第一章
其ノ4
『道違者』
(みちたがえしもの)


 謎の声に疑問を抱いたまま、光矢はテスト二日目を乗り切った。
「明日の英語で全てが決まる明日の英語で全てが決まる明日の英語は出来る俺は出来る俺は出来る俺は出来る」
「つ、月島君、大丈夫だよ、出来るよ」
 途中から呪詛(じゅそ)、もとい暗示になっている光矢の呟きに、那月が律儀に答えてくる。
「一緒に頑張ろうね」
「屈するものか、英語の圧力になんて負けるものかぁぁ」
 道の真ん中で拳を握り締め、呻く。日中だが、どこもテスト期間中なのだろう。幸い道を歩いているのは学生だけだった。よく観察すれば、有名な公立進学校の横溝高校の灰色の制服や、私立女子高のセーラーやブレザーもちらほらと見受けられた。ある種壮観だが、この光景も明日になればしばらくは見れなくなる。
 明日。そう、明日になればテスト期間が終了するのだ。光矢は再び自分に暗示を掛け始める。
「明日終われば全て終わる明日終われば全てが終わる、千里の道もあと一歩、地獄の責め苦も四十五日もとい三日間……!!」
 何だかいろいろと混ざっている気がしてきた。それがおかしかったのか、那月がくすくすと笑い始める。
「月島君、面白いね」
「え、いや、そんなことないから」
 普段の反射で答える。那月はなお笑う。
「もう、また『そんなことない』って言うんだね」
「いやぁあっはは。もう反射っていうか、癖っていうか、性っていうか」
 光矢も一緒に笑った。テストの重圧が、少しだけ軽くなった気がする。心の中で、那月に感謝のし通しだった。那月と別れる路地に差し掛かったことに気づいたのは、視線を前に戻してすぐのことだ。
「それじゃあ、天津さん。またね」
「あれ……」
 彼女も気づいていなかったらしい。一瞬の沈黙の後、小さくうなずいて口元をほころばせる。
「じゃあ、また明日ね。頑張ろう、月島君」
 小走りで駆けていく那月の背中を見送ってから、ふと気配を感じた。
「やっほー。お兄さん、優しいんだね」
 美奈世がいた。電柱にもたれて、微笑んでいる。
「あれ、えっと……美奈世ちゃん? 君もっと手前の路地の方じゃなかったっけ」
 問いに答えは返らなかった。ただ静かに笑みをたたえ、光矢を見つめている。
 様子がおかしい。不審に思い、一歩身を引く。引いて、周囲に人垣が築かれているのに気づいた。路地の四方を取り囲まれている。抜け道は無い。これだけの人数がいるにも関わらず、辺りはしんと静まり返っていた。
「これは……」
「ごめんなさいねぇ、お兄さん。逃げられちゃ困ると思って」
 無邪気に言いながら、彼女は胸元のポケットから何かを取り出した。
 親指ほどの長さのそれは金に煌めき、繊細な細工が施されている。キャップを外し、細い指で中身を繰りながら言葉を継ぐ。
「私さぁ、お兄さんを捕まえたら、今よりもっと美人にしてもらえるんだぁ」
 趣味を語るように、明日の予定を語るように、美奈世は続ける。
「そしたら、武のこと見返してやれるの」
 口紅だ、と光矢は場違いに思った。透明な紅の口紅を二度三度唇に滑らせ、少女はもう一度笑いかけてきた。
「そんなワケだからね、お兄さん――違ったね、エンデュミオン。私、花丘美奈世こと……愛と美の女神アフロディテに、おとなしく捕まっていただきますわ」
 口調が変化した。と同時に、空気が動く。見るものを圧倒するような何かが、空気を動かしている。
 アレスの時と全く同じだ。ここにいるのは美奈世であり、美奈世でない。彼女の姿を借りた全く別人。人ではない、神を名乗るにふさわしい気配がある。
 背中を汗が伝っていく。冗談を言っている目には見えない。気位が高く、どこか見下したような瞳。挑発的な視線に揺れる光は、美奈世のそれよりもずっと魅惑的だった。
 どこからか甘い匂いがする。脳の奥が痺れるような、眠たくなるようなよい香りに、光矢の意識が徐々にぼやけてくる。視線に香り、五感のうち二つを同時に刺激され、頭の中が強く揺さぶられるような感覚に襲われた。目がそらせない。意識が、遠くなりかける。
 瞬間――奥底で誰かが違う、と叫んだ。
 違う。この眼ではない。惑わされるな。
 光矢はとっさに耳を塞ぎ、首を振って声を追い出した。弾みで視線がはずれ、意識の揺れも治まる。
「エンデュミオン。無駄な抵抗はおよしなさいな」
 嘲りと蔑みを含んだ女神の声は鋭い。自分でない名前を自分に掛けられることに、光矢は強い反発を覚えた。
「違うッ! 俺はエンデュミオンじゃない! 何回言ったら分かるんだよ! もういい加減にしてくれ、放っておいてくれよ!!」
 一息の沈黙の後に、アフロディテが笑い出した。甲高い笑い声は、どうしてか耳につく。
「何が言いたいんだよ……!」
「そうそう、一ついい忘れてましてよ。わたくし、先ほどあなたに魅了の魔法をかけたのですわ」
 理解できない。光矢がにらみつけると、逆に女神は挑発的に、かつ真っ直ぐに見据えてきた。
「でもあなたは、わたくしの術を振り払った。この意味がおわかり?」
「……何だよ」
 また、一息の間が開く。そして返された言葉には、確定事項の確認の意が込められていた。
「わたくしの魔法は、同じ立場である神、あるいは神の力を持つ人間には効果がありませんの。あなたにはセレネの加護がある。わたくしの術が効かない。ゆえに、あなたはエンデュミオン。違いまして?」
