第一章
其ノ2
『守護者』
(しゅごしゃ)


 二階にある自室のベッドに身を投げて、光矢は重く息をついた。
(……いきなりそんなこと言われても、信じられないよ)
 女性の言葉が、脳の中で繰り返される。
『あなたは私の恋人、エンデュミオンの魂を持っているの。私はあなたを眠らせたとき、私の神としての魔術の力が、どういうわけかあなたに移ってしまった。そして今はそれを、私の兄が狙っている。先ほどのキルケは、兄が差し向けた刺客よ』
 冗談をいっている風には見えなかった。彼女の言葉は真剣そのものだった。
『あなたをずっと探していたの。あなたを、守るために』
 だからこそ、余計に理解できなかった。
(出会っていきなりそんなこと言われたら、正気かどうか疑いたくもなるよ)
 たとえ相手が自分を知っていたとしても、自分にとっては見ず知らずの人なのだ。どうして言われたことを鵜呑みにできるだろう。正直に言ってしまえば、前世がどうだなんて馬鹿げている。真剣に頭の心配をしたほうがいい。
(でも)
 目を閉じる。天井が消え、蘇るのは彼女の顔。信じられないと告げたときに彼女が浮かべたのは、深い悲しみだった。
(……何でだろう)
 それを目にした瞬間、光矢の胸が言いようも無い切なさに満ちた。その感情に対して戸惑うのもまた、光矢自身であった。
(……どうして……)
 彼女の声を聞いた、あの瞬間感じた懐かしさは一体何なのだろうか。たとえどんなに否定をして拒絶をしても、それだけはなぜか否定しきれない力を持っているように思えてくる。
「もう……何なんだよ」
 小さく吐き出した言葉は、少々こもった空気と共に漂った。
 と、耳に控えめなノックが響く。
「光矢……?」
 続いて兄、水穂の柔らかな声が聞こえる。ベッドから起き上がり、慌てて戸を開けた。彼も驚いたのだろう、瞳を閉じたままわずかに身体を後ろに引く。
「あ、兄貴! どうしたんだよ、急に」
「いや……帰ってから、お前部屋から出ていないだろ? だから少し心配になって」
 それだけ長い時間部屋にいたのか。時計を見ると、午後の九時を回っていた。帰ってから一時間半も閉じこもっていたことになる。
 女性のように優しい顔立ちには、不安そうな色がにじみ出ていた。
「学校で何かあったのか?」
「い、いや全然! いつも通り元気だって! あ、そうだ、今日転校生が来たんだよ。降りて話そう」
 心配そうだった水穂の顔に、ようやくいつもの微笑が戻った。内心で、光矢は胸をなでおろす。
(このことは、言わないほうがいいな)
 先に立って階段を下りる兄の背を眺めながら、光矢は思う。
(これ以上心配かけちゃいけないし)
 親が突然の事故で亡くなってから、水穂は以前にも増して心配性になった。親戚が学費を出してくれてはいるものの、家が遠いため、生活面ではどうしても頼ることができない。保護者としての責任が、彼の性格に拍車をかけているのだろう。
 だからこそ、光矢は言うことをやめた。優しい兄に、これ以上心労をかけたくない。特に、こんな夢のような出来事であるならなおさらである。
「紅茶でも飲もうか」
 のんびりと言う水穂に返事を返し、光矢は階段の最後の一段を下りた。

***

 どこかの街並みを走る女性がいた。見事な銀色の髪を風に遊ばせながら、白い足から紅の雫を流したままで走っていた。
「どこ」
 涙の粒が日に照らされる。
「どこにいるの」
 見知らぬ人間の中を抜けていく。走る。走っていく。
「返事をして!」
 力尽きて倒れた。驚いて助け起こす人に、彼女は息を切らして尋ねる。
「人を、探しているんです。私の大切な、大切な人なのです」
 宝石のような涙が白い頬を伝う。澄み渡った蒼い瞳が、悲しみに濡れた。
「金色の髪の、美しい人を……知りませんか」
 返事は無い。彼女は身を震わせて泣き崩れた。
「あぁ……あぁ……!! お願い、どこにいるの……教えて、エンデュミオン!」
 叫ぶ声だけが虚しく木霊する。

