第二章
其ノ4
『奪還者(上)』
(だっかんしゃ)
ただ呆然として、光矢は目前の光景を眺めた。 「……ここ、本当に日本ですか」 「さようでございます」 運転席から、律儀に答えが返ってくる。独り言のつもりだったのだが、職業柄仕方ないのかもしれない。 「すごぉい」 「旦那様ご自慢の庭園でございます」 那月も感嘆の声をあげて、窓の外を見ている。武だけが落ち着き払って座っていた。 今乗っているのは高級外車だ。光矢は外車にも疎いので、種類は分からない。運転しているのは初老の男性で、ロマンスグレイという言葉を体現したような上品な紳士である。西嶺家専属の執事なのだと聞いたとき、光矢は軽いめまいを覚えた。 (執事って……俺、とんでもない人と関わっちゃったよ……) 「ね、月島君」 那月が嬉しそうに話しかけてくる。心なしか、頬が上気していた。 「広いお庭ね。車で移動しなくちゃいけないくらいなんて、外国でのお話だけだと思ってた」 「そ、そうだね……あはは……はは」 乾いた笑いをあげながら、光矢は今一度窓越しの光景を見やる。 西洋風の、手入れが行き届いている庭だ。噴水から吹き上がる水が、日光に照らされてきらめいていた。東屋の白い柱に、落ち着いた紅の屋根がよく似合う。左右に二箇所設置されており、周囲は季節の花々が咲き乱れていた。庭の中央を横断して敷かれた石畳を、今光矢たちが走っている。遠目に見える巨大な屋敷が、おそらくは本宅なのだろう。 「寺村さン。鏡華はどうなンだ」 「はい。お嬢様は相変わらずでございます」 寺村執事はそう答え、ゆるやかにハンドルを切った。大きな扉がちょうど光矢の目の前にそびえている。ここが玄関らしい。 「今何やってンだ?」 「今の時刻ですと、お部屋で自主トレーニングをしていらっしゃいます」 そんな会話を聞きながら、光矢は車のドアノブに手を伸ばす。が、それよりも先に寺村執事がドアを開けてくれた。少々居心地が悪い。 (……場違いな気がする……) 手を引っ込めながら思う。 (そもそもなんでこういう展開になってるんだ……) 「どうぞこちらへ」 招かれるままに足を運ぶ。 立派な洋館だった。外観もさることながら、中も完全なヨーロッパ風である。靴は脱がなくてもよいらしい。大理石の床は磨きぬかれ、豪奢なシャンデリアは金とクリスタルの輝きをまとっていた。高そうな花瓶がそこかしこに置かれ、花々が上品に活けられている。通路には全て紅い絨毯がひかれていた。広い階段を、寺村執事がゆったりとした足取りで上っていく。 金の手すりに指紋をつけるたび、なぜだか罪悪感にさいなまれた。軽くハンカチでふき取り、絨毯を汚さないように端を歩く。 「お前何キンチョーしてンだよ」 泥まみれのスニーカーで歩きながら、武が笑う。あんたが図々しいだけだろ、とはいえなかった。 那月は、と見れば、興味深そうに周りを見回している。緊張してはいるものの、どちらかといえば好奇心が働いているようだった。 「……どーせ俺は庶民ですよ……」 肩を落として、光矢は最後の段を上る。耳がかすかな音をとらえた。確かな旋律を組み上げて、それは奥から流れてくる。 「お、やってンな」 武はゆるく笑って、執事の背を追った。 「これ、モーツァルトの『魔笛』だね。夜の女王のアリアかなぁ」 那月が尋ねてくるが、芸術面に疎い光矢は笑って誤魔化した。 さらに階段を上り、回廊を進む。音は声になり、声は歌となって響いてくる。 「お嬢様。お客様をお連れいたしました」 歌は途切れ、代わりに女性の言葉になる。 「入って」 扉が開かれると同時に、陽光が目を射抜いた。眩しさに一瞬目を細め、光矢は大窓の前に立つ女性の姿を見止める。 