第三章
其ノ1
『新加者』
(あらたにくわわりしもの)
日照高校の最寄駅は泉谷が丘駅である。そこから市街地方面に三駅、萩谷原駅で降り、歩いて五分のところにその店はある。CDやDVD、ビデオのレンタルショップ『銀河』は、今日も近辺の学生で大いににぎわっていた。 ここからギリシア神の気配がすると、武が光矢と那月を連れてきたのは、つい一分前のことだった。武が言うには、花の配達時に店の前を通るたび、まるで挑むように気配が追ってくるのだという。 「本当にここにいるんですか」 光矢は店内をのぞきながら、武に尋ねた。子供連れの夫婦や小学生、大学生と思しきカップルだけではなく、光矢も見たことがある顔がちらほらとあった。 「俺の勘に狂いはねぇ」 「一体そんな根拠のない自信がどこから湧いて……いで、いででででっ!!」 腕がねじり上げられる。那月がオロオロとしているが、武の目には入っていないらしい。 (あぁ……こんなこと、前にもあったような……) ぼんやりと思った、そのときである。 「おいおーい、お兄さんがた。店の入り口で喧嘩はよそうぜー?」 呆れた青年の声が、三人に投げられた。 「とりあえず、店外の少し外れたところでやってくれるかねー。一応この店の関係者として言わせてもらうと、他のお客様のご迷惑になるんでねぇ」 「ンだとぉ?」 武の矛先が変わる。胸倉をつかんでいた手が離れ、光矢は二、三歩よろめいた。駆け寄ってくる那月に手を振ってから、声をかけた青年の姿を確認する。 明るい金茶の髪は強い癖毛で、好き勝手に跳ねている。背は高い。猫を思わせるつり目で、右は蒼、左は金だった。カラーコンタクトだろう。今はその目をわずかに細め、唇をつりあげていた。 黒い薄手のジャケットはずり下がり、肩がむき出しになっている。迷彩柄のタンクトップに隠れてはいるが、筋肉質なほうではないだろうか。立ち姿は、目と同じく猫を連想させた。腰にはウェストバッグをつけている。コードが延びているが、おそらくはMDだろう。片方は垂れ、片方は青年の耳に繋がっている。バッグの蓋に添えられている手は、フィンガーレスの黒い革手袋に包まれていた。 ちょっと変わったファッションセンスだが、悪い人間ではなさそうだ。光矢は武に目をやり、ふと気づいた。普通なら、先ほどのように胸倉をつかんでいるはずだ。しかし武の手は、青年を捕らえないままで止まっている。 「……? 先輩?」 「……逃げるぞ」 うめくように告げられた言葉は、およそ彼に似つかわしくないものだった。何が起こったのか、彼が何を考えたのか、見当すらつかない。 「え、でも、あの?」 「いいから行くぞ!! 早くしろ!!」 乱暴に腕をつかまれ、引きずられるようにして走り出した。抗議する暇すらない。 「剣間先輩っ! 一体どうしたんですか!?」 那月も慌ててついてくる。小柄な彼女は武の後を追うだけで精一杯だが、武には気遣っている余裕もないらしかった。 「話は後だ!! あいつはやべぇ……! 何であンな奴が、こンなところにいるンだよ……!?」 最後はほぼ独り言だったが、確かに切迫し、追い詰められた言葉でもあった。彼はおそらく、何かを察知した。そしてそれが決してよいものではないと、判断したのだ。 と、光矢の隣を影がよぎった。次いで、先ほどの青年が目の前に飛び出してくる。武が急に踏みとどまり、光矢はそのまま武の背中に突っ込んだ。 「おいおーい! 逃げなくたっていいじゃねーか! 別にあんたらにどうこうするつもりなんかねぇし! 何があったか知らねぇが、一度ちょっと冷静に、こっちの話も聞いてくれって!」 息を切らしているこちらと違い、青年は息一つ乱していない。癖毛に指をつっ込んでかき回し、困ったように笑っている。それから武を指差し、 「あんた、アレだろ? よくうちの店の前通ってく奴。ディオニソスが騒いで仕方なかったんだよね、一度話してみたかったんだ」 思わぬ単語に、武が目を剥いた。 「何?」 「ありゃま? 気づいてなかったのかよ? あんた、戦神アレスだろ。