第三章
其ノ5
『真見者』
(まことみるもの)


 送っていくという耀子の申し出を断り、二人は夜道を歩いていた。どこからか虫の声が聞こえてくる。涼やかなその音を聞きながら、光矢は小さく息をつく。
 確かに狙い通り、ハデスからはヘリオスの目的について聞き出すことができた。『神の国』計画――それが何を意味するかは、帰ってから尋ねればいいだろう。
 ハデスの件に関しては仕方がない。何となく、駄目なんじゃないかとは思っていた。心の準備のおかげだろう、光矢自身は特に気にしていない。
(問題は龍川さんだな……)
 光矢はちらりと、隣を歩く豊高に目をやった。
 あれから彼は一度も口を利いていない。沈痛な面持ちで、空を見上げているばかりだった。光矢もまた、何も言えないでいた。
(説得どころか、宣戦布告されちゃったし)
 伸べた手、取られなかった手、決別。彼らがどれだけの関係だったのか、光矢は知る術を持たない。しかし、豊高がハデスの扱いに慣れていること、引き出された情報から、長い時間を共に過ごしていたという事実だけは拾い上げることができる。
(でも、だからって諦めるなんておかしいよ。親友なんだろ?)
 親友ならば、なぜあの時に諦めてしまったのか。このまま敵対していてもいいのか。そんな悲しいことが、あってもいいのだろうか。
 親友だからこそ、このまま引き下がっていいはずがない。ヘリオスの『野望』が、一体どのような意味を持っているのかは分からない。だが、人を平気で殺してしまうような人物が正しいとは到底思えなかった。
 光矢はふと、那月のことを思い出す。危険を承知で飛び込んできてくれた。那月は「友達を見捨てておけない」と、たったそれだけの理由で動いたのだ。嬉しかった。自分の身も顧みず、本当に無謀ではあったけれども。
 それでも、彼女は選んだ。光矢のために選んでくれたと思うのは、少しばかり自惚れすぎだろうが……
 だからというわけではない。豊高と那月は考え方も置かれている状況も違うのだ。豊高が本当に諦めているのなら、それで構わないと光矢は思う。しかし果たして本当にすべてを諦めている人が、諦めたことに関してここまで沈んだ顔をするのだろうか。
 我ながら人がいいな、と胸中で息をつき、光矢は口を開く。
「龍川さん」
 ん、と低い返事があった。相変わらず夜空を仰いでいる。
「このままでいいんですか」
「仕方ねーだろ。あいつは昔っからあぁいう奴だし」
「そうじゃなくて」
 光矢は少し語気を強め、豊高の言葉の後ろにかぶせた。
「龍川さんは、どう思ってるんですか」
「どうって?」
 空から目を離し、今度は足下を見て豊高は笑う。弱々しく、力のない笑みだった。
「どうもこうも、これで終わりだ。切るカードは切った。あいつがヘリオスを主と言うなら、それがあいつの全てなんだ。俺がそれを覆すなんて、そんなことは絶対にできない」
 それから一度瞳を閉じ、両手を広げて肩をすくめてみせる。
「ジョーカーに勝るカードなんて無いんだよ、光矢クン」
 まるで自分に言い聞かせているような、そう思いこもうとしているような、どこか必死ささえ感じられる。認めたくないものを、押さえつけているような――
「本当に、そう思ってます?」
 光矢は豊高を見つめた。
「……おや。何でそう聞くのかな」
 豊高の目が光矢へと動き、かすかに細められる。諦めの色を宿した色違いの瞳には、彼をにらんでいる自分の顔が映っていた。
「『もう駄目なんだ』『絶対無理に決まってる』って、自分に暗示かけて思い込もうとしてませんか?」
「思い込む? 分かってねーな、違うって言ってんだろ」
