第二章
其ノ3
『予言力』
(よげんのちから)
彼女とは、誰を示すのか。なぜ自分の兄なのか。兄が『彼女』だというのか。真っ白になった頭の中に、質問が次々と浮かんでは消える。 「……予言の力って、……なんで兄貴が……」 強張る唇を動かして発された問いは、情けないほどにかすれて震えていた。 「簡単なことだよ」 アポロンは緩やかに両手を広げた。まるで誘うように、諭されるように、柔らかな主張が夜の空気を伝う。 「『彼女』の力はもとより僕のものだった。だが長い年月を経て、力は『彼女』に同調し同化してしまった……力だけ抽出することが不可能になってしまった。ゆえに『彼女』ごと、力を返してもらいにきたのさ」 光矢の隣にうずくまっていた影が動いた。ヘクトルだ。犬とは思えぬほどに素早い動きで、アポロンに飛び掛る。ハーネスをつけているとは思えない。 「ヘクトルか。はは、これはいい。前の世で何をやらかしたか、犬にまで魂の地位を落としているとはね。妹の危機を救う、さながら騎士のおつもりか」 アポロンは座ったままだった。おかしそうに声をあげて笑い、腕を振り上げる。 「しかし、所詮は人間……いいや、獣の身で一体僕に何ができる!?」 途端にヘクトルが弾き飛ばされた。床に強くたたきつけられ、動かなくなる。アレスが槍をきつく握りなおし、腰を落として低く告げた。 「動くな。今動けば、お前の心臓を貫く」 「勇ましいことだ」 アポロンは怯んだ様子もなく、返事を返す。 「でも僕は、力ずくで事を運ぶことが好きじゃないんだよ。暴力はよくない。暴力ではなにも解決しないからね。例えばこんな風に――」 ほんのかすかに、アポロンの姿が揺らいだ。 「――穏便に解決する道があるならば、僕はそれを選択するとも」 腕に水穂を抱えて。 「ほら。血を見ることなく終わったでしょう? もっと早く渡してくれればよかったのに」 彼は、また笑顔を浮かべた。 「これでいい。これで彼女は僕のもの」 水穂の額にかかる髪を払いながら、うっとりと囁く。 「……僕のものだ」 今何が起きているのか、意識が追いつかない。違う。脳が、理解することを拒絶している。光矢は真っ白になった意識で、兄を抱えた太陽神を凝視するしかなかった。 「もしも取り返したければ、僕の家においで。盛大におもてなしをしてあげる……できるものなら、ね」 白い影は、たちまちに窓の外へ躍り出た。アレスが槍を持って追いすがるが、そのときには既に白き太陽神は姿を消していた。 「畜生、逃げやがった!」 窓枠から身を乗り出し、アレスは歯軋りして悔しがる。兄がさらわれた衝撃と、自分がまだ生きている安堵が混じりあい、霞となって意識を覆っていた。その弾みでか、膝から力が抜けていく。 しかし、座り込むことは許されなかった。体が浮上する。胸倉をつかみあげられていた。アレスの目線よりも高く持ち上げられる。 「小僧、何をしていた」 アレスの瞳は、強い輝きを持っていた。足先が床から離れている。喉が締め付けられて苦しい。 「なぜセレネを呼ばなかった? 何のためにアイツが、これを渡したと思ってるんだ!!」 乱暴に引き出される月色の鎖が、視界の端に映る。 嫌でもセレネの悲しげな顔が浮かんできて、光矢は思わず目をそらした。 「知りません、そんなの」 ついて出た答えも、驚くほどに冷めたものだった。アレスの表情が歪む。 「知らねぇ、だと?」 「元はと言えば、あの人が勝手に押し付けてきたものですよ。ですから、知りません。あなたたちが何をしようと勝手ですけど、それにただの人間である俺たちを巻き込むのは、正直迷惑です。兄貴がさらわれたのも、あなたたちのせいだ。俺には関係」 胸の圧迫感が消え、硬い床の感触が足裏に触れる。と同時に、頬に痛みが走った。反動で体勢を崩し、背中を打ちつけた。耳鳴りのする聴覚の向こう側で、金属の落ちた振動をとらえる。殴られたのだと分かったとき、光矢は理不尽さに怒りを覚えた。 「……ッ、に、すんですか」 「甘えたことを言ってるんじゃねぇぞ、小僧」 アレスは声に怒りすらにじませ、再び光矢の胸倉をつかみあげる。 「目を背けたところで、事実からは逃げられねぇんだよ! どうして直視しようとしねぇ!」 口の中に広がる鉄の味を噛み締め、光矢は吐き捨てるように返事をした。 「……そんなこと、分かってますよ。なぜなんて、聞かないで下さい」 自覚は、している。これは逃げだ。認めたくないから、あえて考えないようにしている。 視界に入れなかったとしても、耳を塞いだとしても、見たという事実は、聞いたという事実は、無かったことにできない。 それでも、納得できない。自分が自分ではないということを、認めることなどできない。 「……俺は、あんたたちみたいに強くなんかないんだから」 強く生きてくることを要求されなかった自分に、今更どうしろというのか。苛立ちと言い訳がない交ぜになった言葉を、アレスは真正面から砕いた。 「最初から強い奴など、どこにもいねぇ。強くなろうともせずに逃げて、弱いことを言い訳にするのは、臆病者や卑怯者がすることだ」 何も言い返せず、光矢は唇を噛み締めて黙りこむ。 「強くないと思うなら、逃げることをやめろ。逃げずに前を向いて、受けとめる努力をしてみせろ。それすらやらずに言い訳をするのが、気に食わねぇって言ってるだけだ」 乱暴に光矢を突き放してから、アレスはヘクトルを抱き起こした。