第二章
其ノ1
『来訪者』
(らいほうしゃ)
登校中、偶然その話題になった。那月もどうやら、昨日の特集を見ていたらしい。 「全身真っ白ですごかったねぇ」 汚れたらどうするんだろ、と彼女は首を傾げる。 「専属のクリーニング屋でもいるんじゃないの?」 「あ、そっか。そうだよね、すごいなぁ」 どこかずれているような気がするが、那月だからこそ許されるのかもしれない。光矢はなぜかしみじみ思った。 「天津さん、あの人かっこいいって思った?」 那月は驚いたのか、少しの間だけ沈黙した。それから頭を横に振る。 「たぶん、みんなはかっこいいって言うかもしれないけど……私はあんまり。目の前にいたら驚くかもしれないけど、好みのタイプじゃないかな……」 それから早口に何かを呟いたが、光矢には聞き取れなかった。 話は流れ、最近買ったCDの話題になったとき、光矢の目の前を誰かが横切った。白いスーツがよく似合う、背の高い青年だ。危うくぶつかりそうになるのを必死で踏みとどまる。青年も気づいていなかったのか、目を丸くしている。 「う、わわっ、と」 バランスがうまく取れず、倒れそうになった。 「ご、ごめんよ! 急いでいたものだから」 青年が慌てて支えてくれる。間一髪、派手に転ぶという状態は免れた。 「大丈夫かい? 怪我は? ごめんよ、もっと周りを見るべきだった」 困ったような微笑さえ、青年の魅力を十二分に引き出している。道を通る女の人が思わず振り向くほどの美青年だった。 そう、昨日テレビで放送されていた――類稀なき天才、太田原陽介その人。 「だ、大丈夫です」 「そうか、ならよかった。これで失礼するよ」 「あ、いえ……」 青年は丁寧に礼をすると、そのまま歩き去っていった。白い背中を見送ってから、青年の入っていく店に気づく。 「あれ……『Flower World』だ」 小ぢんまりとした洒落た店だが、お世辞にも世を騒がせている天才とは不釣合いに思える。何をしに行くのか気になったが、水穂や律子に迷惑をかけるわけにもいかない。光矢は那月を促そうと振り返った。 那月がいない。 「……あれ?」 よくよく探すと、何と小走りで店に寄っている。 「ちょ、あ、天津さん!? 何してるのさ!」 後を追って尋ねると、那月は首を軽く傾けた。 「だって、ちょっと気になるよ。見ていこうよ」 止めるよりも先に、こそこそと中に入ってしまった。大人しいとは思っていたが、意外と行動的で好奇心が旺盛なようだ。 「……しょうがないなー……」 口ではそういってみたものの、光矢は笑みを隠しきれなかった。 花の陰に隠れて、レジカウンターを覗く。白いスーツを着こなした天才と、水穂が話をしていた。手には十本の白いユリ、誰かへの贈り物らしい。 「リボンは何色にいたしますか」 穏やかな物腰で、水穂が注文を受ける。 「紅……いえ、パールピンクで」 天才もまた、柔らかな笑顔で答える。水穂がリボンを探すため、ヘクトルに指示を出す。ハーネスを握り、彼が導く通りに歩いていく。優しく犬を褒めてから、リボンを引き出す。滑らかな光沢を放つそれを、適度な長さに切り揃える。包装紙を取り出して、器用に花を包み始める。 目が見えないとは思えぬ手際に、光矢はいつものことながら感心してしまう。仕事をしている姿は何度か見ているが、何度見ても飽きないものだ。那月も感嘆のため息を漏らしている。青年も興味深そうに、水穂の手つきを観察していた。 やがてユリの花束が完成した。シンプルで、それでいて上品さが際立つ仕上がりになっている。 「お待たせしました」 手渡された花束は、白い青年によく似合っていた。 「ありがとうございます」 「大切な方への贈り物ですか?」 青年が照れたように笑う。こうすると、天才だと騒がれる彼も一人の人間なのだと気づく。 「ええ。その……出会ったばかりなんですけど、その記念に、と思って」 領収書が切られる様子を眺めながら、青年は言葉を継ぐ。 「人との出会いは、何万分の一、いや、何十万分の一の確率と言われますから、僕はそのめぐり合いに感謝したい」 (くっさー!) 思わず出かかった言葉を、光矢は何とかして飲み込んだ。水穂は気にもならないのか、にこやかに返す。 「不思議ですよね。一体どうやって、その少ない確率でめぐり合うのか」 「僕は思うんです。それはきっと、前の世にあった結びつきがそうするのだと」 (おいおいおい、何だかやばそうな台詞が飛び出してきたぞ) 再び出かかった言葉を再度飲み込む。 (よく兄貴も聞いてあげられるよな……俺絶対突っ込んじゃうって) 接客業で鍛えられたから苦痛ではないのか、それとも最初から聞き流しているのか。どちらにしても、光矢には絶対に真似できない所業だろう。 「……天津さん、行こう。一応話もひと段落したみたいだし。早くしないと、遅刻しちまう」 「え? あ……うん、そうだね」 とは言いつつも、那月はまだ名残惜しそうだった。が、とにかく早くここを出なければ、今度こそ自分がいらないことを口にしてしまいそうだ。光矢はせかすべく、那月の手を取った。 と、そのとき。 「――君と出会えたことに、僕は感謝したい」 次いで紙の擦れる音。 「……え?」 少しの間を置いてから落とされた、水穂の声音。それから、 「……ッっ!!」 