泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
3−3
昼と夜


 浅香梔子。
 私立荻野ヶ原(おぎのがはら)女子大学付属荻野ヶ原幼稚園、同大学付属小学校、同大学付属中学校、同大学付属高等学校を卒業後、私立灯明(とうめい)大学文学部国文学科へ入学。現在二回生。小学校から高校までのおよそ十二年間図書委員を務め、部活には入っていなかった。一人でいることを好み、口数は多いほうではなかったという。成績は優秀で、運動も得意。陸上競技などの代理選手も任されたが、自分から進んでスポーツをすることはなかった。
 以上が学校側に保管されている情報だ。ちなみにこれは、正式な取引を経て入手した文書の写しである。大したことはない。ここの理事長と昔からの知り合いで、ちょっとばかり仕事の依頼を請けたことがあるのだ。その縁で、今回協力をしてもらったのである。
 書面では、確かに『彼女』が存在していたことになっている。だが。
 デスクの上に放ってある紙に目を移す。古典的だが、荻野ヶ原幼稚園から荻野ヶ原女子高出身の子五十人に質問をし、その答えを記録したものである。その際に、学校側に記録されている『彼女』のデータの一部を提示した。
 質問は簡単だ。思い出せば答えられる。
『あなたのいた学校に、浅香梔子という子は本当にいた?』
 そして得られた回答は。
「全てノー、だった」
 関係者は誰も『彼女』のことを知らなかった。陸上部だったという子にも話を聞いたが、『彼女』が代理の選手となったことはおろか、名前すら聞いたことがない、との答えが返ってきた。他の子も、それと同じ答えを口にした。
 つまり『彼女』は、存在すらしていない。いるはずのないもの――招かれざる客なのだ。それが意味することは、ただ一つしかない。
「『奴』が無害を演じているだけ、ってことだな」
「『奴』って誰のこと?」
 突然背後から声が投げられた。次いでほい、とカップが渡される。
「こんなガンガンクーラーかけて、身体壊しても知んないよ」
 香佑だった。そういえば、今日は取っている授業が全部休講になったんだっけか。どうやら偶然同じ授業を取っていたらしい。
 小さいとはいえ事件が起きたのに、通常授業を行ってる教授もいるようだ。友人の綱島さんから愚痴メールが入って初めてそのことを知った。常識ある普通の教授たちは休講にしたみたいだが、ここの偉い人たちは一体何を考えているのやら。学校閉鎖すりゃいいのに。
 それはともかく。俺は無断で入ってきた姉をにらみつける。
「……いつから」
「さっきから」
「何しに」
「お話ししに」
 勝手に人のベッドへ腰を降ろし、香佑はこちらをにらみ返してきた。
「深悟から聞いてるわよ。悪いことは言わないからやめときな、って言ったはずだけど」
「危険だからやめろって言ってるんだろ」
 『奴』の危険性はトップレベル、出会ったら生きては戻れないとまで言われる人物だ。夜の世界に生きるものたちなら誰でも知っている。ましてや以前真正面からやりあった『真紅の魔物』が言うのだから、その危険さは相当のものだろう。
 だがあっさりと、香佑はそれを否定した。
「違うわよ。あんたの今のやり方は、あの子を傷つけるだけだって言いたいの」
 言葉の意味がうまく飲み込めず、俺はただ香佑の顔を眺めるしかできなかった。香佑はそんな俺を呆れたように一瞥し、肩をすくめる。
「あんたは何もわかってない。あの子の表面的なところばかり見ていて、肝心の中身を見ようとすらしていない」
「見てるさ」
「見てないわ。じゃあ聞くけど、あんたはあの子の何を知ってるのよ」
「……知らないから、こうやって」
「だから、違うって言ってるでしょ。データ上のことじゃない。あの子が何を考えて、どういう風に感じて、どう過ごしているのかを知ってるかってこと」
 反論を試みたが、香佑はそれを許さない。静かだが強い口調で遮られ、何も言えなくなってしまう。
 大体なぜ責められなくちゃならないんだ。別に何をしようと俺の勝手じゃないか。相手は『奴』で、俺は生き残るためにこうしてるだけなのに。
 その二つ名が示すとおり、人の命を奪うことに快楽を見出した狂人じゃないか。『奴』が何を考えているかなんて、火を見るよりも明らかだ。これ以上『奴』の何を分かれというのだろう。
「……もういいわ。私もう何も言わない」
 顔に出たのか、全身からにじんでいたのか。香佑が突き放すように言い捨てる。弾みをつけて立ち上がり、扉に手をかけ乱暴に開いた。
「あ、それ全部飲めよ」
 振り返らない背中には、綺麗に切りそろえた長い黒髪が流れている。それが戸口の向こうに消える、直前で低く言葉が継ぎ足された。
「後悔したって、知んないから」
 そして完全に閉ざされる。残されたのは、責められたことに対する理不尽な怒りと、ラー油が表面を覆い尽くしたコーヒーだけだった。



