第一章
其ノ4
『道違者』
(みちたがえしもの)
中間テストに入った。三日間は部活も無く、早めに帰ることができる。 「うぅっ……数学が一日目だなんて酷すぎる」 暗算なら自信がある。が、何ちゃらの公式だのやられると全く駄目になるのだった。xがyがどうこうされても困るのである。 「難しかったね……私もほとんどできなかったから、大丈夫だよ」 半泣きになっている光矢を、那月が慰める。とんとんと軽く肩に触れ、大丈夫と何度も声をかけてくれた。嬉しさと惨めさで、ますます涙腺が緩んでしまう。 「あ、天津さん……最終日の英語、後で教えて……俺、英語壊滅的だから、いい点取らないと今度こそ先生にどやされる……」 「うん、いいよ。その代わり、あの……生物、教えてくれる? どうしても覚えられなくて」 了解の意を込めて手を振ってから、光矢は改めて涙を拭う。ああ何ていい子なんだろう、だの、どこかの誰かとはえらい違いだ、だのと考えていると、背後から突然声が飛んできた。 「あのー! あのー、もしもしっ! ちょっと! そこの道行くおにーさんっ!」 続いて慌しい足音が迫る。首を巡らせて声の方を見やれば、息を弾ませてやってくる一人の少女が目に入った。 深緑のワンピース、下に着ている白いブラウスが眩しい。紅のリボンタイはきっちりと結ばれ、胸元を飾っている。胸ポケットには名札、白く太陽の光を反射している。光矢にとっては懐かしい、山陰(やまかげ)中学校の女子制服だ。 「やっと追いついたぁ」 肩で大きく息をつきながら、少女はアイドルにも似た笑顔を浮かべる。どこかのティーンズ雑誌に出ていても全く違和感が無い、典型的な美少女だった。柔らかなこげ茶の髪を丁寧に編みこみ、腰にまで垂らしている。動物の尾のようなそれは、少女の呼吸に合わせてかすかに揺れていた。 「何か用かな?」 「これ」 尋ねれば、少女は手に持っていたものの埃を払い、光矢に差し出す。 「お兄さん、落としたでしょ」 「あ、俺のハンカチ。ありがとう」 「いえいえ、どういたしまして」 光矢にハンカチを渡した後、少女は驚いたように目を見開き、口元に手を当てた。芝居がかった一連の動作も、この娘では不思議と自然に感じられる。 「あらら、もしかしなくても私、お邪魔虫になっちゃってる」 何を言われたのか理解できず、光矢は一瞬面食らう。 「彼女さんとらぶらぶーしてたのにね」 ようやく分かった。頬に血が集まってくるのが、嫌でも意識できた。 「え、いや、えっ!? ちょ……な、何でそうなっちゃうんだ!? 彼女はその、転校生で俺はただの、あのッ」 言い訳をしようとすればするほど、頭の中が混乱して言葉に詰まる。自分でも一体どうしてこんなに動揺するのか、いまいちよく分からなかった。女の子と歩いていて、恋人同士だといわれたことが無いからだということは、痛いほどに自覚できるのだが。 「あらら、顔真っ赤よ、お兄さん」 少女は唇に人指し指を当てて、悪戯っぽく片目をつむった。 「余計な一言だったかしら、ごめんなさいね」 それから、まるで逃げるような足取りで先に行き、振り向いて手を振ってくる。 「それじゃ、私はこれでー。水入らずの時間をどうぞー」 「あ、ちょ、ちょっと!」 誤解を解きたかったが、それよりも早く少女はいなくなってしまった。諦めて、終始無言だった那月に目を移す。 「天津さん……」 湯気でも出るのではと危惧するほどに、那月の顔は真っ赤に染まっていた。見ているほうがかわいそうになってくる。 「……大丈夫?」 「う……うん……」 「困った子だったな、ホントに……最近の中学生って、みんなああいう感じなのかな」 思わず呟き、ため息をついた。それから那月を促して歩き出す。気分転換も兼ねて、帰り道の途中にある商店街に寄っていくことにした。 商店街の一角にある花屋『Flower World』は、光矢にとっては少しばかりなじみが深い店である。 「ここ、俺の兄貴が働いてるんだ」 洒落た雰囲気の店内に入ると、人当たりの良い笑顔で出迎えてくれる女性があった。髪をきちんと束ね、胸には「店長代理 谷口律子」と銘打ったネームプレートをつけている。 「いらっしゃぁい、光矢君」 彼女は、亡くなった母の学生時代からの親友だった。幼い頃から顔見知りだったためか、彼女はいろいろと光矢たち兄弟に優しくしてくれる。 「こんにちは、律子さん。