「いらっしゃい。待ってたわ」 涼しい目元の、背が高い女性だった。豊かな黒髪を膝丈まで伸ばし、淡い紫のドレス姿である。右の目じりには泣きボクロがあった。 「ごめんなさいね、こんな格好で。リサイタルが終わってから、着替えてないの」 微笑を浮かべながら、彼女は視線を移す。 「武、久しぶり。いきなり電話されたときは驚いたわ。声もそうだけど、ちっとも変わらないのね」 「よぉ。相変わらずだとは聞いちゃいたが、お前こそちっとも変わってねぇな」 「あら嫌だ。『綺麗になったね』の一言は無いわけ?」 「冗談。お前に言う世辞なんざ、持っちゃぁいねぇよ」 交わされる会話には、親しい者同士の持つふざけた空気が混じっていた。まさか本当のことだったとは。光矢は唖然として、二人を見ているしかない。 「――あぁ、で、そっちの子が」 話の矛先がこちらに向いた。 「まぁ話したとおりだ」 「お兄さんが太田原陽介に結婚を迫られた挙句拉致されてしまったかわいそうな男子高校生ね」 ワンブレス。さすがはオペラ歌手。感動している余裕は、無い。 「ちょ、え!?」 「それは一大事だわ」 真面目な顔をして、彼女は腕を組む。 「だろ」 「ちょっと待って下さい! 先輩一体どういう説明をしたんですか!?」 慌てて会話の中に飛び込むと、武はさも当然といった表情をしていた。 「あながち嘘でもねぇだろ」 「勝手に脚色しないでくださいよっ!!」 「お芝居にはアドリブも必要なのよ、君」 「そういう問題でもありませんよっ!!」 完全におちょくられている。ツッコんでもきりが無い。 先行きが不安だ。光矢は頭を抱えて、重く息をついた。 「ね、君」 彼女――西嶺鏡華が着替えを終え(日照高のジャージだ。目にはあまり優しくないエメラルドグリーンである)、出された茶を飲んでいたときのことであった。 いかにもしみじみという風に、彼女は光矢に言うのである。 「重度のブラコンでしょ」 思わず、口に含んだ紅茶を盛大に噴出した。 「うぉっ!! 汚ぇ!!」 武が避難する。 「な、何でそういうことになるんですか!?」 「言葉の端々から感じ取れるのよ、青少年」 悪戯っぽく笑い、鏡華は長い指を振る。 「まあ、大体の事情は武から聞いてるわ。お兄さんと二人暮らし、しかもお兄さんが若干天然さん……気持ちは分からなくもない。これじゃあブラコンにだってなっちゃうわよ」 「若干じゃなくて、重度の天然です。それからブラコンじゃありません」 言い返しながら、光矢は兄のことを思い返す。 活動的で人見知りせず、思いやりもある水穂は人気者だった。朝早くから夜遅くまで学校にいて、ひどいときは一日話をしない日だってあった。 家よりも学校のほうが楽しいと言い切る兄が、いつでも自信に溢れていて輝いている兄が、光矢は大嫌いだったのだ。兄に構ってもらえない寂しさと受験の苛立ちで、しょっちゅう喧嘩もしていたのである。 「あら、立派なブラコンじゃないの。寂しくて喧嘩って、お兄さんが恋しかったからなんでしょ?」 言いながら、彼女は長い足を組みかえる。なかなか様になっている。これが高校のジャージでなかったら、モデルかとも思うだろう。 「違います! あれは兄貴が家にいないせいもあったし、俺が受験で苦しんでる時に楽しそうだったから」 「妬みそねみ? いわゆる嫉妬? 嫉妬するってことは、それだけ気にかかるってことじゃない?」 「だから、違います!」 「でも心配なんでしょう? 昔の話を引っ張り出してもしょうがないのよ。今は心配なんでしょう? いても立ってもいられないくらいに」 言い返せなくなって、光矢は黙る。 確かに、昔の話を出して言い訳をしても意味が無い。