第二章
其ノ5
『奪還者(下)』
(だっかんしゃ)


 炎が白い壁を黒く染める。扉は跡形もなく吹き飛び、幾筋ものひびが生々しく走っていた。
 人間が巻き込まれたのなら、まず助からない。
「先輩、先輩ッ!!」
 光矢の叫びは火に撒かれ、虚しく灰となっていく。
「無駄だぜ」
 背後から投げつけられる言葉に、振り向く。楽しげに歪んだ翡翠の瞳が、光矢を見下ろしていた。
「これぐらいの爆撃で生きてられる奴なんざ、そういねぇだろうよ。それとも探してみるか? 内臓の一つや二つは落ちてるかもしれねぇぜ」
「その必要はない」
 光矢に代わり、別の声が応えた。次いで鋭い銀色が、『双刃』の足下から繰り出される。十字架の、槍だ。
「へぇ。生きてやがったのか」
「こいつの頑丈さは、俺の保障つきでな」
 素早く身を起こし、戦の神は不敵に笑う。多少の火傷と焦げた服、鮮やかな紅い髪もわずかに縮れてはいるが、大きな怪我はなさそうだ。
「どうだ、殺し屋。俺と一発殺りあわねぇか」
「へぇ」
 『双刃』は軽く唇を舐めて、首を傾げる。
「絶頂まで連れて行ってくれるのかよ、戦の神サマ?」
「安心しな、一回じゃ足りねぇだろ」
 メイド服のスカートが大きく翻った。手にされるのは大きなナイフ、二対の銀が炎に照らされ、鈍く輝く。投げ捨てられる金色のかつらは、瞬時に朱く燃え落ちた。
「じゃぁ一つ、殺りあおうぜ」
「あとで泣くなよ、小僧」
 会話が終了するや否や、硬い金属音が鳴り渡る。かと思えば両者は離れ、間合いを取った。詰めて、音。離れて、また近づく。双方が一歩も譲らない。立ち入ることを拒むように、激しい打ち合いが続く。
 どれほど繰り返されただろうか。突如、『双刃』は声を張った。
「『太陽は堕ちた』!」
 アレスの攻撃を紙一重でかわし、馬鹿にしたように顎を引いて笑った。
「お遊びは終わりだ。チャンバラごっこはここまでにしようぜ」
「何……」
 アレスの顔に怒りが走る。
「生憎と、タイムリミットになっちまった。裏切り者には、死神からの制裁が待っている――俺はその報告に行かなきゃならないのさ」
 跳躍する。アレスを飛び越え、光矢を越えて、炎の向こうに着地した。
「お前の攻撃は単調だな、読みやすいったらねぇぜ。お前が俺に一度攻撃を当てる間に、俺はお前を百回殺せる……つまらねぇ奴だな、戦神アレス!」
 嘲笑と共に、『双刃』は炎に紛れて消えた。
 光矢は軽く息をつき、握り締めていた手を開く。緊張のためか、じっとりと汗をかいていた。
「先ぱ……アレスさん、大丈夫ですか」
 苦い顔のまま、アレスは舌打ちする。よほど『双刃』の言葉が気に入らなかったのだろう。瞳には未だ、憤りが残っていた。
「よかったわ」
 セレネも安堵したように呟き、光矢から離れる。温もりが消える感覚に、寂しさを覚える。同時に、そう感じる自分の心にもまた、光矢は戸惑った。
 だが、戸惑いはすぐに消え去った。聞き覚えのある声――悲鳴がかすかに耳に届いたのだ。
「今の声!」
「行くぞ!」
 二柱の神も同じだったようだ。走り出す二人の背を、光矢も追う。
 長い廊下を何度も曲がり、階段を駆け上り、走る。悲鳴は断続的だった。あがっては途切れ、再び流れてくる。言いようもない不安が、光矢の胸に押し寄せた。
 無事であってほしい。何か、起こったのだろうか。
 ついに一つの扉にたどり着いた。誰かが言い争っている。
『彼女は僕のものだ、誰にも渡さない! 誰にも渡さない!!』
 一人はアポロンだろうか。ヒステリックな叫びに、体が緊張する。
 もう一人も何かを言っているようだが、アポロンの叫びにかき消されて聞こえなかった。
 アレスが扉を蹴破った。何かが破裂するような音がしたのは、それとほぼ同時だった。

『裏切り者には、死神からの制裁が待っている』
 光矢の目前で、アポロンが身を折る。乾いた音、合わせて彼の体が震えた。仰向けに倒れる。動かない。もう、動くことはない。
 先ほどまで生きていたものは、たった今命の宿らぬものとなった。
「……っ、っ!!」
 強烈な吐き気がこみ上げてくる。口元を押さえて堪えるも、胃からいつ逆流してくるか分からない。
 音の持ち主がこちらを見た。長身を黒衣で包み、左の頬には小さな印が付いている。むき出しの左肩に、紅の文字が刻まれていた。