今にも喉をついて飛び出しそうな叫びをかみ殺す音。 (な、な、ななな) 心の声も日本語にならない。水穂は呆然としたまま、白い青年から改めて渡された花束を抱えている。 「……あ、の」 それから困惑気味に口を開く。 「……これは……」 「僕からの気持ちです。君と出会えて、嬉しいよ」 満面の笑顔で言う、彼。時計を見やる。 「ああ、時間になってしまった。とても惜しいけれど、また会いにくるね」 軽く水穂の手を握り、青年は優雅に外へと歩いていった。有名人は例に漏れず多忙、ということか。すぐ隣を通り過ぎる白い色彩を、光矢は横目で眺めた。 「月島君、どうしたの」 那月の声で我に返る。 「え、あ……いや、天津さん、さっきの台詞聞いてた?」 どうか聞いていませんように、と祈らずにはいられなかった。 「ううん、聞こえなかったけど……何かあったの?」 「いや、いいんだ。大丈夫、行こう」 内心胸をなでおろす。のだが、それ以上に複雑な心境だった。 (このこと、先輩に話した方がいいのかな) 少し考えてから、やめる。こんな話をすれば、あの有名人の代わりに殴られるに決まっている。有名人の身代わりなんてごめんだ。 光矢は目の前で起きた一連の出来事を、心の中にそっとしまっておくことにした。 やっぱり駄目だったか。光矢がまず最初に思い浮かべた台詞がそれだった。 授業を受け、部活をし、那月と一緒に帰って。そこまでは普段どおりだった。気分はこの場合さておき、本当にいつも通りだった。 「おめえよぉ、俺ンとこの店にアイツ来たの知ってるか?」 武と顔を合わせた途端にこう切り出されたとき、光矢はいっそ諦めにも似た心持で思ったのだった。 「……いや、知らないです。誰ですか、アイツって」 とりあえず見え透いた嘘をつく。目が泳いでいる自覚はあった。 「あれだよ、アレ。テレビで出てた嫌味な奴だよ」 太田陽一だっけか、と忌々しげに呟いて、彼は髪をかき回した。上手くだませたことに安堵するべきなのか、それとも名前の間違いを指摘するべきなのか、光矢は少し悩んだ。 が、悩んでいる間に武が勝手に話を進めてしまう。 「アイツが今朝店に来てよぉ、何でも水穂兄ぃに花束渡したんだってよ」 「へ、へぇ」 動揺するな、と自分に言い聞かせ、相槌を打つ。見てましたなんて言えない。言ったら殴られる。 「で、先輩はなんでそんなに怒ってるんですか」 「怒ってねえよ」 (指パキパキ鳴らしてるくせに、何が怒ってないだよ) 口に出すことは、相変わらずできなかった。できたとしても、命が惜しいからどの道口に出すことは無い。 「嫌な空気の野郎が来たもンだと思っただけだ」 武はもう一度関節を鳴らし、ついでに大きく舌打ちをした。傍目から眺めれば、明らかに光矢が喧嘩を売られているようにしか見えない。傍目から見なくても思うのだ、間違いは無い。 と、そこで思考を戻す。戻して、尋ねた。 「嫌な空気?」 武の手が慣れた様子でポケットを探り、タバコの箱とジッポを取り出した。それから、やはり慣れた手つきで一本引き抜き、口にくわえて火をつける。 紙筒の先が一瞬紅く染まり、次いで細く煙が立ち上った。 「おう。嫌な空気だ」 武は煙と息、返事を同時に吐き出した。 「えらく嫌な空気だ。口じゃうまく言えねぇが、どっか外れちまってるような……何か、やべぇンだよ」 長年の勘なンだがよ、とつけ加えて、彼はもう一度紫煙を吐いた。 勘というのは、おそらく『紅の獅子』の経験のことだろう。実際の真偽は分からないが、何でも麻薬の販売人をやっていたとかいないとかいう噂は耳にしたことがある。それは行き過ぎた噂なのだろうが、裏側の世界に片足を突っ込んでいたのには変わりない。当時に彼の言う「やべぇ」人間にあったことがあるのかもしれない。 そんなわけで、光矢はうなずくだけに留めた。 「そーだろそーだろ」 武はどこか得意げだ。賛同者がいて嬉しいらしい。 「そーだよなあ。俺の見込ンだ通りの男だよな、やっぱ」 (いつ見込まれたんだ? ってーか見込んでたのか?) 目線を微妙に外しつつ、思わず失笑する。 「……まあ、いずれにしろ」 武の声が少し低められる。真剣な表情だ。 「あンまり関わらねえ方がいいかもな。気ィつけろよ」 それきり黙りこんで、彼はタバコをくゆらせていた。 * * * 銀色の髪は、昔のように輝いてはいなかった。身にまとっている衣は汚れてあちこちが破れ、白い肌は傷ついていた。 彼女は疲れきっていた。夢遊病の患者のように、虚ろな顔で彷徨っている。頬には数知れぬ涙の跡、乾いた唇はただある男の名前だけをささやく。 「エンデュミオン――……」 誰もいない荒れ果てた村。家の残骸を踏み抜き、それでも止まらずに歩き続ける。 愛おしい男の面影を探して。 「エンデュミオン――……」 生き物の影はない。ただ静寂。 「ああ、どこへ行ってしまったの」 華奢な足跡は、真っ赤な色を点々と残した。 「どこへ行ってしまったの」 彼女の声を聞くものはない。 「お願い、返事をして」 もう長くないと察したのか、烏が一羽木にとまる。二羽、三羽、四羽、とまる。 「お願い、教えて。どこにいるの? 私も」 彼女はむせぶ。動かぬ足を引きずり、涙する。 「私も、連れて行って……エンデュミオン」 そしてついに、力尽きた。 (2006.10.29) |