兄貴いますか」 「ちょっと待っててねぇ」 少しだけ間延びした彼女の声が、水穂の名を呼ぶ。店の奥から、まずはヘクトルが姿を見せ、続いて水穂が顔を出した。 「ありがとうございます、店長。やぁ光矢、どうかしたのか」 光矢は外で待っていた那月に手招きをし、中に呼び入れる。 「天津さん、せっかくだし紹介しておくよ。こっちが俺の兄貴ね。兄貴、転校生の天津那月さん。家が近くだから、一緒に帰ってるんだよ」 先ほど言えなかったことが簡単に口から出て、少しだけ哀しくなる光矢だった。こんな調子で弁解できたらよかったのにと、今更になって思う。 後悔に沈みそうになった時、袖が引っ張られる感触がした。那月の指が、しっかりと袖をつかんでいる。問いかけても何も言わず、困ったように視線を落とす。光矢もつられて視線を落とし、納得した。 どうやらヘクトルが怖いらしい。 「天津さん、かみつかないから大丈夫だよ」 水穂も柔らかく微笑んでうなずく。 「若いけれど、彼は優秀な盲導犬だよ。滅多なことでは吠えないように訓練されているんだ。だから大丈夫だよ、天津さん」 「盲導犬? あ、そうなんだ……だから……」 那月は何度も小さくうなずくと、ヘクトルに手を伸ばして頭を撫でた。ヘクトルも満足そうに目を細め、尾を振る。 「本当だ、いい子ですね」 「そうだね。ヘクトルは賢いから、きっと君のこともすぐ覚えてしまうよ」 和やかなムードが店内に流れる。つられて光矢も、落ちかけていた気分を持ち直す。 「兄貴には何度も言ってたけど、きちんと紹介しておきたかったからさ」 「ほうほう。そりゃぁ仲のよろしいことで」 言った途端、後ろから例の声音がした。瞬時に体が凍りつく。音がしそうなほどに強張る首を強引に動かして、光矢は後方、すなわち声の主を見た。 「つ……剣間、先輩……ど、どうしてここに……」 その問いには、本人ではなく店長代理が答えた。 「武君ねぇ、見た目は怖いんだけどねぇ、とってもよく働いてくれてるのよぉ。水穂さんの知り合いだって言うし、問題はないかなぁと思ってねぇー」 嬉しそうに言いながら、律子は光矢に笑顔を向ける。店に来た人を和ませる口調と笑顔は、リピーターができるほどであったが、残念ながら現在の光矢には全く効果が無い。 「せ……先輩、そんな、何でここにする必要があったんですか!? 違うところでのバイトとかでもいいじゃないですか! 例えば警備員とか護衛とか一日警察とか!! 癒し系空間のこの店じゃ、先輩」 「うるせぇな、俺が花屋で働いてちゃいけねぇっつーのかよ」 笑みを浮かべてはいるが、その顔には極太で「殴る」と書いてある。 「いや! いやいやいや、そういう意味じゃなくてですね……」 「言いたいことがあるならはっきり言いやがれ。場合によっては許してやってもいいぜ」 「……エプロンが殺人的に似合わな……」 「あーン? 聞こえねぇな、なンだってぇぇ?」 太い腕が首に絡み、すさまじい力で締め上げられる。視界がぶれ、みしみしと音が聞こえた。 「いでででででっ!! ギブ、ギブッ!!」 全身で抵抗しても、屈強な腕は外れそうに無い。しかもだんだん力が強くなってきている。那月が気づいて止めようとしているが、武の目には入っていないようだった。 と、揺れる光矢の視界の端に、別の手が現れた。 「ちょっと! やめなさいよ」 「何だてめぇ、すっこんでろ」 相手を見たのだろう、言葉の後に、一拍の間が空いた。 と、いきなり腕が緩む。予想外のことに対応できず、光矢は思い切り前につんのめった。何とか体勢を立て直し、顔を上げる。 武は嫌悪をむき出しにして、一人の少女と対峙していた。緑色のワンピースに白いブラウス、胸を飾るリボンタイに長い髪、先ほど会った女の子だ。 「どっかで見たムカつく顔があるなぁ。えぇ?」 「あぁら、ずいぶんひどいお言葉ね。私の周りにいる、自称ファンのうるさいのが聞いたら何て言うかしら」 「ファンだかヒーターだか知らねぇが、俺にとっちゃてめぇはうざってぇクソガキだよ、コノヤローが」 「お生憎様ね。私もあんたみたいな自分勝手でチャランポランで自己中心的な奴は大・大・大っっ嫌いなの」 しかも、かなりの険悪なムードである。割って入るのは気が引けるが、光矢は恐る恐る尋ねてみた。 「……あの……お知り合いで?」 「知り合いも何も」 武が答える前に、少女が低く遮る。 