***

 最悪だ。光矢は朝食の席についてため息をついた。
 昨日の夢を見て泣いたのだろうか、起きると頬に涙が残っていた。当然目も痛いし、頭もぼんやりしている。
 追い討ちをかけるように、水穂の盲導犬のヘクトルが顔を舐めまわしたのだからたまらない。唾液でべたべたになった顔を綺麗に洗うのにも苦労した。
(普通顔舐めて起こすのって聴導犬とかの仕事じゃなかったっけ……何でいつも俺ばっかり)
 今度は別の意味で、ため息をつく。
「光矢」
 ふと手を止めて、水穂が声をかけてきた。
「やっぱり、何かあったのか?」
「え? や、やだなあ。何でもないって」
「でもさっき、ため息ついてただろう?」
 水穂は視力を失った分だけ、第六感も含め鋭敏になっていた。光矢のついたため息も、彼の耳はしっかりと聞き取ったのかもしれない。
「本当に何もないよ。心配しなくても平気」
「でも……」
 言いよどむ水穂の言葉を繋ぐように、ヘクトルが小さく鳴いた。
 ヘクトルは賢い犬だった。警察犬として知られるジャーマンシェパード、水穂が初めての主という若い盲導犬だったが、その賢さは群を抜いていた。犬というよりも人間のような、そんな犬である。
 今のように、何かを言いたそうに鳴くこともしょっちゅうあった。水穂の気持ちを汲んだのだろう、黒い目がじっと光矢に注がれている。
「兄貴は心配しすぎなんだよ。俺は大丈夫だからさ」
 ヘクトルの視線を振り切るように席を立つ。それから話題を変えるために、もう一言つけ加えた。
「そうだ。兄貴、ヘクトルの起こし方、変えたほうがいいと思うよ。もう顔中ベッタベタになるから嫌なんだ」
 ジャーマンシェパードは普通、人に馴れないと言われている。が、ヘクトルはとても人懐こかった。だからなのか、彼はしょっちゅう寝ている光矢の顔を丹念に舐め、にらみつけても嬉しそうに尻尾を振るのである。
「でもそうしないと、光矢が起きなくて遅刻するって理解してるんだ。そうだろう? ヘクトル」
 笑いながら水穂が尋ねると、ヘクトルは嬉しそうに一声吠えた。
「やめてくれよ。洗うの大変なんだからさ」
「ははは、俺はいいと思うよ。俺の代わりに起こしてくれているから大助かりだ」
「ちぇ」
 苦笑いをしながら、時計を見る。時間だ。
「兄貴、ごめん。もう行くから」
「行ってらっしゃい。車には気をつけるんだよ」
 光矢は食器を片付けてから外に出た。昨日の出来事がまるで嘘のように、いつも通りの風景がある。
 風と光が目にしみる。充血しているかもしれないな、と思った。
(エンデュミオン、って言ってた)
 昨夜セレネが口にした名前を、夢の中の女性が呼んでいた。以前から繰り返し見ていたそれと、どこか流れが似ている。愛する誰かの名を叫びながら彷徨う、切ない幻影。
(夢のことじゃないか)
 一度頭を振り、考えを中断する。
(偶然だ。こんなの……すぐ見なくなる)
 一瞬、胸にかすかな痛みがよぎった。痛みにも似た感情かもしれない。
(全部……偶然だ。きっと、最近会った誰かに似てたんだ)
 せりあがってくるそれを押し込めて、光矢は歩き出す。
(そうに違いない)
 心のずっと奥のほうで、誰かが否定している。違う、確かにセレネは自分と親しかったのだ、と断定している誰かがいる。
 しかし光矢は、あえてそれを無視した。聞こえないふりをして、響く声に背を向ける。
(俺がそんな、物語みたいな話の中にいるわけがない)
 まだ小さな痛みを訴える胸を抱え、光矢は足を急がせて学校へと向かった。

(2006.9.25 最終訂正:2008.2.12)

其ノ3「協力者」

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