第二章
其ノ5
『奪還者(下)』
(だっかんしゃ)
目の前には、頑丈そうな鉄の門がある。鏡華が言うには、ここが太田原陽介の住居なのだそうだ。 だが、いざ入ろうという時点で問題が起こった。門が開かないのだ。玄関は西嶺家ほどではないが、やはり遠く離れている。呼んだとしても聞こえないだろう。 「……びくともしねぇか」 門に蹴りを入れ、武が呟く。移動して、関係者用の小さな扉も蹴っていたが、こちらも薄っすらと汚れるだけであった。 「セレネはまだか?」 「もうすぐらしいです」 光矢は、水晶玉の鎖をもてあそびながら答えた。このまま武が扉を蹴破って、セレネが来る前に中に入れればいい。そんなことを考えながら、扉が蹴られる音を聞く。 顔を、合わせたくなかった。以前彼女に投げた言葉のこともあるだろう。セレネとアレスで片がつくはずの事柄に、場違いに自分がいるからかもしれない。しかし、明確な理由は光矢自身にも分からなかった。 (来なければいいのに……) 鎖を握り締めたとき、声がした。 「アレス――」 続いて、白金の髪と華奢な体躯が現れる。光矢の期待は、見事に裏切られたのだった。 「来たか」 「ええ」 答えてから、セレネが息を飲んだ。光矢もまた、うつむいて唇を噛む。 「――光矢……あなた、どうしてここにいるの。駄目よ、危険だわ」 「俺が連れてきたンだよ、セレネ」 武がセレネの言葉を遮る。 「てめぇの家族くれぇ、てめぇで助けてみせろってンだってな」 セレネの視線が、戸惑うようにこちらを向く。 「それに考えてみろ。置いてったとしても、戦力が二人こっちに来て、肝心のこいつがさらわれたとなっちまったら意味がねぇ。本末転倒もいいとこだろうが」 言いながら、武は今一度鉄の門を蹴り上げた。今度はくっきりと足型が残るが、相変わらず開く気配はない。 「だから、いいンだよ。気にすンな。お前のせいじゃねーよ」 「そう……分かったわ」 近づいてくる。胸の中がざわついて、落ち着かない。光矢は一度息をつき、隣にある気配の様子を窺う。 それが分かったのか、セレネはかすかに微笑んだ。 「どうしたの、光矢」 柔らかな笑みに、心の一点がひどく痛んだ。 気づいてしまった。表情の裏に、深い悲しみと、わずかな焦りと、苛立ちがある。それを彼女は全て押し込めて、笑っている。自分には決して見せまいとしている。 本当なら、自分のように怒鳴りつけて、泣いてしまいたいはずなのに。 「……どうして笑ってられるのさ」 「私?」 不意にこぼれた質問に、セレネは首を傾げる。 「俺、あなたの言ってること、ちっとも信用してないんだよ。あれだけひどいこと言ってさ。でもどうして、あなたはそうやって笑ってられるんだ」 彼女はまた笑い、小さく首を振った。白金の髪が滑らかに揺れる。肩に触れてくる手は、以前よりも痩せていた。 「そう簡単には受け入れられないことだし……普通なら、おかしいことじゃない。あなたがそう感じるのも無理はない話だし、私自身も簡単に信用してもらえるとは思ってなかったから。それに……今回のことは、あなたに責められても無理のない話だもの」 言いながら、セレネは微笑を苦笑に置き換える。織り交ぜられた自嘲は、光矢の息を詰まらせた。 「あなたを守ると言っておきながら、本当はあなたの中にいる人のことしか考えてなかったの。あの人を守れれば、周りのことはどうなってもよかった。それが結果として、あなたの生活を壊して、苦しめてしまった。私のしていることは、とてもひどい自己満足なんだって、気づいたの」 だから、とセレネが笑う。 「一刻も早く、あなたを元の生活に戻してあげたい。自分のために泣いたりするのは、全てが終わってから。それまでは笑って、せめてあなたに不安を与えないようにしなくちゃって……あなたに最後に会ったときに、誓ったのよ」 手が離れ、肩から温もりが引いた。セレネが門に視線を投げる。白く伸びた首筋がなぜか痛々しくて、光矢はわずかに目を細めた。 夢で見た光景が、鮮明に思い返される。いなくなった恋人を、最期まで探し続けた女性。神としての力を失い、一人ぼっちで、絶望の中で息を引き取った彼女。血の気が失せて白くなった首筋に、烏の黒がどこまでも不気味だった。 体の奥底から湧き上がる哀しみに、涙腺が緩む。光矢は慌てて思考を中断し、地面に目を落とした。靴の爪先が並んでいる。