第二章
其ノ4
『奪還者(上)』
(だっかんしゃ)


「せっかく家も近所なんだから、よかったら遊びに来て」
 終業式の日に、那月は光矢にこう言った。女の子、それも内気な転校生からのお誘いを、どうして断ることがあろう。
 不謹慎かもしれないが、光矢は浮かれていた。兄のことは、本当はいても立ってもいられないほど心配だ。だが自分にはどうすることもできない。
(俺じゃ兄貴を助けることなんてできないよ。アレスさんやセレネに任せておけばいい。だって俺、普通の学生だもの)
 言い訳する自分は少し格好悪いが、事実なのだから仕方が無い。重く垂れ込める心の暗雲を、少しでも取り払っておきたかった。
 それに、自分の本分は学生なのだ。少しくらい遊んでもいいだろう。光矢は彼女の誘いを、受けた。
 夏休みに入り、大会を終えてからはしばらく部活がない。光矢は休日第一日目に、那月の家へ足を運んだ。
「……で、何で先輩までついてくるんですか」
「俺がついてきちゃいけねぇってのか」
 隣のソファにどっかりと座り込み、腕組みをしてにらむさまは、まるでどこかの悪役である。ソファの座り心地は最高だが、この人がいると感触すら楽しめない。
 天津家のリビングはなかなかに広い。一緒に暮らしている親戚の人は忙しいらしく、ほとんど家にいないそうだ。那月はキッチンにいるので、今は男が二人きり。むさ苦しいことこの上ない。
 逆に、時折聞こえてくる落下音と小さな悲鳴が微笑ましかった。
(あぁ……天津さんと二人きりがよかったのになあ……)
「今やらしーこと考えたろ」
 ため息をついたと同時に入れられる質問に、なぜか頬が熱を持った。不意打ちだ。しかも、性質が悪い。
「な、な……ち、違っ」
 こういうときに限って口が回らない。武は意地悪く笑いながら、こちらを見ている。
「そっ、それより! 何で先輩までついてくるんですか」
「俺がついてきちゃいけねぇってのか」
 堂々巡りの会話になりそうだったが、それを打破したのも武自身だった。急に声を沈め、告げる。
「……本当は、アポロンのことについて話しておきたかった」
「今じゃなくてもいいじゃないですか」
「馬鹿。アレスの野郎が言っただろ。事は急を要する、ってな。早く動かなければ、こちらが不利になる。今日家で話す予定だったんだが、どこかのアホが女の子の家に行くんだーとかほざくからなぁ」
 嫌味が耳に痛い。つくづく人が悪いと思うが、口に出したら何をされるか分からないので黙っていた。
「話を元に戻すが、奴はおそらく自宅に引き上げたンだろう。水穂兄ぃはそこにいるはずだが、これはあくまで推測の域を出ねぇ」
「どうしてですか」
 武は少しの沈黙を置く。その間にタバコを取り出したが、ここではまずいと思ったのだろう、ポケットに押し戻す。
「あれからセレネが調査を入れたンだが、奴は住所が明らかになっていないらしい。探るに探れねえのさ」
 甘い香りが流れてくる。バニラのにおいだと、光矢は頭の片隅で思った。
「非公開なんだとよ。クソッ」
 ガラス製のテーブルをイライラとたたき、真っ赤な髪をかきむしる。
「一応知り合いには連絡してあるンだが……そこから多分……」
 と、けたたましいヘヴィロックが響く。音量最大なのか、なかなかにやかましい。
 同時に武が携帯を取り出し、廊下へ出て行く。全国のヘヴィロック好きには申し訳ないが、どうも彼の趣味にはいまいちついていけない部分があると、改めて実感する。
 そんなことはさておき、彼は数分後に戻ってきた。表情が少し緩んでいる。
「知ってるって奴が一人だけいた。後でそいつの家に行って、そこから直接乗り込みに行く」
 しかし大変そうだ。既に自分と切り離して考えている光矢は、ついうっかり口を滑らせてしまった。
「あ、そうなんですか。がんばってください」
 しまったと思った瞬間、武の腕が首に巻きついた。
「馬鹿かおめーはっ!! おめーも来るに決まってンだろが!! 何勝手に無関係装ってンだコラ!!」
