第一章
其ノ3
『協力者』
(きょうりょくしゃ)
セレネがいなくなるのを見計らったように、光矢の肩をつかむ手に力がこもる。 「……って、いた、痛たたっ、痛たたたた!! ちょ、は、離してください!!」 悲鳴をあげて屈強な腕を振り払い、勢いでそのまま前に転ぶ。はいつくばったまま顔をあげて、気づいた。 灰色に照らされた地面に、幾つかの染みが残っていた。セレネのいた場所なのだろう、彼女の立っていた位置に、点々と散らばって滲んでいる。 (……少し、言いすぎたかな) ほんの少々の罪悪感が全身を包む。タバコのにおいが鼻をかすめて、光矢はのろのろと体を起こした。 「チッ。面倒な奴預かっちまったぜ」 毒づきながら、アレス……否、武が目をすがめた。皮ひもはたくましい首に巻きつき、銀の十字架は元の通りにきらめいている。 「……嫌ならやめればいいじゃないですか」 「あーン? 聞こえねえなあ。俺ぁ喧嘩さえできりゃそれでいいンだよ」 光矢は息をついて首を振った。 「……もう勝手にして下さい。俺の知ったことじゃないですから」 「おう。ンじゃあ勝手にしてやるよ」 とげを含んだ光矢の答えにも、全く動じた様子を見せない。武は軽い調子でそう言うと、ふいに腰をかがめた。そのまま元の姿勢に戻し、光矢の頭上を見ている。手には拾ったのか、石が握られていた。 「……何してるんですか?」 「勝手にしてンだよ、てめーには関係ねぇだろが」 口調は変わらないまま、武は鋭く石を放った。石が彼の手から消えると同時に、光矢の目の前に大きな影が落ちてくる。 「な……ッ!?」 影はすらりとした青年だった。180センチはある長身が、音も立てずに着地する。闇に溶ける黒衣をまとっており、左の頬に小さく紅の印がつけられていた。 「偵察かよ、ご苦労なことだな」 返事は無い。長い黒髪が、わずかな風に遊ばれてなびいている。よく見れば、彼の左目にかかっている前髪一房だけが白く脱色されていた。 目立つ特徴があるにも関わらず、気配は無きに等しい。 「殺り合う気か?」 「命令を受けていない」 よく通る低い声が耳を打つ。平坦で何の感情も聞き取れない。視線がこちらに向けられるが、そこにも感情は見出せなかった。凍るような冷たい瞳に、光矢は思わず身震いする。 「月島光矢を発見。我が主に報告する」 黒衣の青年はそう呟くと、次の瞬間にはいなくなっていた。 「やれやれ。また面倒にしやがって」 にらむ武に、光矢は肩を落としながら繰り返す。 「だから、嫌ならやめればいいじゃないですか」 「馬鹿野郎、あんなに強い奴がいるンなら、喧嘩を買わねえほうが損だぜ」 下校時刻になったらしい。放送が校内から響いてくる。それにあわせ、生徒が校門から次々と出て帰路につく。大半は武に気づき、足を速めて通り過ぎていった。武はそれに気づいていない。 「月島君、ごめんね。遅くなっちゃって」 と、軽い足音がした。息を弾ませて那月がやってくる。光矢はぎこちなく笑みを向けた。 「あ……いや、大丈夫。それよりも見つかった? 忘れ物」 「鍵開けてもらって、でも無くって……教室まで、それで見つけて」 息を落ち着かせるため、彼女は何度か深呼吸した。それから武に気づき、光矢に尋ねてくる。 「月島君、えっと……あの、お知り合い?」 「え? あ、えーっと……」 まさか絡まれてましたとは言えない。どもっていると、頭が押さえつけられた。そのまま武が前に進み出る。 「どーも。三年の剣間武ッす」 「あ、は、はいっ。イタリアから帰国してきました、天津那月です。よろしくお願いします、先輩」 丁寧に頭を下げる那月に、武が笑いかける。強面の割りに人懐こい笑顔だからか、彼女も安心したように微笑んだ。 「よかった、怖い人なのかな、って思ったんですけど」 「実際怖いよ、現に今だって」 ぼやいた光矢の頭に、再び手が置かれた。そのまま力が加えられる。 「あーン? 何か言ったかァ?」 依然顔は笑ったままだ。 「いでででで、何も、何も言ってませんッ!!」 「仲良しなんだね、月島君」 「違う違っ……いててて、いてててて!!」 