目が見えずに苦労したことも、絶望まで追い込まれたことも知っている。今置かれた状況がよくないことであるくらい、分かる。 だからこそ、兄のことは心配だった。昔は嫌いだった。けれど、今はたった一人の大事な家族なのだ。 うなずくと、鏡華は得意げに胸を反らして、 「ほらやっぱりブラコンよ、決定だわ」 言い切る。 「違いますってば!」 「それで、太田原君の家についてなんだけど」 無理やりブラコンにされてしまった挙句、否定は全て流されてしまった。肩を落とす光矢をよそに、話は進んでいく。 「ここから車で一時間かかるところに住んでるわ。この家に負けないくらい大きな屋敷でね」 (まだあるのかよ……) いい加減泣きたくなってくる光矢である。 「あとで寺村に送らせるわ。それでいい?」 「お嬢さンは危険だから待っててもらえるか」 那月は首を横に振る。 「……参るな」 武が困って眉を寄せたとき、鏡華がすかさず口を挟んだ。 「なっちゃんには、明日私のお手伝いをしてもらおうかな」 「え?」 「実は明後日、この家にあるリサイタルホールでコンサートをやるのよ。なっちゃんには私のドレス選びと、アクセサリー選びと、リハーサルの付き人をやってもらうわね」 「え、えっ? でも、私」 戸惑う那月に、武がたたみかける。 「おっ、そりゃあいいな。すぐ戻ってくるから、お嬢さンは鏡華のこと頼ンだぜ」 「えっ? は、はいっ! ……あ、あれっ?」 たたみかけられて混乱した那月は、うっかり罠にはまってしまったようだった。 「じゃあ俺も……」 「てめぇはもちろん俺と一緒に来るンだろうな」 喉から出かけた台詞は、武の眼力に打ち砕かれる。 (……逃げたい……) 胸中で滂沱(ぼうだ)の涙を流しながら、光矢は思った。 * 美しい夜だ。月は上弦、零れる光はアルテミスの引く馬車の轍か、はたまたセレネの涙なのか。 アポロンは、窓辺に置かれたベッドに横たわる青年を愛でていた。細い腕は力なく投げ出され、解けた髪は白いシーツに散っている。瞳は硬く閉ざされ、唇もわずかに青ざめていた。指で輪郭をなぞり、ラインを辿り、感触を楽しむ。 「カッサンドラ」 そうして愛しい名を呼んだとき、背後に小さな嗤いが生まれた。 「くくっ。麗しき太陽神は、たかだか人間の男がお気に入りらしい」 どこから入り込んだのか、言及するつもりはない。彼はもとよりその手段を心得ているから。 「肉体は人間の青年であっても、魂は彼女だ。彼女の片鱗がありさえすれば、僕はどのような姿でも愛せるよ」 嘲笑うように鼻を鳴らして、『首切り双刃』は壁にもたれた。 「イカれてるぜ」 「君も、だろう」 「ハッ。俺と同じにするなよ」 形よい唇を歪めて、言う。 「俺は出来損ない。だからこそイカれている。あんたは完璧だ。完璧ゆえにイカれている。性質が悪いのはどっちだろうな?」 取り合わないまま、アポロンは水穂を愛でている。 「明日、来るらしいぜ」 「それじゃあ、できる限りのおもてなしをさせてもらおうね。せっかく彼女が目覚めたのだもの」 水穂の長いまつ毛が、震えた。 「さぁ、カッサンドラ――美しい人、愛おしい人、おろかな人。やっと会えたね」 目蓋を持ち上げて、水穂はか細い声で返事をした。 「――どうして私を、解放してくれないのですか」 悲痛な色を含む言葉に、アポロンは優しく微笑む。彼の柔らかな髪を梳きながら、残酷な答えを唇に乗せた。 「だって、君は僕のものじゃないか。僕以外のものになんて、あげないよ」 水穂の姿をした悲劇の女預言者は、澄んだ瞳から嘆きの涙を流した。 そのとき『双刃』が浮かべた笑みの意味を、果たしてアポロンは解しただろうか。 (2006.12.2 最終訂正:2008.2.12) |