっそりと静まり返った中で、綿津見君が待っていた。
「遅くなってごめんなさい」
「構わないよ」
 彼はまた、優しく微笑む。細めた瞳には、私が映っている。
 深い色の瞳はいつもの通りなのに、空気はいつもより張り詰めていた。冷えた大気に身震いして、思わず体を退く。
 逃げ出したいという思いに駆られたが、足は意思に反して一歩も動いてくれなかった。
「君を呼び出したのは他でもない――いいか、これは警告だ」
 紡がれる彼の声は、柔らかくて冷たい。
「これ以上、俺に近寄るな」
 綿津見君はもう、笑っていなかった。

「まさか、俺が気づかないとでも思ったか?」
 何を言われているのか、分からない。
「いつまでしおらしいふりをしている?」
 何を言われているのか、分からない。
 言葉の意味が理解できない。うまく立っていることができない。足に力が入らない。気を抜いたら座り込んでしまいそうだ。分からない。理解できない。理解したくない。壊れてしまったイヤホンのように、耳はうまく音を拾えない。途切れ途切れにしか聞こえない。
 目の奥を、針の先でえぐられているような気がした。胸も瞳以上の痛みを訴えている。胸の一箇所を強く押さえつけて、私はただ呆然としているしかできなかった。
 嫌われているのは、知っていた。彼が私を見るときは、いつも本当に冷たい目をしてたから。
「お前はこの場に相応しくない。ここにいていい存在じゃない」
 私だって分かっていた。たとえどれだけ努力したとしても、私が所詮異質だということくらい。
 だから彼は、悪くない。私が全て悪いのだ。私がいるだけで、他の人に嫌悪感を持たせてしまう。私は誰かを不快にさせる存在でしかない。
「どうした、いつもみたいに噛み付いてみろよ。それとも言ってることが分からないか? ――お前は危険なんだ。ここはお前のいていい場所じゃない。この世界では、必要とされていないんだよ」
 私の周りから、雑音が消えた。全部が透明になって、意識がとてもはっきりしている。
 やっぱりそうだった。彼にも、きっと他の人たちにも、私はいっぱい迷惑をかけた。ただ生きているだけで、私はこんなにも足手まといにしかならない。
 全部、今更だ。分かっていたことじゃないか――私は痛みを堪えながら、精一杯笑ってみせる。
「そうだよね、私……駄目だね……みんなに、迷惑しか、かけられ……っ……なくて」
 意識に反して、声が途切れる。喉で空気が擦れる、か細い音がした。
「……ごめんなさい、……謝っても……許しては、もらえ、ない……だろうけど……」
『役立たずめ、何故貴様のようなものが生まれてきた! 生まれてくる必要すらなかったくせに!』
 ああ、そういえば昔から言われてきたことだった。誰の言葉かはもう思い出せないけれど、繰り返し繰り返し言われ続けてきたことだ。奇妙な残響を帯びた怒鳴り声が、私の意識の奥底から滲み出してくる。
『貴様の価値など死人と同じだ。貴様は生きる価値すらない無駄な命。貴様がいるだけで、一体どれほどの人間が忌々しく思っているか……どれほどの人間が、貴様という存在の消滅を望んでいるのか、分かっているはずだろう?』
 生きているのに死人と同じ。私は、命に値段すらつけてもらえない。いてもいなくても変わらない、いや……いないほうがずっといい。そういう存在だった。
「そっか。私、いらないものなんだった」
 今更になって実感するなんて。自嘲交じりの苦笑が漏れる。
「私には……生きる価値すらないんだった」
 数え切れないほど躊躇して、数え切れないほど自問してきたことじゃないか。本当に今更なこと。今まで何をしてきたのだろう。
 独り言が聞こえたのかもしれない。綿津見君の目が見開かれる。初めて見るその表情が、ちょっとだけ新鮮に感じた。
「浅香、さん?」
「生まれてくる必要が、なかったんだって」
 綿津見君には、聞いてほしい。綿津見君には、知っていてほしい。どうしてかは分からないが、何となくそう思った。
 だから、零れる音は止めない。
「忘れてた」
 喉が渇く。指先は震えて、冷たくなっていた。膝が笑っている。自分でも、どうやって立っているのかが分からなかった。
「浅香さん、君は、まさか」
「だからきっと、」
 臆病者の私がようやく思い出した、ようやくたどり着いた一つの答え。 
『いなくなってしまえ! この出来損ない!!』
 それはとても滑らかに、私の口から滑り落ちた。
「いなくなったほうが、いいよね」
 視界が潤み、かすむ。私はゆっくりと瞬きをした。頬を伝っていく熱いものは、確認しなくても分かる。
「ありがとう、綿津見君」
 声がかすれた。抑えきれない何かが、胸の中から溢れてくる。涙は拭わない。代わりに、もう一度笑ってみせた。形になったかは分からないけれど、でもきっと、笑えたはず。
 それから最後の単語を紡ぐ。これだけしか、言えなかった。これだけで、十分。

