第二章
其ノ2
『宣告者』
(せんこくしゃ)


 静かだ。この洋館には静寂しかない。心を落ち着かせる沈黙が、頬を撫でていく。
 グラスを軽く傾ける。さすがはロマネ・コンティ、人類が作り出した最高のワインといわれるだけあって、口当たりも後味も最高だ。月明かりにグラスのふちが輝き、ワインの紅が透明に揺れた。
 大きな窓は完全に開け放たれ、涼しい風がカーテンをもてあそんでいく。周囲は森に囲まれ、人気は無い。
 アメリカの富豪、ホワイト家の別邸。リゾート地を嫌うホワイト氏が、唯一気に入った場所がここなのだという。この地域は森や小さな山がいくつかあり、森林浴を楽しむ人も少なくない。
「そこに僕らがいるのは、何とも滑稽だけど」
 苦笑を混ぜて、部屋の中に目をやる。豪華なソファの上に、フランス人形にも似た少女が座っている。広い部屋の奥の奥、まるで存在しないかのように、黒衣の男が目を閉じて壁にもたれていた。
「何独り言言ってんの、それじゃ本当の変態になっちゃうわよ」
「……君は一言余計なんだよ、キルケ」
 脱力して振り向く。挑みかかるすみれ色の視線は、幼い子どもに特有なものだ。
「何よ、あたしは本当のこと言っただけじゃない」
 愛らしい唇を尖らせ、少女は文句を言う。
「だってあんた、男の人口説いたんでしょ」
「まあ、否定はしないよ」
「じゃああんたには、『変人変態男』の称号をあげるわ。喜んで受け取んなさい」
「キルケ、話しちゃ駄目よ。変態が移る。これ以上の変態になったら大変だわ」
 通りすがりの美少女が、呆れた口調で通り過ぎていく。随分な物言いだ。苦笑して、奥の男に話を振る。
「ハデス。君からも何か言ってやってよ」
 男は薄く目を開き、無感情に答えた。
「命令を受けていない」
「やれやれ。雑談にも命令か。君も大概つまらない男だね」
 揶揄すれば、彼は再び目を伏せてしまった。長い髪が、印の彫られた左頬にかかる。女性ならば胸をときめかせるだろう。なかなかに色っぽい。
 が、興味は無い。自分が今、興味を持っているのはただ一人だけ。
「あれ。否定しないのかい? ……まあ、君はただの暗殺者だものね。感情なんて無いか。昔からそんなものはなかったかな」
 男はわずかに肩を揺らしたが、それきり反応は返ってこなかった。
「……さて。僕は愛する彼の人のために、行動を起こそうかな」
「気持ち悪ぅぅぅーーーい」
「キルケ、駄目だってば。変態は所詮変態なんだから放置が一番よ」
 溢れんばかりの悪意がこもった少女の声と、再び通りすがった美少女の気の抜けた言葉が届いた。
 月の光が、翳(かげ)った。



 頭の中を回る映像は、先日の二人だ。一人は、白い天才太田原陽介。にこやかに笑ってユリの花束を手渡す。渡されるのは自分の兄。困ったように首を傾げて、天才からの花束を受け取る。
『えっと……』
『水穂さん』
 目を細めて、天才は微笑む。
『僕と、結婚してくださいますか』
 やがて兄は頬を染めて、
『……はい』
「何でだああああぁぁぁぁぁっ!!」
 渾身の力を込めて、光矢は叫んだ。否、ツッコんだ。
 叫んでから気づいた。視線が痛い。特に先生からのはたまらない。刺さるどころか、刺したままねじ込まれている気分だ。数式を書く手も止まっている。痛さ倍増。痛恨の一撃。冷や汗が止まらない。
「月島。何が何で、なんだ?」
「う、え……あ、……えーとー」
 絶体絶命とはこのことを言うんだろうと、頭の片隅で思う。
「す、すんません……何でそうなるのかがさっぱり分からなかったんで」
 苦し紛れの言葉は、どうやら信用されたようだった。片眉をあげ、いささか呆れ気味ではあるが。
「怒鳴らなくても聞こえるから、今度からは手を挙げなさい」
「は……はぁ……すんません……」
 クラス中から忍び笑いが漏れる。先生はそれをいさめ、もう一度説明を始めた。

