第一章
其ノ3
『協力者』
(きょうりょくしゃ)


 あれから何事も起きないまま、一週間が過ぎていった。光矢の夢も以前見ていたものに戻り、相変わらず連日で見続けていた。
 ここ数日で変わったことといえば、那月がクラスに少しずつ打ち解けてきたこと、そして部活に励む姿が見られるようになったことであろうか。それ以外は、光矢が謎の少女に襲われる前と全く変わらなかった。

 部活に行く前に、光矢は図書室に向かうことにした。以前読みたかった本が貸し出されていたため、今あるかどうかを確認したかったのだ。
 扉を開いて入ると、独特の空気がまとわりついてくる。その中を静かに歩きながら、光矢は目的の本を探した。
 と――どこかで感じた気配がした。セレネや那月に対するものほどではないが、それでもどこか懐かしい気配であった。雄雄しく荒々しい獣が檻に閉じ込められている、そんな空気が流れてくる。
(……何だろう)
 注意深く進んでいくと、噂に聞く人物が目の前にいた。目立つ真っ赤な髪を見た途端、光矢は身がすくんだ。
 剣間武(つるぎま たけし)。一年先輩に当たるが、留年しているため二つ年上になる。この辺では有名な不良で、目立つ髪の色からついた二つ名が『紅の獅子』(こんな名前を付ける辺り、何となくそういう名前に憧れる男子の心内がある、と光矢は勝手に思っている)。目を付けられたら最後、獅子が獲物に喰らいつくように、相手を追い詰めるという噂がある。
 先生達ですら、学校で彼に会うと避けていくほどの問題児だった。
(な……何で、ここに)
 彼のいる辺りに、目当ての本の背表紙がある。意を決して近寄り、他の本を探すふりをしながら様子をうかがった。
 視界の端にちらちらと映るのは、彼が首につけているチョーカーの飾りだろう。銀色の十字架らしい。蛍光灯に照らされて、存在を主張している。指定のネクタイはつけていなかった。
 さぞや凶悪な顔をしているのかと思えば、意外にも整った精悍なつくりをしていた。耳にはシルバーのカフスをつけ、喧嘩をやりあってできたのか、右頬に白いテープが貼ってあった。
(こっち見ませんように……!)
 祈るような思いで、光矢は本を手に取った。それから半ば駆け足で離れる。気づかれてはいないようだった。途中で振り返って確認し、安心感に力を抜く。
(よかった……まあ、俺地味だから、目にもつかないか)
 カウンターに向かいながら思い、思ってから少し虚しくなる光矢であった。