意識が戻ったのだろうか、ヘクトルは小さく鼻を鳴らしている。 「……事態は急を要する。セレネに連絡を取れ。俺にはそれは使えねぇ。対策を立てにゃならん」 言いながら、へたり込んだ光矢の隣をすり抜ける。何か言われるかと思ったが、アレスはそれ以上言葉を発することなく、部屋の外へ出て行ってしまった。 床に目をやる。開け放たれた窓から流れ込む月光に、鎖と水晶が照らされている。手を伸ばした。ひやりとした感触が指に染みる。握りこみ、しばらく見つめた。 鈴にも似た音が、水晶珠から聞こえてくる。透明な音色はどこか懐かしい。 「――……、セレネ」 ためらって、呼んだ。音が遠ざかる。 『光矢? どうしたの』 セレネの声が、一際澄んで響いた。心の奥底が、安心感に緩むのが自覚できる。 「……兄貴が、さらわれた。先輩……アレスさんが、対策を考えてくれる、って。連絡しろって言われて、それで」 今更になって口の中が痛む。切れているのかもしれない。うまく話すことができなかった。察したのだろうか、セレネは途中でもういいわ、と柔らかく止めてきた。 『分かった。私も彼と共に行くわ。アレスとは、また改めて相談する。お兄さんが拉致されて辛いでしょうけれど……私が何とかするから、もう少しだから耐えて』 あれだけひどいことを言ったのに、本当は気まずいかもしれないのに、月の女神はどこまでも優しい。 不意に泣きたい気持ちになったが、唇を噛んで堪えた。ようやく一言だけ、伝える。 「……ご、めん」 『どうしたの? 私なら、大丈夫よ』 「違う……そうじゃない……でも、ごめん」 一呼吸の沈黙の後に、セレネの言葉が落とされた。母親のように暖かな、諭す言葉であった。 『あなたは、何も悪くない。だから、謝らなくていいの。私こそ、苦しめてしまって……ごめんなさい。では、また』 それきり、水晶はただの石に戻る。音も、いつしか聞こえなくなっていた。 石をきつく握り締め、光矢はそれをポケットに突っ込んだ。夏の夜風が、光矢の頬をなでていった。 * ここは、どこだろう。水穂は小さく頭を振り、漂う気配を探った。寝かされているのはベッドだろうか。上質な肌触りの布が、動くたびにさらさらと触れる。夏であるにも関わらず、この部屋はひどく寒かった。空調の動く音はしないため、冷房が入っているわけではないらしい。脳の奥が痺れるほどに甘い香りはユリだ。それ以外のにおいはしない。 ベッドから降りようとして、気づいた。足の付け根から下が動かない。動かないどころか、感覚がなかった。 「……これ、は」 「お目覚めですか」 空気が流れていく。聞き覚えのある声だった。水穂の動揺を察してか、靴音がこちらに近づいてくる。 「月島水穂さん。手荒な真似をしてしまい、申し訳ない」 手を取られるが、反射で振り払ってしまった。どういうわけか、目の前にいる男性に対して強い嫌悪感を抱いていた。全身が拒絶している。 相手が苦笑する気配がした。 「怒っていらっしゃるのですか」 「いえ……違います、ただ……」 「どうして自分をここにつれてきたのか……知りたそうなお顔をなさっていますよ」 肩に手が置かれる。勝手に手が動いて払おうとする、その手首をつかまれた。 「ッ……!」 急激に肩が熱くなる。彼の手自体が炎なのではと錯覚するほどに、強烈な熱が肌を焼く。 「理由は簡単です。あなたには予言の力がある。それは僕が与えたものである」 だから、と、彼は声も無く笑った。 「あなたは……いえ、転じて彼女は、僕のものである」 「……彼……女……?」 熱さと痛みに、気が遠くなりかける。腕を払おうと抵抗するが、それすら叶わない。腕を引かれ、青年の胸に倒れこんだ。 「そう、彼女。僕との結婚を拒み、異郷の地で殺されてしまった憐れな人」 意識が沈んでいく。自分の奥深くに、沈んでいく。水穂は感覚に飲まれまいと、きつく唇を噛み締めて首を振った。瞬間、肩の熱が上昇した。かすれた悲鳴が喉をつく。 「僕の名はアポロン。芸術と太陽を司るもの」 囁かれる名は、痛みに霞む頭に残響を残した。 「そして、君はカッサンドラ。トロイの王女にして美しき女預言者、僕を拒んだ強くおろかな人。僕の力を持つ、愛おしい人――」 この人は、恐ろしい。本能があげる警戒の声に、しかし従うことができない。圧倒的な熱、痛み、目の前の青年の持つ、異様な空気。水穂はもう一度悲鳴をあげ、それを最後に意識を手放した。 「気を失ったか」 背後から生まれた気配を振り返らず、答える。 「ハデス。人の家に勝手に入らないでほしいな」 「命令を受けた。お前の意思は強制力をもたない」 無機質な音声は、感情すら見いだせなかった。 「お前の動きを監視しろとの仰せだ」 「言われなくても」 一輪のユリを手に取る。みずみずしく花弁を広げていた花は、一分と経たぬうちに枯れてしまった。水分が抜け、床に乾いた姿を撒き散らす。 「やるべきことはやるさ。邪魔だけはしないでくれるかい」 返事などは期待していない。ユリの花弁が、最後の一枚を床に落とした。 「力の乱用は避けろ」 「君の忠告は聞かないよ」 命令などはこの際、どうだっていい。今は手に入ったものが大事だ。彼女が戻ってきたことだけが、全て。 アポロンは薄く微笑み、横たわる青年の肩を見やる。力に反応した所有の証は、太陽の姿をかたどってそこにあった。 (2006.11.27) |