アスファルトの灰色は、スニーカーの汚れた白でもよく目立った。 瞬間、プラスチックの割れる音がする。反射で顔をあげて見やれば、武の足が呼び鈴に食い込んでいた。どうやら見えない場所にあったらしい。けたたましいサイレンが響くも、再び入った蹴りが強引に止めた。 「何したんですか」 「手元が狂ってよ」 平然と答え、武が足を戻す。光矢は一瞬突っ込むべきか悩んだが、別の答えが出されてしまった。 「お客様、大変お待たせいたしました」 優美に礼をしてから、その女性は言う。巷でもてはやされている、いわゆる「メイド」だった。 「陽介様に御用のお方ですか」 「さっさと通せ」 「かしこまりました。どうぞこちらへ」 門が開かれる。目があった。同じくらいの背となると、女性にしては高い部類だ。軽く会釈をすれば、相手もかすかに笑って会釈を返してくれた。濃い金の髪を軽くおさえてから、先頭に立って中に入っていく。金髪碧眼ということは、外国の出なのだろう。日本語が上手なのだな、と場違いに感心してから、足を止めた。 記憶の隅に引っかかっているものがある。声なのか、背丈なのか、それとも別のものなのかは分からない。思い出せそうなところまで来ているのに、あと一歩で思い出せない。 「どーした」 武が尋ねてくる。 「……何でも、ないです」 思い出せそうにない。光矢は諦めて、そう返事を返す。武はいぶかしげに眉をひそめたが、それ以上は追求してこなかった。 太田原邸の廊下も、磨きぬかれた石で作られていた。上に敷かれた真っ白い絨毯の上を、いたたまれない気持ちで歩いていく。 「こちらになります」 通された場所は、他よりも古そうな部屋であった。扉も古く、小さい。今にも壊れてしまいそうだ。 「――……おい。本当にここなのかよ?」 メイドは無言のままで微笑んでいる。唇の端をつりあげ、黙ったままだった。武は苛立ったのか、ドアノブに手をかける。 手をかけてから突然、声を荒げた。 「セレネ、光矢ッ!! 伏せろおォッ!!」 「遅ぇんだよ、馬鹿があァッ!!」 重なる嘲笑は、あまりにも強烈に記憶から蘇った。 武が振り向く。メイドの――否、『首切り双刃』の嗤い顔、手には何かのボタン、指がためらいもなくそれを押した。 振動が腹に響く。セレネの腕が光矢を抱きしめる。一緒に倒れこむ。武が何かを叫んでいるが聞こえない。 そして、 「先輩っ!!」 激しい熱風と轟音が、頭上に炸裂した。 * 「邪魔者をまず一人」 言いながら、アポロンは寝台の上でうずくまる人影に近寄る。 「ねぇカッサンドラ、もうすぐだよ」 耳を強く塞いで、カッサンドラは涙をこぼした。見えぬ瞳をきつくつむり、解けた髪もそのままにして、アポロンから逃れようとする。 太陽神は優しく笑うと、手首をつかんで強引に引き剥がした。 「邪魔をするものは、みんな消してあげるよ」 「やめて、もうこれ以上、誰も傷つけないで……!」 悲痛な声は部屋に木霊する。 「いずれヘリオスも始末しなくちゃね」 アポロンは歌うように呟いて、両腕を広げた。カッサンドラの落とした言葉すら拾わずに、続ける。 「誰にも邪魔なんかさせない。必要なのは君だけ、他は何もいらないよ」 そうして彼は再び、笑んでみせた。 「君の弱まった力は、僕がまた強くしてあげる。あのときにかけた呪いも解いてあげるよ」 「私はもう、あなたのものになんてならない」 「僕の花嫁にふさわしい人になってもらわなくちゃ。もう絶対に離さないよ」 かみ合わない会話は、カッサンドラを絶句させた。その肩を、アポロンがつかむ。弾かれたようにカッサンドラが手を払うが、彼の腕を外すには至らなかった。 「本当に、君は強情だね」 「私はもう、そんな力なんて欲しくない!」 「もとは君が望んだ力でしょう?」 「もう、もうたくさんです!! 父や母の死を、兄の死を、故郷の滅亡を――……たくさんの人の死を! 私はもう、見たくなんてない……!」 アポロンがカッサンドラを引き寄せる。激しい抵抗すら封じ込み、彼はカッサンドラに囁きかける。 「優しくおろかで愛おしい人。美しい人。君が君であるための力をあげる」 カッサンドラは身を強張らせた。悲鳴すら飲み込まれてしまう。恐怖と共に流れ込む映像を見まいとして、彼女は再び、かたく瞳を閉じた。 (2006.12.20 最終訂正:2006.2.12) |