 想像していたよりも苛立っていたらしい。豊高は一度舌打ちをしてから、光矢をにらみ返してくる。猫にも似た瞳には、複雑な色の光が灯っていた。
「いいか、これは事実なんだ。揺らぎようもない『事実』、動かしようもない『現実』。ついさっきまでそれから逃げてた野郎に、思い込みだの何だの言われる筋合いなんてねーよ」
「ありますよ、逃げてたからあるんです」
 気圧されそうになりながらも、光矢は負けじと言い返す。
「動かせない事実だって言うなら、それを受け止めて、どうやって乗り越えていくかを考えればいいじゃないですか。乗り越えようともしないで諦めて、逃げて、龍川さんはそれでもいいんですか?」
「いいんだよ、昔っからそうやって生きてきたんだから! 諦めちまえば、そこで辛いのも痛いのも全部終わるだろ!? そうしなきゃ生きていけなかったんだよ!」
「ここはそんな場所なんかじゃない、あんたはもう『こちら側』の人間なんだ!!」
 自分でも驚くほどに、声は強い力を帯びて響いた。光矢自身も一瞬だけ唖然とし、豊高も呆然として瞬きしている。
 数秒ほどの時間が流れ、光矢はふと我に返り思い返す。
(……剣間先輩もこんな気分だったのかな)
 現実から目を背けても何も解決しないと怒鳴られたとき、そうやって逃げるのかと問われたとき、もしかしたら今の光矢と同じことを考えていたのかもしれない。
 未だ硬直している豊高に向けて、光矢は心境をはっきりとした音にする。
「龍川さん。確かに諦めれば、辛いことも痛いことも全部終わる。だけどそれ以上に、先にあるかもしれない可能性も全部消えてしまう。そう思いませんか」
 豊高は黙ったまま、戸惑うようにこちらを眺めていた。まだ迷っているのか、時折視線を外しては戻しを繰り返している。
 一呼吸、二呼吸。間を空けてから、光矢は豊高に問い掛けた。
「龍川さん、本当は諦めたくないんですよね? 本当はハデスさんを……大事な友達を、助けてあげたいんですよね」
 小さく息を飲む音がした。そして視線は地面に落ちる。拳はきつく握られて震えていた。
「……俺、……」
 しぼり出された声の続きを、光矢はただ静かに待つ。
「ホントは、……」
 何分かが経ってから上げられた顔は、泣き笑いにも似た表情をしていた。
「アイツのこと助けてやりたい、また一緒に話して、馬鹿なことやって、また一緒に同じ時間を過ごしたい」
 声の最後はほとんど潤み、聞き取りづらくなってはいたが、それでも彼は言い切った。
「俺、……諦めたくねぇよ……!」
 つられて緩む涙腺を何とか制御しつつ、光矢は数センチ高い彼の背中に手のひらを置く。
「龍川さん。俺たちも、ハデスさんの記憶を戻すために協力します。ですから龍川さんも、俺たちに協力してください。俺はもう逃げません。だから……俺たちと一緒に、やれるだけのことをしましょうよ。やってみなくちゃ分からないじゃないですか。やる前から諦めてたら駄目です」
 乱暴に袖で涙を拭い、豊高はうなずく。それからようやく、いつもの笑顔が戻った。
「分かった。借りが出来ちまったからな……うん。頑張るよ、俺」
 本当に自分はお人よしだと頭の片隅で呆れつつも、光矢は心の中で自分の台詞を反芻する。
 そうだ。逃げてばかりいては、諦めてばかりいては、事態は何も変化なんてしない。自分自身が問題と向き合わなければ、意固地になって否定するだけでは、何も解決しないのだ。やれるだけのことをして、そこから突破口を見つければいい。どうやって乗り越えていくかを考えればいい。
「よし! そうと決まれば早速帰ろうぜ、光矢クン! 明日からよろしくな!」
「分かりました、改めてよろしくお願いします」
