第二章
其ノ2
『宣告者』
(せんこくしゃ)


 あいつは、と、武が重い音で切り出したのは、夕食を終えて少し経ったときであった。足を組み、タバコに火をつけ、煙越しに光矢を見つめてくる。
「裏の世界じゃ有名なンだ。それも、かなり悪い意味で」
 言いながら、どこからか紙とペンを持ってきた。座る時にテーブルの花瓶が危うく倒れそうになったが、彼は大して気にもせず紙を広げた。
「俺も片足突っ込ンでたから、噂くらいは耳に挟ンでた」
 書かれるのは、何かの名前のようだ。
 それにしても、随分と丸い字である。こんな怖い顔した兄ちゃんが書いたとは信じられないほどに丸い。
「先輩」
 言いかけて、やめた。とりあえず今はシリアスな場面だから、水を差したらまずい。光矢はとっさに、言いかけた台詞をすりかえる。
「あの人は、この中の誰なんですか」
「今から言うンだから黙って聞いてろよ」
 怒られた。
「裏の世界じゃ、会ったら生きて帰れねえと言われている奴が三人いる」
 武はペンの先で、書かれた三つの名を示す。

『死神の切り札/最悪の終焉(Worst End)』
『血まみれエース/殺し屋の糸巻き(Murder's Reel)』
『首切り双刃(ふたば)/狂える快楽主義者(Crazy Hedonist)』

 丸字で書かれているためか、紙面にある禍々しい字の威力は半減している。
「こいつらはまぁ、平たく言えば殺し屋だ。さっきの野郎がこいつ……組織を抜けて、単独で行動しているイカれた野郎さ。今は何でも屋として有名になっちゃいるが、本質はほとンど変わってねぇ」
 たたかれる名は『首切り双刃』。
「徹底的な快楽主義者――……大金をもらえばどンな仕事も引き受ける。だがそれがつまらなけりゃ、即放棄しちまう。最悪なまでの自分勝手さと、最高以上の腕を持つ何でも屋だ」
「それじゃあ仕事にならないじゃないですか」
 口を挟むと、武は眉根を寄せた。
「言ったろ。つまらねぇ仕事だと判断すりゃ、即仕事やめて帰っちまう最悪な野郎だが、仕事の面だけ見りゃ『最高以上』の腕を持ってるンだ。それほどの腕を持った奴に気に入られるような仕事を見繕って、依頼人は依頼してくるンだよ。奴が動かなくたって、相手が勝手に仕事を持ってくる。そういうこった」
 武は煙を吐き出し、声を沈める。
「……問題は、仕事を気に入った場合だ。奴は気に入った仕事は『やりすぎる』。そこに奴の恐ろしさがある」
 意味が読めず、武を見た。武は一度言葉を矯め、放つ。
「違うな。『楽しいから止められない』ンだ。結果として、徹底的に『やりすぎる』。ターゲットが一人でも、その周囲から全て根こそぎ、殺しつくす。破壊工作なら跡形も残らず徹底的に破壊しつくす。一つなんて甘いもンじゃねぇ。奴が止まンのは、満足した結果――飽きる、それだけだ。奴に取っちゃ全部遊び、判断は全部自分が楽しいか否かで決まるってことになる。だから奴は怖ぇ。自分が満たされなけりゃ、延々と満たされるまで続けるからな」
 光矢は再び紙面に眼を落とす。二振りの大きなナイフと鮮烈な碧の瞳、それらの冷たい光が思い出された。
 決して友好的な人物ではないことくらいは理解できる。そして、日常生活では会うことすらないタイプの人間であることも、理解できる。
 だが、理解することはできても、認めることなんてできない。
「何にせよ……奴がただの伝言役におさまってるワケがねぇ。あいつはこの仕事に『乗った』ってことは、今以上に警戒しなけりゃならねえってことだな」
「……冗談じゃないですよ」
 口の中に溜まった唾液を飲み下して、光矢は低く言った。
「そんなワケの分からない相手のことを、一体どうやって警戒しろっていうんですか? いっそ警察に相談して、もうこれ以上関わらないでくれって言ったほうが」
「馬鹿、こっちの基準で考えるな」
 武の鋭い目がこちらをにらむ。
「いいか、それはあくまでこっちの世界の話だ。あいつのいる場所は、常識なんて存在しねぇクレイジーな世界なンだぜ。頭の中身も俺たちじゃ想像できねぇくらいにぶっ飛ンじまってる奴らがゴロゴロしてる世界だ。警察も怖気づいて手出しすらできねぇ場所だ。もう一度言うぜ、こっちの常識は欠片も通用しねえ。あいつにゃ何を言っても無駄だ。精一杯に抵抗する以外に、助かる確率が上がる方法はねぇンだぞ」
(そんなこと言われたって)
 光矢はうつむき、テーブルの下で、武に見えないように拳を作る。
(今まで普通の生活しかしてきてないのに、いきなりそんなこと言われたってできるわけないだろ? 何でこんなことになってるんだよ? ついこの間までは、普通の生活だったのに)
 武はそれきり口を閉ざし、タバコをくゆらせている。まるで光矢の答えを待っているように、煙の向こう側から視線を投げていた。心臓の鼓動が相手に聞こえるのではないかと不安になるほど、空気が張り詰めている。
(……何でこんなことになってるんだよ……! 意味わかんねぇよ……!)
 その目から逃げるために、この空気から逃げるために、光矢は一言だけ席に残して立ち上がる。
「ああそうですか。分かりました、気をつけますよ」
 苛立ちと投げやりな態度がむき出しになってしまったが、光矢は隠そうとも思わなかった。武も特に言及はせず、黙ったままタバコをふかしていた。