「お前マジかっこよかったぜ!」
 休み時間、清志が早速爆笑しながら絡んできた。机にへばりついてうなる光矢の周囲をわざとらしく回りながら、ポーズまでつけている。
「『何でだぁぁ!!』なんて、先生相手には言えねーぞ。伝説になっちゃうな、日照の伝説」
「やめろ」
 一応止めてみるも、さっぱり聞いていない。調子に乗って、『日照の伝説』とやらをいかにして広めるかを学にとくと聞かせている。
「……はぁ……」
「月島君、どうしたの」
 隣の机から心配そうに、那月がのぞきこんでくる。
「いや、別に何でもないんだよ」
「最近元気ないよね。悩み事でもあるの? よかったら私、相談に乗るよ」
 転校してきてまだ間もないのに、ここまで親身になって心配してくれるなんて。いや、だからこそなのか。どちらにせよ、光矢にとっては嬉しかった。
「大丈夫、心配しなくてもいいよ」
「そう? でも、無理はしないでね」
 優しさが身にしみる。身にしみすぎて、思わず涙が出た。
 と同時に、巻き込みたくない思いがあった。自分が今置かれている状況に、優しい彼女を巻き込むわけにはいかなかった。
「ありがとう、天津さん」
 だからこそ、今は心配させるわけにはいかないのだ。光矢はあえて、彼女に笑いかけた。

 帰り道。
「天津さんとの楽しい時間が……」
 光矢は視線を隣に走らせ、小さくため息をついた。
「あン? 何か言ったか」
「いえ……別に……」
 すごまれて、目をそらす。
 花屋の前を通ったのが運の尽きだった。店を閉める支度をしていた武に見つかり、終わるまで待っていろと脅され、挙句一緒に帰ることになったのである。もちろん兄の水穂も一緒だが、光矢としては武の存在に気が重くなるばかりだ。
 那月は現在、水穂と話している。それに多少武が口を挟み、そこから話題が転換する。光矢は完全に蚊帳の外だった。
(――腹立つなあ)
 セレネ関連のものとはまた違う苛立ちが、光矢の胸を塞ぐ。
「……光矢? どうした、機嫌が悪そうだな」
 人の感情に敏感な兄が、ふと尋ねてくる。ヘクトルも、足下から光矢を見上げていた。
「いや……うん、何でもない」
 どうも感情のコントロールがうまくいっていないらしい。自分の髪に手を突っ込み、二三度深呼吸する。
(落ち着いて、そう、俺は冷静なんだ……)
 もう一度深呼吸しようとした、その刹那。
「馬鹿っ、危ねぇっ!」
 乱暴に腕を引かれ、バランスが崩れた。そこに落ちてくる黒い影は、先日の人物よりもやや小柄だった。
 翻る銀色に体がすくむ。本能がとっさに理解した。あれは凶器だ。しかも、二振り。
 影は素早く身を返し、瞬きをする間にこちらへと向かってくる。
「チィッ!!」
 武の手が離れ、ポケットからバタフライナイフが引き抜かれた。呼吸をする暇もなく、三本のナイフは火花を散らす。
 そこではっきりと、光矢は影の姿を見ることができた。
 左へ梳き流されたセミロングの髪は、闇にも鮮やかな赤茶だった。染めているのか地毛なのかは判断できないが、地毛とするのは無理があるかもしれない。
 垂らされた前髪から覗く右目も、はっきりと確認できる左目も、色は人と思えぬほどに鮮やかな碧。背筋が凍るほどに乾いた、冷えきった目だった。
 影が飛び退り、間合いを取る。
「ヘェ。やるじゃねぇか、『紅の獅子』」
 発される音は成人した青年のそれ。武はうなりにも似た声で返事をする。
「何で俺の名前を知ってやがる」
「知ってるんだろ、俺の名前を? そこから推測すりゃァいいじゃねえか」
 端麗な顔を歪め、青年は嘲笑うかのように真っ赤な舌を出した。
「俺は狂った快楽主義、楽しめりゃなんだっていいんだよ。最高のヒントだぜ、これで十分だろ、『紅の獅子』?」
 光矢は武の表情に、何も言えなくなってしまった。
 あの悪名高き剣間武が、冷や汗をかいている。
「――伝言だぜ、月島光矢」
 二振りの凶器を腰に収めて、青年は言う。
「『貴方の兄君と予言の力を、二日後にいただきに参ります――アポロン』」
 にやりと凶悪な笑みを残して、彼の言葉は途切れた。後にはぽつりと灯る電灯と、二人の男だけ。
「先輩。兄貴と天津さんは」
「てめぇがぼーっとしてる間に、二つ向こうの路地に隠れてもらった。……気づかれてねぇなンて甘ぇことは考えてなかったが、手ぇ出されなかったのが奇跡だぜ」
 軽い足音と共に、二つ向こうの塀から、残る二人が現れる。
「剣間先輩、月島君、何があったの」
「光矢、一体どうしたんだ」
 詰め寄る二人を武が手で制する。それから足を急がせた。しぶる那月と別れ、家に帰るまで、彼は終始無言だった。

(2006.11.8)



第二章 其ノ1「来訪者」

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