泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
3−2
夕方


 白。一面の白。壁も天井も床も、格子の向こうにある壁も扉も天井も床も、全て白。いや、こちら側の壁はやや赤黒い。鉄の棒が刺さった窓の向こう側は、憎らしくなるくらいに蒼い。
 何百人もの実験台の血が染み付き、こびりついた独房。澱んだ空気が嫌に冷やされて漂っている、死の臭いしかしない場所。
「目が覚めたかい、X‐二〇」
 鉄の檻越しから投げられた言葉に体がすくむ。革靴がコンクリートをたたいて残響を撒き散らす。
「気分はどうかな」
 どうしてお前がここにいる。そう言ったつもりだったが声ならない。喉に貼りついて出てこない。かすれた空気が漏れていく音だけが、俺の口から這い出るばかりだった。
 嫌だ。気持ち悪い。吐きそうだ。がたがたと無様に揺れる自分の指を噛んで、必死で吐き気を堪える。
「かわいそうに、そんなに怯えて」
 奴は薄笑いを浮かべながら入ってきた。手を動かそうにも動かない。体が言うことを聞かない。骨が軋んで筋肉が痙攣して、まるで別の生き物のように震えている。
 逃げなければ。逃げろ。逃げろ。体が言うことを聞かない。逃げなければ。
 唐突に訪れた鈍い衝撃が脳を揺さぶる。痛みは、遠い。遠いくせにやたらと自己主張をしてくるのは、この男と同じだ。
 爪先が腹に打ち付けられた。胃の中身が逆流してくる、背を丸めて何とか耐えた。
「かわいそうに」
 歪んだ笑みが唇に貼り付いている。本能に焼き付けられた情報がシグナルを鳴らしている。
 それなのに、体は少しだって自由にならない。
「でも大丈夫……結果が出るまでは、壊れない程度に可愛がってあげる」
 錠が開いた。開いた。開いたのに逃げられない。逃げられない。あいつらが持ってきたもの、鉄の棒と、それから、それから、それから。
「せいぜい良い結果を残しておくれよ。そうじゃなくちゃ君は、生まれてきた意味がないんだからね」
 息ができない。肺が引き攣れて唇が強張って息ができない。あれはなに。思い出せない。あれは、何をするためのものだったっけ。逃げたい。逃げられない。悲鳴も凍り付いて、出ない。腕をつかまれた。反射で引っ込めようとしても、奴の手がそれを許さない。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ、誰か、助けて。霞む目で周囲を見回しても、みんな同じ顔をして同じ表情をして笑いながらそれぞれがそれぞれのモノを手に持っていて誰も助けてくれないのなんて知ってるんだ。
 頭が棒で押さえつけられて体も踏まれて、腕に乗る体重が増えていって増えていって増えていって、熱い痛い痛い痛い痛さが全身を駆け抜けていく。声が出ない。声が出ない。声が出れば――!!



