第二章
其ノ1
『来訪者』
(らいほうしゃ)
あれからセレネは姿を見せなかった。それに少しの安心と、かすかな罪悪感と、そして不本意な寂しさが光矢の胸を占めていた。 夢は頻繁になり、毎日のように繰り返されている。この夢が一体何を意味するのか、光矢は知らなかったし、知ろうという気さえ起こらなかった。だからなのか、それとも別の理由があるのか、胸が塞がったように重い。 六月も終り、夏の兆しが見え始めた空。濃く蒼い空だった。頬杖をつき、窓の外に広がる蒼を見やる。 「……ふう」 自然、ため息が漏れた。 「おーっス、コーヤ! 何だよ何だよ、湿気た面してんなぁ」 相変わらずのハイテンションさで、清志が寄ってくる。 「顔色悪いぜ。どうかしたのか?」 学も光矢の顔を覗き込んで言う。 「あ、いや……大丈夫」 「どーしたんだよ、コーヤらしくねーなー」 周りをうろちょろしながら、清志が尋ねる。能天気で明るい彼が、ほんの少しだけ羨ましい。 「深刻な顔してんなー。何かあったのかー?」 「そんなに思いつめてるように見えるか?」 質問に質問で返すのは反則だぜ、と、清志は唇を尖らせて呟く。 「思いつめてるも何も、今すぐ死にそう」 「何だ、それ」 「そこのベランダから下にダイビング! みたいな」 ちなみにここは二階、自殺するには高さが足りない。もっとも、コンクリートの床があるため、打ち所が悪ければそのままお陀仏、ではあるのだが。 「……そんなにか?」 「おう。なんつーか、二階でも絶対死ねる自信がありそうだぜ、今のお前。ってか、自殺する前は絶対俺と学に言えよなっ。全力で止めてやるからよ! いいね、青春!」 いつの間に自殺することになったのだろう。光矢は心底呆れてしまった。 「……だから、俺は」 言いかけたそのとき、隣から立ち上がる音がした。 「つっ、月島君っ! 駄目だよ、自殺なんかしちゃ!」 那月が真剣な、しかし泣きそうな声で主張する。 「死んじゃったらそこで終りなんだよ! 駄目、考え直してっ」 「あ……あのー……天津さん、落ち着いて」 慌てて手を振り、那月をなだめる。 「とりあえず俺、自殺だけは絶対にしないから。悩んでる顔してるって言われただけだから、大丈夫。ね」 やがて理解できたのか、那月は顔を真っ赤にして頭を下げた。 「ご、ごめんなさい……! 私、勝手に勘違いして……勝手に話に割り込んじゃって……」 「いいよ、別に。心配してくれたんだよね。ありがとう、天津さん」 光矢が微笑むと、彼女はますます顔を紅くしてうなずいた。照れているのだろう。せわしなく前髪を撫で付けて、何度も謝っている。 (何か、和むなあ) 重く沈んでいた心が、少し浮上する。ようやく水面に出て息をつけたような気分だった。那月が口を挟まなければ、おそらくは先ほどの重い気持ちを抱えたままだっただろう。少しとは言え、この差は大きい。 (反応がいちいちあるから、和むんだなあ) ふと、思った。思ってから赤面する。 (……って、何考えてるんだ俺は) 幸いにして気づかれてはいないようだった。光矢は熱を持つ頬を一度たたいて、首を回した。 学校から帰ると、水穂が出迎えてくれた。今日は店の定休日なのだ。 武はいなかった。聞けば、買出しに行っているのだという。帰ってきたら何をされるか分からない。光矢はとりあえず、武が帰ってくる前に一息つくことにした。 コーヒーメーカーに粉をいれ、湯を注ぐ。カップは二つ、光矢と水穂のものを用意する。それからミルク。砂糖は水穂が使うので、その分だけ。 盆にカップとミルク、砂糖を乗せ、沸いたコーヒーのポットを置く。リビングに運んだ丁度そのとき、テレビを聞いている水穂の足下で、ヘクトルが鼻先をあげた。 足音。乱暴な音の持ち主は、やはり乱暴なのだろう。いや、この際『なのだろう』とぼかす必要はない。まさしく乱暴なのだ。 「今帰ったぜーい」 曇りガラスの引き戸を、行儀も悪く足で開ける。スリッパの先が隙間からのぞき、続けて乱暴の上に超がつく居候の全身が現れる。 顔に出たのだろうか。武の眉がつりあがる。 