第三章
其ノ1
『新加者』
(あらたにくわわりしもの)


 眼を覚ました光矢の視界に、高価そうなシャンデリアが映る。起き上がると、鳩尾が痛んだ。どうやらアレスは手加減をしてくれなかったらしい。指で撫でていると、ドアノブの回る音がした。
「あっ、起きてたんだ」
 那月が顔をのぞかせ、中に入ってくる。
「大丈夫? 運ばれてきたとき、すごく顔色が悪かったから」
 サイドボードに盆を置いて、那月はベッドサイドの椅子に腰掛けた。それを横目で眺めつつ、光矢は改めて周囲を見回す。
 鏡華が気を利かせてくれたのだろう。部屋は、シャンデリアを除いて比較的質素な作りになっていた。使われている色合も、淡い緑を基調としている。大きな窓は開け放たれ、風が木々のざわめきを連れてくる。
 森林にいるようにも思えるこの部屋は、光矢を落ち着かせた。
「兄貴は……?」
「眠ってる。怪我とかもないみたい」
 差し出されるグラスを受け取ると、氷が涼やかに鳴った。
「よかった」
 安心感に頬が緩む。那月が眼をそらすのが、何となく分かった。
「えと……その、つ、月島君は」
「光矢でいいよ。友達なんだからさ」
 つっかえた那月に笑いかけながら、訂正する。
「いつまでも『月島君』じゃ、ちょっと他人行儀な気がするし。呼びにくいでしょ」
「あ……う、うん……」
「俺も天津さんのこと、那月さんって呼んでもいい?」
 なぜか顔を赤らめて、彼女は小さくうなずいた。
「それで、何かあったの?」
「あ、えっと……その、つ……光矢君、あのね」
 少しの沈黙の後、那月が笑う。困ったような、くすぐったそうな、そんな笑顔だった。
「何だか、照れるよ」
「そう?」
「ちょっとやってみて、絶対に照れるから」
 言われるがままに、光矢はゆっくりと声に出した。
「えーと、天津さん、じゃなかった。那月さん……あ、ホントだ。何か照れる。あれー? 変だなぁ」
「でしょ?」
 目の前の少女は、おかしそうに笑っている。口元に手を当てて、細い肩を揺らしていた。そこにかかる色素の薄い髪は、時折吹き込む風にもてあそばれ、さらさらと流れている。光矢はそれを、純粋に綺麗だと思った。
 穏やかな空気を一変させたのは、扉の開く乱暴な音だった。姿を見せる大柄な彼の顔は、ひどく険しい。
「悪いな、邪魔しちまって」
「何か……あったんですか」
 武は低く、次の句を繋ぐ。
「セレネが帰ってきた。とにかく、広間に来てくれ」