「ぅわああぁぁっ!!」
 飛び起きた。冷や汗が、震えが止まらない。踏まれていた腕は、未だに熱と痛みを残して疼いていた。強く爪を立ててうずくまる。痛みが痺れに変わるのを待つ。この数分間が憎らしい。
 風が吹いてくる。空は、俺の夢など関係ないとでも言うように広がっている。眩しい。目を細めて、太陽の消えた方向をにらんだ。
「……夢……」
 息を整える。あたりに人の気配は無い。体の重みが徐々に消え、心臓の運動も正常に戻っていく。末端部はさすがに冷え切ったままだったが、ここにいたところでどうしようもない。汗で貼りつく髪を払い、かばんを引き寄せて立ち上がる。
「……最悪だ……」
 脳に刻まれた記憶はそれを延々と繰り返して見せてくる。延々と、過去を見せ続ける。
 あいつらは確か、殺したんだったか。新しい薬品の実験の時だったか、それとももっと別だったかは覚えていない。投与されたそれを、俺の体は拒絶した。目の前が真っ赤になって、体中が軋んで、痺れて、熱と痛みとが同時に来て、気づけば相手は死んでいた。
 あいつらの名前も思い出せないほどの、遠い昔のお話だ。時々こうして発作的に思い出すのは、俺が未だそこに捕らわれている証なのか。
 舌打ちをして歩き出す。身体の所々がまだ重い。自分のものじゃないみたいだ。冗談じゃない。これは俺の身体だ、俺のものなのに。
 自分の靴音が響く。薄暗くなっていく道にある街灯は、所々が寿命を迎えて消えている。
「……嫌なこと思い出しちまった」
 ありとあらゆる実験を行われた俺の体は、いつしか人間とは呼べないほどの力を宿していた。強化および実験を繰り返し、耐久度も身体能力も、人間のそれをはるかに上回る化け物となった。が、結局メインの実験が失敗して、俺は失敗作として廃棄処分された。そうして捨てられた欠陥品は、腐ってただれた魂と空っぽの体を引きずって闇を徘徊しているというわけだ。まるで生ける屍、リビングデッドもはなはだしい。
 相変わらず人影が無い。助かる。人がいると困る。昼間に出歩く姿では、他人を殺すと厄介だ。しかしどうも人間は群れたがる傾向にあるらしい。それを目にする度に、思う。
 今すぐあの群れへ飛び込んで引き裂ければいいのに、面倒な同居人のことさえなければすぐに殺れるというに、と。
 不意に、背後で押し殺した呼吸音がした。誰かが俺のあとをつけている。命知らずがいるものだ。俺は足を止めないまま、後方の気配を探る。それにしても下手くそな尾行だ。気配も消さないで尾行する奴があるか。
 かばんに手を突っ込んで、携帯を出す。番号を押す。
「あ、もしもし」
 できるだけ細い声を出して電話口へ呼びかける。気配が近づいた。隙をついて襲う魂胆だろう。あまりに見え透いたことで、笑い出したくなるのを堪える。
「警察の方ですか。今、誰かがあとをつけてきてるんです。助けてくださいますか」
 これを気にせずに襲ってきたら、口笛吹いて褒めてやろう。
 しかし後ろの奴は、足を止めてしまったらしい。俺は光る画面を眺めた。古典的だが、自分の番号にかけるという手段だ。ビビったか、あのチキン野郎め。遠ざかっていく足音に向けて唾を吐いてやる。
 その直後、背後に再び気配が湧いた。さっきのとは違う。今度はれっきとした、裏の世界の住人のもの。
「とうとう見つけたぞ、『首切り双刃』。どれだけ変装しようが、僕の目は誤魔化せない。今日こそこの僕、『華麗なる黒き薔薇』がお前を討つ」
 噂は聞いている。図体はでかいが、小物中の小物に入る。どうでもいいが、このふざけた名前は自称らしい。普通は他人がつけるもんだろ、通り名あだ名ってのは。馬鹿か。
「『華麗なる黒き薔薇』ねぇ……んで、俺を殺してどうすんだ」
「そんなもの」
 やけに大げさな身振りで、男は髪をかきあげる。目立つ金髪、染めたのだろう。世辞を言う趣味は無いが、世辞を言ったところで同じだろう。似合わないものは似合わない。
「君を始末すれば、この僕が! 三人の最高階級暗殺者の一人に昇格となる! 『最悪の終焉』『殺し屋の糸巻き』に並ぶ人物になるんだ!」
 こいつ、馬鹿だな。元々の性格がおめでたいのか、それとも頭のつくりそのものがおめでたいのか。よくもまぁ今まで生きてこられたものだ。あぁ、しぶといだけか。ゴキブリヤロウだな。決定。
 ところで、俺は時間と労力の無駄遣いが嫌いだ。普段なら小物は一切相手にしないから、こいつも絶対素通りする。
 が、生憎と今日の俺は虫の居所が悪い。かばんの底板を外し、得物を引き抜く。今更男の顔が引きつった。
「そうかそうか。ところで俺今日夢見が悪くてよぉ。イライラしてんだ」
 無視して、詰め寄る。なにやら言おうとしているが、未練がましい辞世の句など聞きたくは無い。
「お前殺しても、ストレス解消にゃならねぇだろうが」
 相棒を、順手に一振り逆手に一振り。顎をえぐり頚椎を穿ち、
「――一瞬の絶頂は、感じさせてもらうぜ」
 力に任せて引き裂いた。凍りついた目も、表情もそのままに、頭は地面へと落ちた。
 ぞくりと背筋を駆け上る快楽、に浸ったのもつかの間。鋭い痛みが首に生まれた。浅くではあったが、喉を斬られた。持っていたナイフだろう、痙攣した腕が偶然喉を斬ったらしい。
「……クソ、往生際の悪ぃゴキブリヤロウが……」
 どくどくと熱が集まってくる。拭っても、血は止まらなかった。多少の痛みを伴うが、呼吸はできる。放っておけば治るだろうが、面倒な処理をしなければならない。
 喉の傷を押さえたまま、俺は歩いた。ついていない。あんな夢を見るからだ。俺が俺でなくなった、あの頃の夢を見たからだ。
 重くなる足を引きずりながら、俺は暗い夜道をひたすらに進んだ。

(初回:2006.7.7 最終訂正:2008.10.23 更新:2009.1.10)


3-3 昼と、朝と夕方
2-1 昼と、昼



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