 白い調度品には、彼の色は鮮やかすぎる。
「伝言はしてくれたかい」
 我が物顔でソファに身を預けている青年は、軟玉の瞳を細めて笑みを歪めるだけだった。意地の悪い男だと、思わず失笑する。
「してくれたものと見て話を進めるけど……彼女はその中に、いた?」
 返事は無い。くくく、とくぐもった笑い声が耳を撫でる。楽しんでいるらしい。
「困ったな。それじゃあ報酬が払えないよ」
「大して困った風でもねぇじゃねえか。え? アポロンさん」
「困ってるよ。天下の『首切り双刃』をタダで働かせたなんて、僕のプライドが許さないんだよ」
 彼はまた、喉の奥で笑いをもらした。
「プライド、ねぇ……てめぇのことなんざ、知ったことじゃねぇけどな」
 身長の割りに長い足を伸ばして、何でも屋は立ち上がった。音も無く、闇へ向けて歩き出す。
「一応伝えてはおいたぜ。引き続き……監視と報告をさせてもらおう」
「頼むよ。よろしくね」
 紅も碧も黒も、全てが消える。消えて、次に闇から現れるのは、純粋たる完全な黒、無感情な闇だった。
「やぁハデス。ヘリオス様が、何か?」
「『勝手な動きは控えよ』」
 通る声は、再び闇夜へと還っていく。
「月島光矢を差し出せば、少しは大目に見てもらえるのでしょ? 一緒に捕まえるから、その褒美にと言っておいて」
 黒衣の男が、何かを言いたげに整った唇を震わせる。それは結局音にはならず、彼はこちらを凝視する。
「何、自分で考えればいいじゃないか。そんなことも思いつかないの? ……そうだね、『月島光矢を捕らえた褒美として、カッサンドラをいただきます』とでも」
「――了解した」
 気配は唐突になくなり、ただ一人残される。窓辺には月の光が落とされ、静寂にたゆたっている。
「もう少し……もうすぐ会えるよ」
 笑みが、揺らぐ風に混じる。
「だから待っていて、愛しいカッサンドラ」

(2006.11.8 最終訂正:2008.4.12)

其ノ3「予言力」

其ノ1「来訪者」

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