「さよなら」

 そのまま私は駆け出した。
「浅香さん! 待って、待ってくれッ!!」
 綿津見君の声が追いかけてくる。私は立ち止まらなかった。
 これでいい。これでいいはずなのに、頭の奥がざわつく。心の内側が波打っている。ざわざわしていて息苦しい。どうしてこんなに悲しいのだろう。
 どうしてなんだろう。



 家に帰って、目の痛みがなくなるまで泣いた。ぼんやりする。一気に水分が抜けたからかもしれない。枕が湿っている。天井の色が目にしみる。
 夕暮れの光が、カーテンの薄い布地を染め上げている。そこを貫き、私の転がっているベッドまで侵入している。鮮やかなそれから逃げたくなって、私は斜光カーテンを引いた。
 薄暗くなる部屋の中で、私はベッドの上にうずくまっている。膝に額を押し付けて、ただじっと動かずにいた。熱でもあるのだろうか、額の温度がじわじわと膝に移っていく。
 と、意識に銀が映り込んだ。顔をあげてチェストを見る。
 いつのまに置いておいたのだろう。チェストに乗っていたのはちっぽけなカミソリの刃だった。いつもなら洗面所にあるはずのそれが、我が物顔でそこに鎮座している。
 どうしてこんなところに。何となく手を伸ばして、突如響いた記憶の声に体をすくめた。
『この出来損ない!! 貴様など、生まれてこなければよかったのだ!!』
 あぁ、そうだ。私が生まれてこなければ、周りの人はもっと幸せに生きていけた。生きていけたはずだった。ずっと前から気づいていたのに、どうして今まで生きていたのだろう。
 指が鉄の板に触れて、鉄の板は手首に触れる。太陽の最期の輝きが、カーテンの隙間から細く差してくる。濡れたような光沢を放つそれに、私はいつしか見入っていた。
 半ば夢を見ているような心地で、小さくて鋭い凶器を引く。思ったよりも食い込むのだな、と、なぜかとても感心する。綺麗に裂けた傷口から、濁った赤がシーツを汚していく。ひとつ、ふたつ、みっつ。紅の円が重なり、にじみ、徐々にその面積を広げてゆく。
 横たわって目を閉じる。私の命の証が、手首から少しずつ流れていく。
 これでいいんだ。これで誰も、不快な思いをしなくてすむ。痛いとは、感じなかった。悲しいとも、思わなかった。
 もう大丈夫。もう、誰も苦しまなくていい。誰も苦しめなくていい。誰かの気を煩わせないでいいんだ。

 薄れて霞む意識の下で、それがただ泣きたいほどに嬉しかった。

(初回:2006.7.7 最終訂正:2008.10.23 更新:2009.1.10)

4-2 、夜
3-3 昼と夜


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