第一章
其ノ2
『守護者』
(しゅごしゃ)
いくら歩いてもたどり着かない。途中で引き返したが、見慣れた場所に出るどころか、逆に別のところに迷い込むばかりだった。 「……どれくらい……」 腕時計を見る。三十分以上も経っていた。通常ならあの角から五分もかからないのに。 周囲を見回す。一見普通の住宅が立ち並んでいるだけなのに、全く知らない場所である。街灯が等間隔で灯っていることだけが、唯一変わっていない。 「……冗談……だろ……」 愕然として、光矢はついに立ち止まった。蒼い闇の中浮かぶ光、それだけが視界の中ではっきりと見える。 いや、一つの街灯の下に佇む一人の少女がいた。 「あ、あのっ」 駆け寄って話しかける。まるでフランス人形のように美しい少女であった。年は五、六歳だろうか。ゆるく波打つ金の髪は足まで垂れ、大きなすみれ色の目は驚いたように瞬いている。 光矢は安心させるように、その少女に微笑んだ。 「見つけた!」 と、突然愛らしい声で少女が叫び、幼い手を高々と掲げる。ぼうとそれが輝いたかと思えば、次の瞬間には地にたたきつけられていた。 訳が分からず、痛みも忘れて呆然とする。 「な、何だ!? 何が……」 「あんたはここから永遠に出られないの。あんたの魂はここで、あたしたちの力となるのよ」 どこからともなく生温かい風が吹いてくる。ようやく、アスファルトに擦れた部分が痛みを訴え始めた。 「どういう意味だ!?」 混乱する頭のままで少女に問う。少女は花弁のような唇に、かすかな笑みを乗せた。 「月の力。強い魔術の力を持ってる、月の力。これを欲しがっている人がいるの」 どこの言葉か分からない詠唱が聞こえた。続いて、硬いものにひびが入るような音がする。息が詰まり苦しい。手足が痺れて重い。氷水の中にいきなり手足を突っ込んだようだった。 立ち上がれずに倒れる光矢の耳に、音が届く。 「あたしはキルケ。ギリシアの魔女。あの方にあんたの力を献上すれば、あたしは昔の姿と力を手に入れられるの!」 ふと、殺されるのかな、と他人事のように考えた。目の前が徐々に暗くなっていく。額を流れていく汗の感触でさえも遠く感じられた。 「だからここで――」 しかし、少女の言葉が途中で切れ、短い悲鳴と取って代わった。冷え切った手を握る誰かの手、そこからじわりとにじむ温もりが優しい。 「あ、あんたは……!」 少女の声から一呼吸置いて、声がした。 「久しぶりね、キルケ」 少女に答える静かな、しかし凛とした言葉は、支えられている光矢の心にまで響いてきた。懐かしささえ覚える女性の声であった。 「手を引いてちょうだい。私はあなたと争いたくない。でも、この人にもしも危害を加えるのなら、私は決してあなたを、あなたたちを許さない」 薄らと開いた瞳に、眩しい白金の髪が映る。片手に何かを握っている。それを構えたまま、彼女はもう片方の手で光矢を抱き起こした。 「大丈夫?」 「う……あ、はい……」 「そう、よかった」 その人の口が笑う。長い前髪に隠れた目元からは、白い石のような材質のマスクが覗いていた。それを同じくらいに白い指で軽く押さえると、彼女は立ち尽くす少女に語りかける。 「――さあ、キルケ。お願いだから」 「……嫌よ」 「キルケ」 哀願の色を見せる彼女の言葉を、少女は拒否した。 「嫌ッ!!」 熱風が顔にぶつかる。煌々と紅く照りつける炎の塊が、少女の手に集まって燃えている。 何が起こっているのか、光矢の思考はもう分析することさえ拒否していた。手品にしては、あまりにも手が込みすぎている。 「キルケ……」 悲しそうに呟く彼女が、手に持つそれを構えなおした。そこに紅球が放たれる。 爆発する――光矢は思わず自分の顔を手で覆った。隣の女性が、手のそれを振りかぶるのが視界の端に見え、 「なっ……!」 振りぬいた。炎の球が切り裂かれ、地に落ちるよりも早くに消滅してしまう。 灯りを鋭く反射するその鎌は、三日月を思わせるシルエットをしていた。色も月のようだ。刃の根元に、小さな月長石を抱く水晶玉が埋め込まれている。 次々に放たれる炎を打ち落とす、その度に石がまるで自らの意思を持っているように煌めいた。 「くっ……!!」 「お願い……キルケ」 悔しそうに歯噛みをして、少女が一歩退く。 「このままでいられると……そう思ってたら大間違いなんだから! あんたの右腕にあざがある限り、絶対に逃げられないんだからっ!!」 子供特有の甲高い声を闇に投げて、幼い魔女は姿を消した。後には呆然とする光矢と、静かに佇む女性だけが残される。 光矢は思わず右腕を押さえた。背筋を寒いものが走り抜けていく。 少女の指摘したとおり、右腕にはあざがあった。三日月のような形をしており、くっきりと浮き上がって見える。普段は服に隠れているため、あざの存在を知っているのは、家族とごく一部のクラスメートしかいないはず。 しかし、あの少女は初対面だ。どうして見えないはずの存在を言い当てることができるだろう。偶然だと言うには、あまりにも正確すぎる。あらかじめ知っていたとしか思えなかった。 「……ど、ういうことだ……」 「詳しくは後で説明をするわ。それよりも今は、ここから出ましょう」 その声で我に返る。隣で微笑を浮かべ、女性が手を差し伸べていた。 「私の手につかまって。結界を抜けるから」 言われるがまま、光矢は大理石にも似た手を握る。先ほどはとても温かく感じたが、今は心地よい冷たさだった。 女性は鎌を振りかざした。水晶が白銀の輝きを漏らす。水が溢れるように、光が刃へと伝っていく。それをまとわりつかせたまま、彼女は何も無い空間を切り裂いた。 風景がぱっくりと割れ、続いて無数のひびが入る。割れ目の奥に、光矢は自分の家を確認する。 「あ、あれだ」 「気をつけて」 音も立てずに崩れ、消えていく結界から抜けだす。ようやく安堵して、光矢は改めて女性を見た。 「さっきは助かりました。ありがとうございます」 「いいの。私は当然のことをしただけ」 「当然?」 女性はほんの少しだけ首を傾げ、笑った。 「――私はセレネ。あなたを、守りに来たの」 (2006.9.25 最終訂正:2008.2.12) |