第一章
其ノ1
『転校生』
(てんこうせい)


 どこかの街並みの中をただ歩いていく。誰かの名前を呼びながら、ひたすら足を運んでいく。胸が張り裂けそうだ。いつも近くにいてくれた彼女がいない。
 ここ数日、歩き詰めだ。傷だらけになった自分をいたわってくれる人は、今までに何人もいた。少し休めばいいのに、と憐れむ人もいた。しかしそうしている時間はないのだ。
 今どこにいるのだろう。今何をしているのだろう。愛しき女神、もう会えないのだろうか。せめて、せめてもう残りわずかであろう自分の命が尽きるその前に、もう一度だけでいいから会いたい。
 せめて、もう一度。再度愛する名を呼んだ。

* * *

 一瞬、視界に星が散る。次いで額と尻に鈍い痛み。とっさについた手のひらにも同様に痛みが走る。
「うー……痛ってぇ……」
 通行人の視線が背中に刺さってくる。おいしいと思うには、少々修行が足りなさ過ぎる自覚があった。
 耳が自然に火照ってくる。顔が真っ赤になっているのだろう。挙動不審になりつつ制服の埃を払い、かばんを引っつかんで道を急ぐ。
 向かう先は、公立日照(にっしょう)高等学校。山に囲まれた場所にある、何の変哲も無い進学校である。簡単に紹介しようとすれば、剣道や弓道といった武道部が少々有名なくらい。それ以外はどこにでもあるような共学校としか言えない。
 ちなみに自分はそこの二学年、弓道部。一応部のエースだが、それ以外は本当に大して目立たない、自称も他称も地味目な印象だろう、ごくごく普通の少年である。ついでに名前は月島光矢(つきしま こうや)。ちょっと変わった読み方をするが、そこ以外に突っ込まれる要素は本当に少なかった。
 校門をくぐり廊下を抜け、教室に入る。席につく光矢の周りに、悪友が二人陣取ってからかい始める。
「よっ、コーヤ。何かボロボロだなぁ。考え事しすぎだぜ? 五月病? 好きな女の子でもできたのか? こーの幸せ者っ」
 水上清志が、光矢の頭をつつきまわしながらけらけらと笑う。光矢はその手を払い、否定した。
「違うってば。……最近変な夢見るんだよ」
「ゆめぇ?」
 最近、光矢はあることが気になっていた。四月に入ってからほぼ連続で見ている夢のことである。どこかの街の中を、誰かの名前を呼びながら歩き回っている。そんな夢だった。
 最初は大して気にもしていなかったのだが、三日四日と続けてみると、さすがに不思議になる。今日も全く同じ内容だった。ここまで徹底していると、逆に気になるのが人間だ。と光矢は思っている。
 できるだけ詳しく夢の内容を話すと、もう一人の悪友である森岡学は腕を組み、真面目な顔で、
「……何かに取り憑かれてるんじゃねぇの?」
「いや、そんな馬鹿な」
「水穂さんには話したのか?」
 水穂は光矢の三歳離れた兄だ。丁度三年前、風邪のウイルスが目に行ってしまい盲目となってしまった。現在はそれを押して、母の知り合いを頼り花屋で働いている。
 両親を事故でなくした光矢にとっては、ただ一人残った家族でもあった。
「いや……これ以上心配かけたくないから」
「ま、いいんじゃねーの?」
 清志は明るく笑い飛ばす。
「そんな大したことじゃねーって! 深く考えても仕方ないだろ」
「うーん、そんなあっさり片付けていいのかわかんねぇけど」
 光矢が眉を寄せて呟いたとき、教室の前の扉が擦れて開く音がした。清志は慌てて、学は比較的落ち着いて自分の席に戻る。
 ひょろりとした担任が入ってくる。その隣には見慣れない女の子がいた。
 小柄で色白な女の子。髪は淡く自然な茶色で、首の両脇できっちりとそろえている。前髪は長く伸ばされていて、目元が見えなかった。唇は緊張したように引き結ばれている。
 先生が黒板に名前を書いた。”天津那月”。
「あー。今日からこの学校に通うことになった、あまつなつきさんだ。えー天津さんは、去年までイタリアの学校に通っていましたが、都合によりこちらの親戚の方のお家から通うことになったそうですー。みんな意地悪しないで仲良くするんだぞー。来年はみんなで受験だからなー。それじゃ、天津さん一言どうぞ」
 促されて、天津那月はぺこりと礼をした。
「イタリアからこちらに来ました。天津那月です。これからよろしくお願いします」
 細いが澄んでいる声だった。それがとても印象的で、そしてどこか懐かしく思えて、光矢は再び夢に意識をめぐらせる。
 拍手が沸き、彼女の口が安心したように綻んだ。
「そうだな……天津さんの席は……おい月島! 隣、空いてたよな?」
 ぼんやりと夢のことを思い返していた光矢は、飛び上がるかと思うくらいに驚いた。実際少しばかり飛び上がったかもしれない。椅子がやたら大きな音を立ててずれた。
「は、はいっ!?」
 声が裏返り、クラスの笑いを誘う。先生は呆れたように質問を繰り返した。
 光矢の席は一番奥の廊下側。五月に入ってからの席替えでここになった。女子の人数が一人少ないため、隣はいつも空席であった。
「あ……はい。空いてます」
「よし。じゃあ天津さんの席はそこな。月島、いじめるなよー」
 那月がゆっくりとした足取りで近づいてくる。まだ緊張しているのか、動きが少し硬い。
「俺、月島光矢。よろしくね、天津さん」
 安心させるように笑顔を向けると、彼女もそれに応えて微笑んでくれた。
「よろしくね、月島君」

(2006.9? 最終訂正:2008.2.12)



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