「いでででで、いたたたたたっ!! せ、先輩苦しッ……」
 以前もこんなことがあったなぁ、と、光矢は遠のく意識の下で考える。
「自分の兄貴迎えに行くのに、他人に行かせてどーすンだッ!! この冷血漢、鬼、悪魔人でなし!!」
「ど、どっちが……いででで、何でもない、何でもありませんっ! 行きま、行きますっ……ぐえ、ギブ、ギブっ!!」
 解放されて、ようやく息をつく。
「よし。それじゃあ、このことはお嬢さンには内緒で」
「私も行きます」
 武の言葉に重なって、那月の細い声がした。キッチンカウンターの横にトレイが置いてある。両手はスカートを握り締め、唇はかすかに震えていた。
「え……」
「私も、行きます」
 再度細く、しかし強く、彼女は言い切る。
「……どこから聞いていた」
 武は尋ねる。大声の箇所を聞いていたとしても、あまり問題はないはずだと光矢は思っていた。しかし、武のまなざしはどこか違う。普段那月に向けるものではない。明らかな怒気を含むそれに、光矢はうろたえる。
 那月は唇を噛み、怯まずに答えた。
「アポロン、という人の名前が出てからです」
「ほとンど聞いていたンだな」
「はい。ごめんなさい、本当は聞くつもりじゃなかったんです」
 伸ばされた前髪の下で、武を真っ直ぐに見据えているのだろう。
「でも、そんな大変なことに友達が巻き込まれているのなら、放っておくことなんてできません」
「放っておけよ」
 光矢は身をすくませ、立ち上がる武を見上げた。こんなに冷たい目をする武は、知らない。
「これは俺らの問題だ。ひいてはこいつの問題だ。部外者がホイホイ首を突っ込ンででいい物じゃねえ」
「それでも! それでも私は、友達を助けてあげたい! 見知らぬふりをすることなんかできません!」
「偽善者ぶってンじゃねぇぞ、小娘が」
 武の声はさらに低く、凄みを増した。殺気を言葉の中に忍ばせて、那月をにらみつけている。
「お荷物は必要ねぇ。邪魔なンだよ。助けてやりたいから、じゃあてめぇは何が出来る。何もできねぇだろ」
 那月はそれでも引き下がらない。
「そんなこと、言われなくたって分かってます! でも……でも、月島君がすごく苦しそうだったから……! 何もできなくても、そばにいて力になってあげたいのに……助けてあげたいのに……月島君、何も言ってくれないから……!! 私ばっかり助けてもらってるのに……悔しくて……」
 先ほどまで張っていた声が、震えた。泣いているのかもしれない。女の子を泣かせるなんて、と、光矢はひどく情けない気持ちになった。
 よかれと思って取っていた行動が、逆に那月を傷つけていたのだ。心臓の辺りが圧迫されたように苦しくなり、痛んだ。
 近くでこんなにも心配してくれる人がいたのに、自分は一体何をしていたのだろう。
「先輩。もう、いいです」
 次の句を放とうとしていた武を引き止める。苛立たしげにこちらをにらむ彼をそのままに、光矢は那月を見つめた。
「天津さん。信じてくれないかもしれないけど、俺、今命を狙われているんだ。今まで話さなかったのは、天津さんを巻き込みたくなかったから」
 那月の視線を受け止めながら、ゆっくりと続ける。
「もしかしたら、天津さんも命を狙われるかもしれない。最悪、どうなるか分からない。それでも……」
 緊張で乾く唇を、一度舐めて湿らせた。息を継ぐ。
「……それでも、天津さんは俺のところに来るの?」
 また、一呼吸の間が開く。那月は迷うことなくうなずいた。隣から投げやりに、勝手にしろ、という呟きが漏れる。
「俺はどうなっても知らねぇからな、責任は一切取らねぇぞ」
「分かりました、剣間先輩」
 涙に濡れてはいるが、那月はしっかりとした音で返事を返した。
「ごめんね、何だか……話をややこしくしちゃったみたいで」
「いいよ。本当はすごく不安だったから。改めてよろしくね、天津さん」
 手を伸べた。那月は転校してきたときと同じように、口元をほころばせる。
「ありがとう、月島君。よろしくね」
 白い手を握った。柔らかくて小さな、温かい手だった。