 全く、嫌なシーンを目撃してしまった。それもかなりの至近距離で。職業柄見慣れているとはいえ、気分のいいものではない。人間の首がはねられる場面に直面するなんて、不運以外の何者でもなかった。哀れな奴の身体はすぐに、掃除屋の面々が片付けてくれる(この表現も嫌いだ)と思うけれど、やっぱり殺しの瞬間は最悪だ。
 ここを通りかかったのは、本当に偶然だった。別に張り込んでいたわけではない。家の近くのコンビニまでバイクを走らせたその帰り、偶然歩いている『奴』を発見しただけである。この通り、夜になると電灯が点くが、住宅街の癖に二十メートルくらいの間隔でしか設置されていない。そのせいで、変質者がうろついてることもよくあった。おまけにここはなぜか一切陽が当たらない。昼でも薄暗い妙な場所でもある。別にここを通らなくても住宅街の奥にはいけるため、皆人通りの多いほうを選んで帰ってくる。
 なお、俺はここを通ったほうが近い。バイク通学は便利だ。ここを全力で通ると、五分は短縮できる。香佑も利用しているらしい。とまあ、そんな感じだった。
「あなたがやりましたか」
 そんな事を考えていると、黒い作業服の女が近寄ってきた。もう着いたのか、早いな。俺はそのまま答えを返す。
「いや。某さんがやった」
「そうですか」
 帽子を目深に被り、目元はよく分からない。解体用の巨大な鉈と、シャベルと、ゴミ袋を持った若い女だ。死体の様子を何度も調べ、軽く手を合わせて黙祷する。掃除屋が来たからには、俺の出る幕はない。十分もすれば、ここは血の跡すら完全になくなってしまうだろう。
 『奴』に無謀にも挑んだ『華麗なる黒き薔薇』は、本当にごく最近名を知られ始めた最低ランクの殺し屋だ。哀れではあるが、強いものに弱いものが逆らえばこうなる。夜の世界では、こんなこと日常茶飯事なのだった。
 国や警察ですら恐れて手を出さない――いや、むしろその力を欲するものも数多い無法の領域。それが、夜の世界。その頂点に君臨する、最高階級の危険人物。それが『奴』。そんな男が平和な昼の世界に出たら、最初に何をする。問いなんか投げかけなくたって分かっている。『奴』の行うこと、それは一方的な虐殺でしかない。
『あんたの今のやり方は、あの子を傷つけるだけだって言ってるの』
 傷つくはずなんてない。相手は自分の悦楽のためだけに人を殺す男なのだ。それに、さっき彼らがしていたやり取りで確信した。後ろにいた尾行者を撒くために、『奴』は『彼女』を演じて見せた。そして彼を、いともあっさりと殺してのけた。これ以上――何を分かれと言うのだろう。
「クソ……」
 静か過ぎる路地に、『奴』の舌打ちが響く。
「往生際の悪ぃゴキブリヤロウが……」
 暗闇に慣れた目は、作業をする掃除屋の向こう側、喉を押さえてうずくまる『奴』の姿をはっきりと捉える。浅くではあるが、斬られたらしい。
 傍らに落ちたナイフを拾い上げ、持っていたかばんの底へとしまいこむ。それから身体を引きずるように歩き出した。行く先は。
 浅香梔子の住む、マンションだった。
 『奴』の姿が、ガラス戸の奥へと消える。きっとこれから十階にある、あの死に満ちた部屋へと帰るのだろう。
 なぜ死のにおいしかしないのか、分かったような気がした。部屋の持ち主が、圧倒的なまでに死を連れすぎている。己の快楽のために、己の愉悦のために、人を殺しているからだ。常人離れした身体能力をもってして、他の存在を斬り潰しているからだ。
 やはり、外に出すべきではない。昼の世界に、『奴』の紅は目立ちすぎる。昼と夜は、常に別のものであるべきなのだ。入り混じることなんてありえない。そんなことは、あってはいけないのだ。
 これでパーツはそろった。だが、夜の顔に言ったところで効果はない。『奴』の性格上聞く耳なんて持たないだろう。ならば昼の『彼女』を演じているときに告げる。襲われるかもしれないが……武器を常時持っている状態と、そうでない状態では、斬りかかってくる際にブランクが生じる。その隙が大きければ、生き残れる可能性はある。
 明日、言う。昼の世界に、お前はいるべきではないのだ、と。
 きびすを返す足の裏、靴の音が重く辺りに木霊した。

(初回:2008.10.23 更新:2009.1.10)


4-1 朝と昼
3-2 夕方と夜



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