「……元彼よ」 衝撃が走った。 「も、元彼!? ってことは元カノ!? 先輩っ、いつの間にこんな可愛い子と付き合ってたんですか!? 全国のもてない男性から非難轟々ですよ絶対!」 「うるせぇな、一年も前の話だよ」 武はうるさそうに眉間のしわを一層深め、そっぽを向いた。 「ったく、とンだ馬鹿女だったぜ。別れて正解だった」 「何よそれ、私ばっかり悪者扱い? 馬鹿にしないで、あんただって十分悪かったじゃないのよ!」 「何だと!? このヒステリー女!!」 「何よっ!! この脳足りん!!」 「あのぉー……喧嘩はお外でやってもらえますぅ……?」 口論の合間に挟まれた律子の声は、いつもの通りのトーンだった。が、にこにこといつも通りであるはずの笑顔は少し怖い。いや、笑顔はいつも通りだ。まとうオーラが怖い。それに気圧されてか、二人は一度沈黙して外に出た。 結局、武と少女は閉店時間の七時半になるまで口論を続けていた。光矢は何度と無く那月を連れて逃げようとしたものだが、人波に紛れようとしたところを見計らうように同意を求められ、逃げるに逃げられなかったのだった。 それにしても、よくここまで悪口が出てくるものだと、最終的にはほぼ感心の域に達していた。この際、周囲の視線の痛さも含める。 「悪かったね、待たせてしまって」 すまなさそうに言う水穂に、那月が慌てて首を振る。 「いえ! そんなことないです、私こそ長々お邪魔しちゃって……」 「いや、こちらこそ、ろくに相手もできないで……」 光矢の左隣は謝り合戦が行われ始めた。一方の右隣は。 「……」 「……」 すれ違う人々が何事かと振り返るほど、険悪な空気が流れていた。微妙にいたたまれない状況に、光矢は何度目とも分からないため息をつく。 と同時に。 『待つのにはもう飽きましてよ。明日にしませんこと?』 突如、光矢の耳に声が届く。普段は絶対に耳にしない言葉遣いと、妖艶な若い女の声に驚き、 「え、何が?」 思わず聞き返してしまった。視線が集中する。 「? 月島君、どうかしたの?」 「あ、え? 今、女の人の声しなかった? 待つのは飽きたとか、明日にしようとか」 那月は不思議そうに頭を傾け、それから小さく横に振る。水穂も同じ反応だった。残る二人からは刺々した空気が消え、双方がそろって光矢を凝視している。 「……疲れてるンじゃねぇのか?」 誰のせいだよ、とは言えない。喉まで出かかった本音を、慌てて腹に押し込む。 「お兄さんさあ」 真面目な顔で、少女が切り出した。 「もしかして、エッチなこと考えてたんじゃないの?」 切り出してから、思い切り爆弾を投げ込んでくれた。 「こ、光矢……うーんと、これはつまり……その、お赤飯を炊いたほうがいいのかな?」 「え、え、えと、お、男の子だからそういうのが好き……なの、……かな……そ、そうだよねっ」 光矢だけが爆撃に巻き込まれたのならば被害は少なかったのだが、どうやら那月と水穂が巻き添えを食ったらしい。片方は真剣に悩んでいるし、片方は誤解を招いたようである。 「ちょ、なっ!! な、なんてことを言うんだよ! 俺は別にその、そんな、いつもそんな妄想してるわけじゃないよっ! 兄貴、天津さん、違う、違うからっ!!」 「あははっ、冗談なのにぃ」 ぺろりと舌を出して、少女はウインクする。またうまいこと茶化されたのだと、気づいても遅い。 「お兄さん、意外と可愛いんだね、純情さんでー」 「ちょ、な……いい加減に……」 「私こっちなの」 ひらりと身を翻し、少女は光矢たちから離れた。十字路の左手に寄り、可愛らしく頭を下げる。 「からかってごめんなさい、お兄さん。反応が大きいから、つい面白くって」 「ついって……」 再び呆れそうになるが、気を取り直して少女に向き直る。 「そうだ。ハンカチ、本当にありがとう。えっと……」 「私、花丘美奈世(はなおか みなせ)っていうのよ。末永くよろしくね、お兄さん」 少女はうやうやしくワンピースの裾を取って礼をすると、満面に笑顔を広げた。 「それじゃあ、お兄さんも、お兄さんのお兄さんも、お姉さんも、またね! バイバイ!」 腕を大きく振ってから、花丘美奈世は路地を軽やかに駆けていった。 「二度と来ンな、馬ー鹿」 武の不機嫌極まりない台詞だけが、路地に虚しく響いた。 (2006.10.26 最終訂正:2008.2.12) |