第二章
其ノ3
『予言力』
(よげんのちから)
『あなたの兄君と予言の力を、二日後にいただきにまいります』 不可解な伝言を受けてより二日、予告の日となった。できるだけ気にしないように、思い出さないように努めてはいる。が、期日になった今、どうしても意識がそちらに行ってしまっていた。 (だいたい何で俺の兄貴なんだ) これまでの襲撃は二回。どちらも、光矢の中にいるという『エンデュミオン』が目的であった。しかし、今回は違う。光矢ではなく、一切関係ないはずの兄が狙われているのだ。 (……もしかして兄貴……何かやらかしたのかな) 人のいい水穂のことだ。悪い商売に引っかかったのかもしれない。アポロンという人物が一体どのような考えを持っているのかは分からないが、大切な家族を連れて行かれることだけは、絶対に阻止しなければならない。 シャープペンシルをくるくると回しながら、ふとある単語が引っかかった。 (……予言の、力? 予言の力って何だ? それと兄貴と、関係あるのか?) 「月島。授業終了の挨拶もできんのか」 先生の言葉によって思考が中断される。慌てて周囲を見回せば、光矢を除く全員が起立していた。隣に目をやると、那月が困ったように頭を下げる。どうやら何度も合図をしてくれていたらしい。 「あ……す、すんません……」 「何だ、風邪か? 恋の悩みならいつでも相談に来いよ」 先生の冗談は、光矢にとって少し重過ぎた。半年も前なら冗談で返せたはずなのだが、今はそうすることすら叶わない。今の自分は、『普通の学生』から程遠い生活を送っているのだから。 胸を刺す暗い感情に痛みすら覚えながら、光矢は曖昧に笑って誤魔化した。 光矢の危惧を他所に、一日は何事の変化も無く終わりそうであった。いつものように清志たちと話し、授業を受け、部活をし、家に帰る。帰り道も警戒していたのだが、家の門をくぐっても何もなかった。 びくびくしていた自分が馬鹿みたいに思える。光矢は小さく苦笑してから、玄関の戸を開いた。 「ただいまー」 返事は無い。水穂はもう帰宅しているはずだ。いるのなら、必ず出迎えてくれるはずなのに。疑問に眉を寄せたとき、ヘクトルの鳴き声がした。切羽詰った吠え方に、疑問が全て吹っ飛ぶ。 何かあったのか。靴を脱ぐのももどかしく、光矢は廊下を駆ける。アポロンなる人物からの拉致宣告が、脳裏にちらついた。 「兄貴ッ!!」 木の床に倒れた水穂と、主の異変を知らせるために吠え続けるヘクトルが目に飛び込んでくる。 「どうしたんだ!?」 駆け寄り、抱き起こす。兄は苦しげに息をつき、ひどい汗をかいていた。額に手をあて、その熱さに思わず引っ込める。熱が出たなんて甘いものではない。生きているのが不思議なほど、皮膚は熱を持っていた。 「兄貴……!」 何度か呼びかけると、水穂はようやく薄らと目を開いた。 「……あぁ……光……矢」 「すごい熱じゃないか! 何があったんだよ、寝てなきゃ!」 水穂はふと、自分の目元を覆った。見えないはずのそれを隠し、小さく首を振る。何かに怯えるように体を震わせ、聞き取れるか否かほどのうわ言が唇から零れ落ちる。 「彼が、来る」 光矢に対する答えではなかった。 「彼が来る……私は、逃げなければ……彼が、来る……」 かすかな余韻を残し、うわ言は光矢の耳に貼りついた。 テーブルに足を乗せてタバコをくゆらす彼を、光矢はとがめる気にもならなかった。目の前の男が警戒し、全身の神経を集中させているのが分かる。自分の足先を凝視しながら、時折思い出したようにタバコの煙を吐き出し、灰を落とし、口にくわえる。正面に座った光矢のことなど、まるで見えていないらしかった。 倒れた水穂を寝かせたところで、武は帰ってきた。立ち込める空気から、何かを察知したのだろう。 