「何だぁテメー、帰ってくンなって言いたそうだなぁ」 「いえ、別に……」 一息つくどころではなくなってしまった。光矢は心の中で、一息ではないため息をつく。が、せっかく淹れたコーヒーを無駄にしたくはない。まずは水穂にカップを渡す。テレビ前のソファにゆったりと腰をかけていた水穂は、光矢が来ると分かると背を伸ばした。 「ありがとう」 「何聞いてるの」 「ニュースだよ。一緒に見るか?」 「いいの? ありがと」 わざわざずれようとする兄を制し、自分のカップを取りに戻る。 「ほれ。たまにゃ水入らずもいいだろ。俺ぁここからでも見れるからよ」 意外にも、食卓で一服していた武がカップを渡してくれた。サービス精神に著しく欠けている彼には珍しいことだ。素直に頭を下げると、彼はぷかりと紫煙を吐いて笑った。 水穂の隣に腰を下ろし、テレビに目を向ける。ニュースの特別企画なのだろう、リポーターが熱心に誰かを追いかけている。 「『天才・太田原陽介(おおたはら ようすけ)独占インタビュー』?」 「何でもできるって、最近有名になってる人だってね。音楽活動に舞台俳優、スポーツでも優秀な成績を収めてるっていう」 真っ白なスーツは画面に明るい。よく見れば、革靴まで白い。そのせいか、彼の周囲が光り輝いているようにも見える。顔立ちも整っており、芸能人と並んでいても見劣りがしない。今はリポーターに品のよさをうかがわせる笑顔を向けている。 「……眩しい……これ絶対目ぇおかしくなるって」 目がちかちかする。光矢は一度テレビから視線を外し、何度も瞬きをした。インタビューは続く。 『太田原さんは何でもできるそうなのですが、何が一番得意なのでしょうか?』 『難しいですね。何でも得意ですよ。一番どうとか、そういうのは無いです』 「けっ、嫌味ったらしぃったらありゃしねぇ」 いつの間に後ろにいたのか、武が毒づいた。水入らずもいいだろうと言われたのは五分前だった気がするが、元々細かいことは気にしない武のことだ。こっちに近づいてくる際に忘れたのだろう。 「まあ確かに、先輩とは雰囲気が違いますしね。頭も断然良さそうだし」 光矢が自分の失言に気づいた時には、既に遅かった。武の無骨な手が頭をわしづかむ。 「あーン? 何だって、聞こえねぇなぁもっとはっきり言ってくれよ」 「そ、そういうところも……ッ、いて、痛てててててっ! ギブ、ギブっ!!」 指先に力が込められ、光矢は悲鳴をあげて降参した。手が離れる。恨みを込めてにらみつけるが、武はもう画面に目を戻していた。仕方なく、同じようにテレビに視線を移す。 『ご結婚されてるんですか?』 『いえ、残念ですけれども。ですが、心に決めた人ならいます』 『じゃあきっと、彼女もこれを見ているかもしれませんね! 彼女に一言、どうぞ』 青年は爽やかな笑みを浮かべながら、真っ直ぐにカメラを――否、カメラを通して彼を見ているだろう、視聴者を見つめた。瞳をかすかに細めるのも、絵になるほど様になっている。 『いつか君を迎えにいくからね。待っていて』 「……何を今更……私を捨てたくせに」 言葉は、普段聞きなれた音で語られた。思わず隣に首を向ける。 水穂が、見えぬ画面を目に映していた。常人よりも澄んでいる瞳の色に、画面の白が光を散らす。カップを持っていない左手が、右腕の付け根に添えられている。 「……兄貴?」 思わず不安になって、呼びかける。 「うん? どうした」 兄は優しく笑って答えてくれる。目蓋はもう、閉じられていた。何ら変わりない、いつもの水穂だ。 「いや……さっき、何か言った?」 「別に何も……俺が何か、変なことでも言ったのか?」 不思議そうに尋ね返してくる。光矢は素直に言うべきか迷ったが、心配させたくない思いが先に立つ。 「大丈夫、何でもないよ」 テレビはもう別の話題に移り、話もそれきり終わってしまった。 (気のせいだよな) 光矢は自分に言い聞かせ、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干した。 (2006.10.29) |