 ”H A D E S ”

 ハデス。ギリシア神話の冥府の神。死者の王。光矢も何度か、書籍で目にしたことのある名であった。
「裏切り者には死を」
 青年は低く言い放つと、手にしていたものを腰に収める。黒く光る銃は、滑らかにホルダーへと納まった。
「てめぇ……ハデス……何の、真似だ」
 アレスが呻く。声が震えていた。表情こそ見えないが、ひどく衝撃を受けているらしい。
「裏切り者には死を」
 黒衣の死神は、淡々と言葉を並べていく。
「ヘリオス様に逆らう者には死を。我が力は、ヘリオス様のために。新たなる神の国の主となるヘリオス様のために」
 感情すら、聞き取れない。ただ機械的に並べられ、繰り返される名前に、光矢は寒気を覚えた。
『裏切り者には、死神からの制裁が待っている』
 人の命を奪うことに、この男は何の躊躇いも見せなかった。底深い闇のような瞳には、憐れみの色さえない。
 「裏切り者には死を」。そんなことは、漫画や小説の中の話でしかないと思っていたのに。
 アポロンの視線は開かれたままだった。澱んだ眼差しは中空に固定され、何も映してはいない。再び吐き気を催して、光矢はうずくまった。こんなに簡単に人間が死ぬものなのかと、むかつく胸を押さえながら思う。
「光矢」
 セレネが支えてくれた。
「見なくていいのよ。無理はしないで」
「セレネ」
 無機質な音が、女神の名を呼ぶ。
「抹殺命令が出ている」
「分かっています。五分の猶予を頂戴」
 澄んだそれで、女神は応じる。
「アレス。水穂さんと、光矢を頼みます」
「死ぬつもりか!?」
「いいえ」
 この場に似つかわしくないほどの穏やかな笑みで、女神は微笑った。
「必ず生きて帰るから。心配しないで」
 一分が経過した。銃撃がこない。セレネの申し出は、聞き入れられたらしかった。
「さぁ、早く」
「セレネ」
 光矢の内側から、悲しみにも似た感情が溢れてくる。眼の奥が熱い。溢れたそれは頬を伝い、流れていく。
「……光矢」
「何でだろう、急に……何か、急に悲しくなって」
 細い指が涙を拭う。優しい体温は、雫に触れて濡れた。
「大丈夫。私は必ず、帰るから」
 アレスが水穂を抱える。気絶しているのか、水穂はぐったりと体を彼の腕に預けていた。
「だから、待っていて。約束よ」
 言って、女神は微笑った。あと一分。促され、光矢は無理やりに足を動かす。
 扉を閉め、アレスと共に廊下を抜ける。遠ざかる扉の奥で銃声が鳴った。焦りと不安が爆発して、思わず道を引き返しかける。アレスの手が伸び、光矢の腕をつかんだ。
「馬鹿! 死にに行く気か!?」
「だって、だってこんな!! 何で、俺ちっとも信じてないのに! あんなに優しくして、笑って、死ぬかもしれないのに、何で!?」
 光矢自身、何を言っているのか分からなかった。なぜこんな感情を抱くのか。どうしてセレネは、こうまでされて優しいのか。死ぬかもしれないのに、どうして笑っていられるのか。自分に対する混乱と、セレネに対する混乱とが入り乱れ、渦巻いていた。
 唐突に痛みが走る。混乱は中断される。光矢はアレスの手元に眼を落とした。鳩尾に拳が食い込んでいる。徐々に暗くなる視界の外で、アレスが言った。
「悪いな。ちっとばかし、寝ててもらうぞ」
 抱えられる感覚を最後に、光矢は意識を手放した。

***

 今まで私が眠っていた場所を、眺める。愛しい人が私をいつくしんだ洞窟、今はもうあの時の面影はない。
「恋しいか」
 男は、彼女に似た目元をかすかに細めた。
「もはや、古き神の国は滅んだ。お前がここに眠る理由もあるまい」
 だからあなたは、私を目覚めさせたのか。問えば、彼は「それもあるが」と言いよどんだ。
「お前に……妹を探してほしいのだ。お前を眠らせてから、妹は神の力をほとんど失ってしまった。私には、神の気配以外は感知できない――妹を、探すことができないのだ」
 何ということだろう。詰まり彼女は、行方知れずになったというのか。胸が張り裂けんばかりに痛んだ。
「頼まれてくれるか」
 私はうなずいた。彼はようやく口元を緩め、私の手を取った。
「ありがたい。お前に会うのは、これが最後だろう。次に会うのは百年後か、二百年後か……そのときにまた会えることを、楽しみにしている」
 彼女と同じ蒼い目が、私を静かに映していた。

(2006.12.20 最終訂正:2008.2.12)

第三章「新加者」

其ノ4「奪還者(上)」

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