「嫌な空気だ」 ただ一言呟いて、それきり口をきかなかった。現在まで同じポーズのまま黙り込んでいる。思索しているようにも見えるし、純粋にイラついているだけなのかもしれない。光矢は結局、話しかけることすらできないでいた。 ヘクトルは主のそばをついて離れない。何度も呼びに行ったが、彼は根が生えたように動かなかった。 光矢だけが一人、いたたまれない気持ちでいる。これ以上の長い時間、家に垂れ込める重い空気に耐えられる自信は無い。 自室に戻ろう。立ち上がったとき、武がこちらに尋ねかけてきた。相変わらず視線は、自分の爪先に固定されたままであった。 「おい光矢。水穂兄ぃ、何か言っていたか」 とっさの判断をしかね、光矢は言葉に詰まる。 『彼が来る』 どう答えればいいのか。どう答えるべきなのか。正直に言ってもいいのだろうか。兄の様子は、少なくとも尋常ではなかった。だがそれを素直に口にするのは、ためらわれた。 「……ええと……その」 しかし、迷っている間に変化が起きた。ヘクトルの激しい鳴き声が、二階から突如聞こえてきたのだ。 武が椅子を跳ね上げて立ち上がる。ガラスを破る勢いで引き戸を開け、荒々しく階段を駆け上っていく。一呼吸の間を置いて我に返り、光矢も武の背中を追う。 水穂の部屋の戸が開いていた。武はもう中にいるらしい。 「誰だッ!! そこにいンだろ!?」 激しい怒声、ヘクトルの吠える声、そしてもう一人、声がする。遅れて部屋に入れば、 「……!」 闇の中に浮かぶ白い服が、網膜に焼きついた。 どこから入ったのだろうか――白い天才、太田原陽介が、窓枠へ優雅に腰掛けていた。 「てめぇ……」 武が舌打ちする。 「やぁ、アレス。久しぶりだね。120と6年振りだ」 対する天才は、朗らかに笑いながら手を振る。 「あのときは大変だったね。いや、あのときもこうして対峙したものだった。僕らはいつも正反対、戦いを好み、殺戮(さつりく)の中に身を置く君と、芸術を愛し、平和を愛する僕。どうも相性が良くないようだ」 光矢はめまいさえ覚えた。ありえないはずの話が、目の前で展開されている。この白い天才がここにいることだけでも信じがたいことなのに。 笑顔に、鋭い銀が突きつけられた。 「言いたいことはそれだけか。相変わらずよく動く口だな、アポロン」 「君も相変わらず短気だね」 太田原陽介は歌うように言い、光矢へと目を向けた。気づかれたくなかったが、自分がこの場に来たこと自体、彼にはお見通しだったようだ。 「やぁ。以前も会ったね。いつぞやはごめん。改めて確認するけど、君が月島光矢君、だね」 背筋が急激に冷えていく。視線を合わせて、気づいた。 太田原陽介、アポロンは、笑っていなかった。表情こそ柔和な笑顔を浮かべているのに、瞳が笑っていない。焦点が合っているにも関わらず、この場のどこをも見ていない。言いようも無い寒気を覚え、光矢は一歩退こうとした。 だが。 「……ッ」 足が動かない。足だけでない。全身が麻痺している。実際に自分が立っていることさえ疑わしいほどに、体の自由がきかなかった。 「こんばんは。今日はいい月夜だね」 槍の穂先が喉元にあるにも関わらず、アポロンは笑みを崩さなかった。一見まともな、しかしまともでない笑顔は、逆に余裕さえ感じられた。 彼はゆっくりと、次の言葉を唇に乗せる。 「伝言どおり、君のお兄さん――いや、この言葉は適当ではないね」 訂正の後、ゆるりと頭を振った。開いた窓から、月の光がこぼれてくる。太陽神の白いスーツを、柔らかな茶の髪を、端整な顔立ちを照らし、神々しい印象さえ与えられた。 青年が、微笑む。ひどく優しいのに、どこか禍々しい。 「訂正しよう……『彼女』と予言の力を、返してもらいに来たよ」 告げられた句は、甘い音を伴って大気に放たれた。 (2006.11.27) |