 月の女神はソファに横たわっていた。身にまとう衣服には、所々に紅がにじんでいる。プラチナブロンドにも血がこびりつき、固まっていた。頬や手はさらに白くなり、指が力なく天井を仰いでいる。
 光矢の心臓が不自然に鳴る。最悪の結果が脳裏をよぎった。恐怖が足を床に縫いとめてしまう。一歩も近づけなかった。心だけが焦るのに、体は意志に反して全く動いてくれない。
「気を失っているだけね。命に別状はないはずよ」
 鏡華はセレネの手首を取り、脈をはかってから言った。肩から力が抜ける。
「ただ……ひどい怪我だわ。まるで銃に撃たれたみたい。貫通しているものもあるけど……もしも体内にとどまっているものがあったら危険ね。寺村、うちの病院に連絡してある?」
「もうすぐ到着するとのことでございます」
 寺村執事が恭しく答える。
「そう。それじゃあ、運んでおいたほうがいいかもしれないわね。担架は用意してある? それに乗せて、下まで運びましょう」
 光矢はただ、セレネの閉じられた目蓋を眺めていた。白いマスクはつけていない。黒衣の死神の銃撃で外れたのだろうか。眼の脇を、血の筋が流れている。雫は途中で留まり、赤黒く変色していた。
「セレネ……」
 執事がセレネを抱える。目は、覚まさない。
「……ごめん、セレネ……」
 ゆっくりと運ばれていく細い体を、光矢はただ呆然と見送るしかなかった。
「――セレネが動けなくなっちまった以上、お前を率先して守る奴がいなくなっちまった」
 背後から武の言葉が降る。光矢が振り返ると、鋭い光をたたえる瞳がある。
「圧倒的にこちらが不利になっちまった。セレネの代わりになる奴が必要だが」
 下から慌しい物音がする。救急隊の人たちが、寺村執事と合流したのだろう。目の前に立つ紅髪の青年は、腕を組んで光矢を見ていた。顔を通り過ぎる煙は、生き物のように天井へと向かっている。
「……お前、どう思ってンだ。光矢」
「え」
「セレネが倒れちまったってことは、代わりを立てなくちゃならねえってことだよ。お前はその考えに賛成してンのか、反対なのか、どっちなンだって聞いてンだよ」
 武が苛立たしげにタバコを噛んだ。
「俺は……」
 光矢は言いよどむ。
 セレネがいなくなれば、こんな馬鹿げた出来事は起こらなくなるだろうと思っていた。目をつぶり、見ないことにすれば、関係なかったことになるだろうと思っていた。
 だが実際はどうだろう。光矢が目を背けていたとしても、耳を塞いでいたとしても、セレネを遠ざけておいたとしても。それでも刺客はやってきた。その決定的な結果として、無関係であるはずの水穂が巻き込まれた。
 セレネという守護者を失った今こそ、敵にしてみれば絶好のチャンスであるはずだ。これからも続々と刺客が来るだろう。もしかしたら、学校生活にまで影響が出るかもしれない。
(そんなことは……ごめんだ)
 自分勝手な話だとは承知している。しかしこの問題を終わらせなければ、自分は元の生活には戻れないのだ。これ以上誰かを巻き込むことも、これ以上ややこしい問題に巻き込まれるのも、光矢は嫌だった。
 ならば、出来る限り早く終わらせてしまえばいい。セレネが動けなくなった今は、セレネの代わりをしてくれる誰かが必要不可欠である。セレネの代わりに敵を探り、敵の情報を把握し、こちらを守りつつ迎え撃つ。セレネよりも迅速に行動できる人物がいるのならば、それを探せばいい。
 セレネは神の生まれかわりであるとはいえ、力でいうならば普通の成人女性と変わりない。セレネよりも力の強い人物がこの位置に着けば、より早く終わるに違いない。
 光矢は息をつき、
「……俺は、それでいいです」
 答えた。



 ハデスはただ、月を見ていた。黒い瞳に白金の光が映りこむ。
『冥王、ハデス――!』
 視線を落とす。布に包まれた手のひらは、月光ですら吸い込んでしまう。
『私を、覚えていないのですか!?』
 焦る女の声が脳に反響して、彼は軽く頭を振った。
『曙の女神エオス、太陽の御者にして太陽神ヘリオスの妹。月の御者にして月神、セレネです! お願い、話を聞いて』
 声は消えるどころか、より克明になって意識を蝕んだ。痛みと痺れが額に走り、反射的にそこを押さえる。
 かすかに眉を寄せるハデスに、別の声がかけられた。
「どうした、ハデス」
 闇から溶け出すように、少年が姿を現す。
 年の頃は十四、五歳。金の髪は黒に映え、鮮やかな蒼い瞳も上質の宝玉を思わせる、美しい少年である。
 だがそこに幼さはない。残忍さと冷酷さが、蒼をより一層冷たく見せている。
 さらに異質なのは、彼の顔の右半分を覆う仮面である。毒々しい紅をしたそれは、ピエロの泣き顔を模していた。
「失くした記憶でも探していたか。それとも感傷に浸っていたか」
「っ、い、え」
 立ち上がると同時に傾ぐ長身を、少年は腕を引くことで止めた。死神はそのままひざまづく。
「私の言うたこと以外は聞くなよ。心惑えば、雑念が生じる」
 痛みに荒くなる呼吸を整えながら、死神は少年に答える。
「は、い、記憶など、私には必要のないものです――私の全ては、ヘリオス様の、ために」
 少年は唇を歪め、笑んだ。
「よく覚えているな」
「あなたのおっしゃることは、全て、どうして忘れなどしましょうか」
 少年は笑んだまま、青年の長い髪をもてあそぶ。艶を含む黒は、少年の細い指をすりぬけ、音もなく流れていく。数本は手のひらに残り、少年の白いシャツに絡まった。
「お前は私の大切な手駒。余計なものは切り捨てろ。記憶も感情も時間さえも。私だけに捧げよ。『死』の化身たるお前の存在は、私にのみこそ相応しいのだ」
「はい、ヘリオス様」
 感情の見えぬ昏い瞳には、ただ少年の姿が映っている。

(2007.1.9 最終訂正:2008.2.12)



其ノ4「奪還者(下)」

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