通りで喧嘩っ早そうだと思ったよ」 猫のような青年は、言って朗らかに笑った。 近くのファミレスに入り、簡単に自己紹介をしあう。 青年の名は龍川豊高(たつかわ ゆたか)といった。二十一歳独身、大学には行っておらず、『銀河』でアルバイトをして生計を立てているのだという。 人懐っこく話しかけてくる彼に、光矢も那月もすっかり打ち解けていた。オーバーリアクションだが、それですら彼の愛嬌になってしまう。人を惹きつける魅力を持った青年だと、光矢は話をして改めて実感した。武だけが不機嫌そうにタバコをくゆらせている。 「俺は、酒と演劇の神ディオニソスの生まれかわりなんだよ。だから特技はモノマネー。声帯模写とか変装とかもお茶の子さいさい! ってわけ。でも酒は飲めねーの。下戸なの、変じゃね?」 笑いながら、豊高は何杯目かになるミルクティに口をつけた。酒は飲めないが、その代わりなのかミルクティは大好物なのだそうだ。 語り口も雰囲気も、どこにでもいる陽気なお兄さんだった。 (ちっともやばくなんてなさそうだけど) 光矢は武を盗み見た。武の手が、乱暴にタバコを灰皿に押し付ける。 「それにしてもさ、大分お疲れモードじゃねぇ? 何か悩みとかあんの?」 武が小さく鼻を鳴らし、敵意にぎらつく目で豊高をにらむ。普通の人ならばそれだけで気絶するか、怯む。が、豊高はさして気にもしていない。 「そんなににらむなって、ボーヤ」 「剣間武だ。ボーヤじゃねぇ」 「それじゃあ剣間クン。あんたが一番事情に詳しそうだから、あんたが説明してくれるかい?」 「胡散臭ぇ奴に説明はできねぇな」 「おいおーい」 豊高は呆れたように肩をすくめる。 「その胡散臭ぇ奴を捕まえといて、何を言うんだよ」 「てめぇが勝手についてきたンだろ」 「人の顔見た途端に逃げ出されたら、いい気はしねぇだろうよ。それにさ」 豊高がすいと目を細める。奥底まで見透かされそうな視線に、光矢は思わず息を詰めた。 「普段なら騒がねぇディオニソスがこれだけ騒いでるんだ。よっぽどでかいことに巻き込まれてるんだろ。話次第じゃ、協力してやってもいいぜ」 光矢は再び、武を見た。火をつけたばかりの新しいタバコを、灰皿でもみ消している。返事を返す気はないらしい。 「……実は」 気が重かったが、光矢は一つ一つを簡単に説明していった。自分の中にいるらしい人物とセレネのこと。キルケとアフロディテの襲来。水穂のこと。そしてアポロンの死と、ハデス―― 「――ちょっと待て、ハデスだって?」 豊高の顔色が、目に見えて変わった。 「あ、はい。左肩に小さくそう書いてあって、それが見えただけなんですけど」 あまりにも愕然とした表情は、光矢を驚かせた。 「……そいつ、ここんところにメッシュ入ってなかったか? 銀……いや、白のさ」 低く声音を潜め、豊高が前髪を指す。左目の前にかかる、一束を示していた。 「はい」 「で、ここに印ついてなかったか? ついてただろ」 「……え」 鋭い語調は、先ほどまで陽気に語らっていた彼とは思えない。髪を指していた指は、左頬に移動していた。わずかに緊張しながら、光矢はその言葉を肯定する。 「……はい、確か」 「背は高くて黒ずくめ。髪も、メッシュ以外は黒くて長い。銃とナイフを所持している。違うか?」 光矢は思わず口をつぐんだ。急に、豊高に対する不信感がわいてくる。 どうしてこの人は、見てきたかのように言うのだろう。 「……あの、もしかして」 溜まった唾を何とか飲み下し、光矢は恐る恐る口を開く。 「……もしかして、『首切り双刃』さん、ですか。もしそうなら……その、外に――」 瞬間、豊高が声を荒げた。 「何で一般人が奴の通り名を知ってるんだ!!!」 那月が体を震わせる。怒気が空気を激しく揺らし、武でさえ一瞬目を閉じたほどであった。 周りの座席にいた親子連れが、迷惑さと好奇心を半々織り交ぜてこちらを眺めている。 「す、みません」 光矢は引きつる喉で謝罪をした。これだけ怒るとは思わなかったと、軽はずみな発言を後悔する。 「……いや、俺も悪かった。