ギブアップ、と手をばたつかせれば、武はようやく光矢を解放した。かと思えば、そのまま電柱の影に手を突っ込み、大きなかばんを引っ張り出す。 「……何してるんですか」 「いや。実は今日学校追い出されたからよぉ」 「それって退学処分……」 言いかけた言葉は拳で遮られる。 「さて、ンじゃあ帰ろうぜ」 光矢たちと同じ方向に歩き出す不良の背を眺めながら、光矢はがっくりと肩を落とした。 「……で」 「おう」 「先輩、家どこなんですか」 那月と別れたあと、光矢は隣を歩く人物に問いかけた。 「ん? ああ、勘当されたから家ねぇよ」 「……はい?」 今不吉な言葉が聞こえた気がする。嫌な予感を覚えつつ、光矢は尋ね返した。 「……あの、勘当?」 「おう。親から縁切られたっつーか。いきなりでよぉ。もう昨日だぜ、昨日。ったくあのクソジジイ、退学ぐれえでギャーギャー騒ぐなっつーンだよ。ンで、出てけって言われたからこっちから出てきてやったンだ」 退学処分となったせいで、親に勘当されてしまったということか。何ともとんでもない青年である。 「いや、退学になったら誰でも騒ぐと思います……」 とりあえずツッコんでから、光矢はあることに気づいてしまった。 出ていけと言われたから、出てきた。肩には大きなボストンバッグ。嫌な予感が背骨を伝って登ってくる。光矢は聞きたくなかった質問を、あえて口に出してみた。 「……あの……それってつまり……俺の家に来るってことですか……?」 「ったりめーだろ? 大体セレネとの取引があるンだぜ、てめぇまさか嫌だって言うンじゃねえだろうな? え? 断ったらどうなっか分かってンだろうなあ」 鬼の形相で凄まれる。光矢は喉まで出かかった言葉を必死で飲み込み、強張る首を無理やり横に振った。 「ま、断ったらどうなるかっつのは冗談だがよ。まあ、アレだ。一応家賃も払うし、手伝いもしてやっから、気にしねぇでいいぜ」 (気にしないのはあんただけだァァァァ!!) とは口が裂けても言えない。豪快に笑う武を横目で見、光矢は重くため息をついた。 そうしているうちに家に着いた。出迎える兄に大まかな説明をし、武を紹介する。武はどうやら水穂を知っていたらしい。顔を合わせた途端、嬉しそうに声をあげた。 「あっ! 俺知ってるぜ! あンたバスケ部で『日照のカマイタチ』って呼ばれてたよな!? 俺実はファンだったンだよ!」 水穂は顔を真っ赤にして額を押さえた。照れている時の癖である。 「いや……もう、恥ずかしいな……そんな、その話はやめてくれよ」 確かに、そんなあだ名で呼ばれていたこと自体が黒歴史である。少なくとも自分がそう呼ばれていたら、まず間違いなく名前をつけた奴を張り飛ばす。 (そりゃ恥ずかしいだろうよ……思い出したくない過去なんじゃないのかソレ) 心の内側で呟きながら、握手も求める武を押し留め、光矢は武に上がるよう勧める。 「これからよろしく頼むぜ、水穂にぃさん」 「ああ、こちらこそ」 不満げなヘクトルに、今ばかりは同感である。不満というよりはむしろ不安のほうが大きい。 (あぁ……何で学校の問題児がうちに転がり込むんだよ……もうホント意味わかんねーよ……) 泣きたいような笑いたいような、何とも微妙な心持で、光矢は兄と話しこむ突然の同居人を見つめていた。 *** 誰もいない廃墟で、ぼんやりと中空を見上げる。月は無かった。薄暗い中、自分ただ一人だけだ。 胸が痛む。愛おしい彼女の姿が無い、それだけで苦しいのに。 足はもう使い物にならなかった。これでは彼女を迎えにいけない。それがとても悔しく、哀しかった。 ああ、愛しい女神よ! もうこの腕は君の体を抱きしめられないのだろうか? もうこの耳は君の声を聞くことができないのだろうか? 心にはただ悲しみと絶望しかない。ああ、私の女神! 今君はどこにいるのだろう…… 空を仰いだ。女神の証は見えず、闇はいよいよ深まるばかり。 涙が頬を濡らしていく。もう会えないのだろうか。目を閉じる。彼女の笑顔が見えた。 名前を唇に乗せて、返事を待ち続けた。 (2006.9.29 最終訂正:2008.2.12) |