 とっさに、否定の言葉が出なかった。否定する単語は浮かんでも、それを外に出すことができない。
 今まで普通の、どこにでもいる高校生だった。事件にも巻き込まれず、全うな人生を送るに違いない、今までずっとそう思っていた。思っていたのに、こうまでして指摘されると、まるで自分が得体の知れない生き物のように感じられる。
 月島光矢という人間ではなくて、月島光矢という人間の皮を被ったエンデュミオンという別の生物なのだと、それ自体が罪なのだと、言われているように思えた。自分が自分でないなんて、自分だと信じていたものが、実は別人だったなんて――恐怖と混乱で、膝が震えるのを押さえきれない。
「おしゃべりがすぎましたわ。早くしなければ、あの方が待ちくたびれてしまい――」
 アフロディテの台詞が、不自然な場所で途切れた。視線をあげる。少女の細い手首を、見慣れた男がつかんでいた。
「あ、アレス……!?」
「久しぶりだな、アフロディテ」
 足から力が抜け、光矢は地面に座り込んだ。肩を支える手の感触がする。
「ごめんなさい、来るのが遅くなってしまって」
 セレネの声が背後からした。光矢は唇を噛み締めたまま、首を振る。アレスとアフロディテの会話は続く。
「何度言えば分かるんだ。外面だけを美しく飾ったところで、中身が歪んじまってたら意味がねえだろう」
「おだまりあそばせ! あなたに何が分かりますの? わたくしの心の内も知らないで!」
 女神は戦神の手を振り払う。叫んだために乱れた呼吸を整えもせず、アレスをにらみあげた。
「――知りもしないで、知ったような口をきかないでくださる」
 払われた手もそのままに、アレスはただアフロディテを見ている。哀れむような、悲しむような目で、見ている。
「今日のところは、わたくしの形勢が圧倒的に不利になっていることに免じて見逃してあげますわ。けれども、あのお方のところには、わたくし以上の実力者がいましてよ。せいぜい小鳥のように身を寄せ合って、巣の中で震えていなさいな」
 アフロディテはアレスに背を向けて言い捨てると、姿を消した。小さく舌打ちするのが聞こえる。
「相変わらず、ろくに話も聞かねぇ女だぜ……おい小僧、無事か」
 当人同士でしか分からない会話は、光矢をいらだたせた。
「大丈夫なわけないでしょう」
 吐き捨てて、立ち上がる。服についた埃を払い、心配して伸ばされたセレネの手も叩き落した。
「一体何なんですか。俺の知らないところで、一体何が起こってるんですか。俺が何したっていうんですか!」
 次第に語気が荒くなる。分かってはいるが、どうにもならなかった。頭の混乱が不安を呼び、不安はとげを生やして、さらに言葉を乱していく。
「誰かの生まれかわりだとか、何やらの神だとか! そんな夢見てるような、馬鹿げた話で命を狙われるなんて、ごめんだ!」
「その気持ちはよく分かるわ、でもお願い、本当の話なの――」
 セレネの必死な口調は、逆に光矢を煽るだけだった。
「本当だろうが嘘だろうが、俺には関係ないでしょう!! もうこれ以上俺に関わらないでくれ!! 放っておいてくれよッ!!」
 落としたかばんをつかみ、光矢は半ば逃げ出すようにその場を離れた。セレネは追ってこなかった。
 家にたどり着き、水穂に気づかれないように階段を上り、部屋の戸を開けて鍵をかける。それから、乱暴にベッドへ身を横たえた。両手を眺める。
 この両手は自分のものだ。だが、この体の中には、自分ではない誰かがいる。認めたくない。認められるはずもない。自分でない知らない誰かがいるなんて恐ろしいことを、あっさりと受け入れることなんてできない。
 得体の知れない誰か。その誰かのために、セレネは戦っている。その誰かの持つ力を狙って、キルケやアフロディテは襲ってきた。彼女らが口にする「あの方」も、おそらくは。
「……で、その誰かのせいで、俺はこんなに気が滅入ってるんだ」
 小さく毒づく。言葉は両手に当たり、部屋に散った。
 否定をしたい。だがそれでも、完全に否定できない部分がある。否定したいのに否定できない。受け入れるには、あまりにも非現実的すぎる。そして自分は、あまりにちっぽけな人間だった。
「……くそっ、何でこんなに悩まなくちゃならないんだよ」
 今までこんなに悩むことなんてなかった。勉強のことに軽く頭を抱える、普通の学生と同じ平凡な毎日だったはずなのに。
 髪をぐしゃぐしゃとかき回すと、ポケットから何かが落ちた。セレネが以前くれた水晶玉だった。月と同じ色の鎖が、蛍光灯の光を帯びて淡く輝いている。
 拾い上げ、透かしてみる。月長石を中に抱いた小さな珠は、彼女が持っていたものと同じ石である。蒼白く光を反射しながら、石は光矢の瞳を映し返していた。
「……否定しきれないところがあるからかな……」
 それは例えば、セレネを見たときの懐かしさ。それは例えば、セレネが傷ついたときの深い悲しみ。
「本当、何なんだよ……! 俺が俺じゃないなんて、んなこと急に言われて……今までの人生否定されて……そう簡単に納得なんて、できるわけないだろ……!!」
 ちゃりん、と鎖が小さく音を立てた。

(2006.10.26 最終訂正:2008.2.12)

第二章 其ノ一「来訪者」

其ノ3「協力者」

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