カッとなっちまって」 豊高も周囲の客に詫びを入れ、それから光矢に対して頭を下げた。 「てめぇ、何を知ってやがる?」 少しの間の後、武が重々しく問いを投げる。 「何がだ?」 「とぼけンじゃねぇよ。てめぇ、一体何者だ? どうして『双刃』が、一般人は絶対知りえねぇ名前だと知ってるンだ?」 虚を突かれたように、豊高が押し黙る。口走ったことを悔やんでいるのか、歯を食いしばっている。 「どンなに隠そうとしたところで、無駄だぜ。てめぇの持ってる空気から、やばい臭いが漂ってやがる。俺の推測だが、てめぇ……もしかしなくても、裏の世界にいただろ」 店内のざわめきが、しばしの沈黙を埋め立てていく。ガラスがふれあい、人々が会話し、店員が挨拶をして客を迎え入れ、あるいは送り出す。光矢はぼんやりと、それを聞いていた。 「……ま、昔の話だよ。奴ぁ……『双刃』は有名人だからな」 苦い笑みを漏らしながら、豊高は肩をすくめる。 「俺のことなんかどうでもいいじゃねぇか。互いに詮索はよそうぜ。それよりもお兄さん、大変だね。こりゃ俺も一肌脱いであげなくちゃいけねーや」 「え?」 意味がわからず呆然とする光矢に向けて、彼は指を軽く振ってウインクした。 「龍川豊高こと、このディオニソス、悩める男子高校生のために一働きしてあげようってーの」 心配そうに成り行きを見守っていた那月が、ようやく笑みをこぼした。 「わぁ、よかったね、光矢君」 「……うん」 だが、光矢は複雑な心持だった。味方が増えることは心強い。セレネが動けない今、彼女の代わりになる仲間が増えたことは喜ぶべきことなのだろう。 しかしなぜ、豊高は敵である黒衣の死神のことを知っているのか。そこばかりが引っかかって仕方がない。 「光矢君? どうしたの?」 表に出てしまったのだろうか。那月が首を傾げている。 「や、何でもないよ。ちょっと、さっきのサラダが奥歯に挟まってて」 言い訳の微妙さに、思わず失笑する。那月は信じてくれたらしく、近くにあった爪楊枝をくれた。 立ち上がる三人に続く。豊高は相変わらず陽気なおしゃべりを展開していたが、以降一言もハデスについて触れようとはしなかった。 (顔、知ってるだけだったのかな) 武と同じく、一時期だけ裏側の世界にいたのなら、一度くらいは会ったことがあるのかもしれない。そのときによほど印象深い出会いを果たしたのだろう。 (……考えすぎだったのかな) 納得をしたからだろう。先ほどまでの引っかかりは、すっかりなくなっていた。 * 『首切り双刃』はヘッドホンを外し、仮面の少年を一瞥する。 「嫌われたものだな、『クレイジーヘドニスト』」 少年は椅子に腰掛けたまま、イヤホンを投げてよこした。 「フン。好かれようとも思っちゃいねぇよ」 『双刃』は軽く冷笑すると、碧の双眸を細めた。 「それより、どうすんだ。奴があっち側についたぜ。あいつの記憶が戻ったら厄介なんじゃねぇの」 「ありえんな」 少年もまた、冷えた笑みを返す。 「私はこの世に生まれ集った神の内で、もっとも強い力を有している」 「ヘッ。俺にも会わせねぇようにしておいて、大した自信だぜ」 月影も鮮やかな窓に背を預け、『双刃』は顎を引いて嗤った。蒼い光は紅の髪に陰影を作り、わずかに紫色に染めながら髪先へと滑り落ちていく。 「勝手な行動はするなよ。人間風情にしては美しいその首を千切るは、あまりに惜しいからな」 『双刃』が哄笑する。広がる夜の帳へと反響し、それは静寂をかき乱した。 「俺ぁ生きてても死んでても同じだからなぁ。千切られても文句は言わねぇが、それならいっそド派手にやってくれよ、神サマ」 両腕を広げて言う男に、少年は再び言葉を向ける。 「さながら生ける屍、か。我らと異なる歪んだ魂。貴様なら、新たなる神の国に迎えてやってもよい」 「冗談。カミサマの世界になんざ、興味なんてねぇ」 『双刃』は再度、嘲笑う。 「俺にも奴にもあいつにも。どうあがいても、どう誤魔化しても、生きる世界は一つしかねぇのさ」 (2007.1.9 最終訂正:2008.2.12) |