 部活を終え、光矢と那月はそろって校門を出た。空はもう夜の色、電灯が点く時間帯になっている。
「天津さん、上手になったよね」
「そ、そんなことない」
「そんなことあるよ。部長がすごく褒めてたよ。こんなに綺麗な形で引ける人はそういないって」
 那月は下を向いてしまった。照れているらしく、頬が赤い。
「そんなことないってば」
「いやいや、そんなことあるよ」
「だから……そんなこと……」
「あるって」
 そんなやり取りを三回ほど繰り返してから、ふいに那月が短く声をあげた。
「どうしたの?」
「部室に忘れ物してきちゃった……私、取ってくるね」
「一人で平気?」
「大丈夫」
 小走りで校門へ戻っていく背中を見送り、光矢は塀にもたれかかった。辺りに人はいない。
 突然、図書室で感じた空気が湧いた。全身から血の気が引いていく。恐る恐る周囲をうかがえば、街灯の下に立つ紅髪の青年を見つけた。彼のくわえるタバコの火が、薄暗い中にくっきりと浮かび上がっている。
「よォ」
 にやりと笑って、剣間武は軽く手を挙げた。
「つ……剣間……先輩……」
 全身から汗が噴出すのを、光矢は硬直した体で感じる。
「な、何か、用でも」
「ハッ。俺の用なンざ、一つしかねぇだろ」
 どうも彼は、『ん』の発音が若干鼻にかかる癖があるらしい。そこの発音だけが妙にくぐもって聞こえるが、そんなことを悠長に分析しているほど、光矢には余裕がなかった。
 剣間武の用。それはつまり、光矢と喧嘩をしに来たということ以外考えられない。勝敗など目に見えている。
 光矢は必死で言い逃れを考えたが、次の言葉で全て四散してしまった。
「ただの喧嘩はしたくねぇンだ」
 口元に不敵な笑みを貼り付け、彼は言う。
「特に、神サマの力を持ってる奴との喧嘩はよ」
「な……」
 不覚にも、動揺してしまう。こちらの狼狽える様子を、彼は目を細めて眺めている。
「そういう力を持つ奴ァすぐ分かるンだ。神サマの気配っつーのは、同じ神サマじゃねぇと感じられねぇンだよ」
 タバコの煙を一度に吐き出し、一歩ずつ近づいてくる。逃げようにも、足が縫い付けられたように動かない。逃げられない。
 光矢の二メートルほど手前で立ち止まると、彼はくわえていたタバコを地に落とした。紅い火がぽつりとだけ灯っている。
「っと。自己紹介がまだだったか。知ってるたぁ思うが、一応な」
 靴のかかとでその火を消し、彼は自分を親指で示す。
「俺ぁ剣間武」
 笑みをますます深めて、続けた。
「――ギリシア神が一人。戦の神、アレスだ」
 首を飾る十字架に指をかけ、半ば引きちぎるように手にとって前へかざす。十字架は一瞬だけ、鋭利な輝きを帯びた。
 信じられないことが起こった。十字架が姿を変えていく。手のひらに収まるほどだったそれが、先端は鋭く尖り、下部はなお伸びて、大柄な持ち主の身長を上回った。重たそうな銀色のそれは、もはや槍と言って差し支えない。
 それを片手で振り回すと、彼は穂先を光矢の喉元へつきつけた。
「さぁ、楽しく殺りあおうじゃねぇか」
 その声に、言葉に、光矢は背筋が凍りついた。
 確かにこれは剣間武のものだ。弱冠低くなっているのは、声の出し方の問題だろう。しかし同時に、全く別人の声でもあった。響きに戦うことができる歓喜、いや、殺し合いに対する悦びが混在している。瞳にも笑みにも、それが色濃くにじみでている。
 ここにいるのは剣間武であって、彼ではない。光矢は強い恐怖を覚えた。
「……ッ!」
 槍が体の左側を通りすぎる。石の破片が飛び散り、体を激しくたたいていく。槍についた皮ひもが、風圧に重くたなびいた。
「どうした。かかってこいよ、小僧」
 槍を地面から引き抜き、男は言う。アスファルトの道は深くえぐれ、無残な姿をさらしていた。
「俺ぁ気が短ぇんだ。やり返してこねぇ奴と殺り合っても、イラつくだけなんだよ」
 突如胸倉をつかみあげられた。ネクタイが締め上げられて息が詰まる。常人では考えられないほどの力だ。
「オラ、死ぬぜ? 俺を楽しませろよ」
 塀に投げつけられ、したたかに背中を打った。咳き込む余裕すらない。慌てて体をひねると、先ほどまでいた場所に槍が突き立った。
「うわっ!」
「ハデスの顔でも拝みてぇのか、小僧」
 連続で繰り出される突きをがむしゃらに避ける。効率のいい避け方など知るはずもなく、相手は急所を外すギリギリの部分に攻撃を仕掛けてくる。
 確実に体力が削られていく。額から汗が伝う。目に入った。一瞬気がそちらに取られる。戦の神が見逃すはずが無い。
「この勝負――俺の勝ちだなッ!!」
 高らかに宣言し、銀の切っ先がこちらに目掛けて放たれた。もう駄目だ――諦めて目を閉じかけた、刹那。