 冷めてしまった紅茶を淹れ直してきたところで、武が那月へ一通りの説明をした。今までの流れをざっとさらい、那月に現在の状況を伝える。
 武は最初こそ渋っていたが、途中途中で入る那月の質問に答えるうちに考えを改めたらしい。那月は真摯な態度で説明を受け、分からないところは質問をして理解しようとし、説明を反復して確認をする。説明を一通り終える頃には、すっかり感心しきっていた。
「さっきは悪かったな。イラついちまってよ」
「いえ。お気になさらないでください、先輩。私も無理を言ってしまったし、先輩のおっしゃることは間違っていませんでしたから……こちらこそ、ごめんなさい」
 光矢を肘で小突いて、彼はなぜか得意げに言う。
「おい聞いたか光矢。この丁寧な言葉、先輩に対してきちンと敬語を使っている。しかも自分の失敗を素直に認めて謝ることができる、この態度。いいねぇ、いい子じゃねえか。どこぞの誰かにぜひとも見習わせてやりてぇな」
「どこぞの誰かって、先輩のことですか」
 思わず反射で出た言葉、気づいた時にはもう遅い。腹に拳がたたきこまれる。
 悶絶する光矢を尻目に、話はアポロンを知る人物について移動する。痛みに耳鳴りがする中、武の口からは意外な有名人の名が飛び出した。
「西嶺鏡華(にしみね きょうか)……っつったら分かるか」
「はい。世界レベルで有名な、最年少のオペラ歌手さんですよね。お母さんが確か女優さんの」
「西嶺かずさが母親だな。親父は海外に進出してる大会社の社長だぜ」
 つまりは超の上に超を重ねるお嬢様。芸能人や芸術関係に疎い光矢でも、名前くらいは知っている。
 聞くものをたちまち虜にする歌声は、ギリシア神話に登場する魔女セイレーンにたとえられるほどだという。水穂は彼女の歌を聞くために、何をしていても必ずその時間はテレビをつけるほどだった。
「そいつな、俺の高校ン頃のダチなンだよ」
「嘘ですよね」
 再び腹に右フックが決まった。内蔵が飛び出たら責任を取ってもらおうと、ぶれる視界で思う。
「俺のクラスメートだったンだ。今は音楽学校に通ってる」
 そういえば、一時期話題になったような気がする。世界的に有名になった最年少オペラ歌手が、うちの学校の生徒だったとか何とか。一年前のことだったが、興味が無かったために軽く流していた気がする。
「そいつが一度だけ、アポロンの家に招待されたことがあるンだとよ。知り合いに片っ端から電話したンだが、こいつ以外に知ってる奴がいなくてよ」
 アポロン、もとい太田原陽介もかなりの著名人である。そんなに有名人の知り合いがゴロゴロしているはずもない。それ以前に武がやったのは、恐喝か脅迫だろう。怖がって誰もかけてこないのではないだろうか。そう思ったが、今度こそ中身が出たら嫌なので黙っていた。
「お前ら、アレだ。大会が終わってからしばらくは、部活は無ぇンだろ。丁度いい。鏡華ン家にしばらく泊まりこむぞ」
「がんばってください」
 三度目の攻撃は足のすねだった。屈強な足から繰り出される蹴りに飛び上がる。
「よし、話は決まりだな。お嬢さン。もう後戻りはできねぇぞ」
「はい」
「明日行くことに決まってる。まぁ、迎え来てくれるらしいから、お嬢さンは俺ン家に来い。いいな」
(俺ん家だよ、あんた居候だろが)
 光矢は心の中で突っ込んだが、いつものようにそれを腹の中へ押し込めた。

(2006.12.2 最終訂正:2008.2.12)



其ノ3「予言力」

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