 金属同士が強くぶつかる音が、耳を突いた。
「!?」
「な……何だと!?」
 さらりと風になびく白金の髪は、以前見たときと変わらない美しさだった。細い腕は戦神の攻撃を受けているにも関わらず、微動だにしない。
「この人を殺させはしないわ」
「お前、セレネか? お前、力をそんなに失ってどうした」
 刃を交えたまま、会話は進む。
「話せば長いわ。それよりも、どうしてこのようなことを? 兄の命令? だとすれば容赦しないわ」
 息巻くセレネを制するように、彼は片手を挙げた。
「まぁ待て、早まるな。なるほど、お前が一枚噛んでたのか。だったら納得できる」
 槍が引かれる。セレネも鎌を下ろし、いぶかしげに尋ねた。
「……どういうこと?」
「やはりお前と同じ力を、その坊主から感じるな。最初は誰か分からなかったが、神の力を感じたからどれだけ強ぇのか知りたかった。ま、力試しみてぇなもんさ」
「殺す気だったくせに……」
 光矢が小さく呟くと、どうやら聞こえてしまったらしく、アレスがにらみつけてきた。視線を逸らしてやりすごす。
「ということは、あなたと兄は関係ないということね?」
「そういうことだ」
 セレネはしばらく口を閉ざし、何かを考え込んでいたが、やがて静かに切り出した。
「……アレス。お願いがあるの。私に協力してもらえないかしら」
「何?」
「今は一人でも味方が欲しいの。私には神としての力はほとんど無い。だからもしも、あちらに十二神の一人でも加わっていた場合、勝ち目は無きに等しい。彼を守りきれないかもしれないの」
 黙っていたアレスが返事を返した。
「お前らのことなんざ知ったこっちゃねえ」
 セレネが小さくうつむく。
「が……あっちに強いのがいるって言うのなら、話は別だ。協力してやってもいい」
「アレス……! ああ、ありがとう」
 彼女は顔をあげ、感謝の意を表してか、胸に手を当てた。
「別に感謝されるようなことはしてねぇよ。ま、俺の殺りあいの邪魔にならねぇように、せいぜい努力することだな」
 遠くから陸上部の挨拶が聞こえた。部活終了、放校の時間だ。
「俺は戻るぜ。小僧。足手まといになったら殺すぞ」
 槍が縮み、元の小さな十字架に戻る。彼がチョーカーを首に巻く間、セレネがこちらへと体を向けた。
「妙な気配を感じたら、彼に……アレスに言うといいわ。私はこれから、あちらの勢力の調査をしてくる。傍についていてあげられなくなる……これを渡しておくわね」
 ひやりとした彼女の手が、光矢の手に触れる。何かを握らされた。指を開くと、月色の鎖がついた水晶玉だった。
「何かあったら、これを持って私を呼んで。通信ができるようになっているから。……ごめんなさい、こんな大変なことに巻き込んでしまって。勝手なことを、何も知らないあなたに押し付けてしまって」
 哀しげな呟きの後に、白い手がそっと離れた。澄んだ輝きを放つ石だけが、光矢の手に残される。
「でも、きっと私が守ってみせるから。だから」
 光矢はふと我に返った。頭が急速に冷えていく。
 どうしてこんなことになっている? 自分は何も知らないのに巻き込まれているのか? 知りもしない奴のせいで、命の危険にさらされているということか? じゃあ結局、自分はほとんど関係ないのではないか。
 たどり着いた答えは苛立ちとなり、そのまま口をついた。
「あなたが守るって言ってるのは、俺じゃなくて俺の中にいるって奴でしょう」
 口をついて出た言葉は、思っていた以上に冷たい音だった。
 セレネが辛そうにうつむいてしまう。
「やっぱりそうなんじゃないですか。結局俺は、あなたの勝手で巻き込まれたってことですよね。俺はほとんど関係ないってことになりますよね」
 答えは返らない。
「それにあなたを否定するようで悪いんですけど。俺の中にいるのがどうとか言うけど、俺があなたの恋人である証拠が無いですよね」
「でも! ……あなたには、私の月のあざがある」
「そんなことだけで、信用しろっていうんですか? 大体、こんな御伽噺のようなことを信じろって言うほうが無理なんですよ。しかも俺は巻き込まれただけ? 冗談じゃない」
 頭に響く何者かの声に蓋をしながら、光矢は吐き捨てた。
「おい、やめろ。セレネ、誰か来る。お前はもう行ったほうがいい」
 それをほぼ遮る形で、アレスがセレネを促す。彼女は黙ってうつむき、肩を震わせていたが、聞き取れるか否かほど弱々しく謝って闇に消えた。

(2006.9.29 最終訂正:2008.2.12)



其ノ2「守護者」

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