 もう一度豊高を見る。先ほどとは比べ物にならないくらいに晴れ晴れとした、明るい笑顔だった。諦めかけていた望みが繋がるかもしれない。そんな期待と希望に溢れている、気持ちのよい表情だ。
(俺も――……頑張ろう)
 光矢もきつく拳を握り、自分自身に言い聞かせる。
(もう逃げない。全部受け止めて、突破口を見つけてやるんだ)
 帰ったら、セレネにエンデュミオンの話を聞こう。今まで耳を塞ぎ、目を背けてきた『彼』と向き合いたい。自分が『彼』であることを受け入れて、そこから何ができるかを考えよう。
 天上にかかる銀色の月が、淡く優しく二人の行く道を照らし出していた。

 ぽつぽつと電灯が並ぶ道の向こうに人影を見たのは、それからしばらく経ったときである。
「あれ……」
 時折照らされる髪は、日本人には見ない見事なプラチナブロンドだった。ここからでは分からないが、身長は光矢と同じくらいの少年だろう。白いカッターシャツに包まれた細い肩には、通学バッグが引っかかっている。ややうつむきがちに歩いている足下で、電灯の光と月光で作られた影がちらついていた。
「こんな夜中に一人なんて、危ないなぁ」
「今じゃ男も後ろからめった刺しにされちまう時代だしなー」
 自分の言ったことがおかしかったのか、豊高はけたけたと笑いながら手を振った。冗談のつもりなのだろうが、それを笑い飛ばせる感覚が分からない。
(慰めなければよかったかもな……)
 やっぱりこの人のことは理解できない。あのままにしておけば、少しは静かだったのだろうか。早くも後悔し始めた光矢へ、不意に視線が投げられた。豊高のものではない。かと言って敵意があるわけではない。純粋な好奇心に彩られた、ごく普通のものだった。
 先ほど前を歩いていた少年が、部分的に落とされる光の輪の中に佇み、上半身をひねってこちらを眺めている。何度も不思議そうに瞬きをし、軽く首を傾けていた。
「あ」
 目が合う。何となく気まずくなり、光矢は頭を下げる。足を速めて傍を通り過ぎようとしたとき、
「Hello,Good evening!」
 豊高が陽気に手を挙げて声をかけた。
(何余計なことしてんだよこの人は……!)
 英語が出来ない光矢としては、このまま適当に挨拶して通り過ぎたかった。豊高一人置いていこうとしても、いつの間にか肩に腕が回されていて抜け出すことができない。その状態のまま、豊高は軽い口調で何かを問い掛ける。何を言っているのかは全く分からない。
 と、少年は小さく手を振り、笑った。
「だいじょぶ、僕、日本語分かります」
 柔らかな声音でそう言うと、少年は光矢のほうを見てウインクする。どうも顔に出ていたらしい。恥ずかしさとやるせなさで、頬に血が集まってくる。
「……すんません」
「気にしないで」
 しかも気を遣われてしまった。ますますいたたまれない。光矢は豊高に捕まりながら、一人うなだれた。そんな光矢のことを気にも留めず、豊高が問いを重ねる。
「お坊ちゃん、こんな時間に塾か何か? 大変だねー」
「アシュレイでいいです。塾を早退して、ちょっと用事あって来ました」
 穏やかに微笑みながら、アシュレイは言う。プラチナブロンドの髪と蒼い瞳、金のまつ毛は長く、外国人らしい色白の美しい顔立ちをしている。
(あれ……)
 何気なく少年の面を眺めていた光矢は、ふと記憶にある誰かの影を思い浮かべる。
(セレネに似てるな……この子)
 顔立ちだけではなく、印象的な深い色の瞳に浮かぶ優しい光やたたずまいがそっくりだ。笑んだときの雰囲気も、何となくセレネを思い起こさせる。他人の空似とはよく言うが、そうだとしてもよく似ていた。
「ありゃ。早退しちゃったの? 何で?」
「はい。サラが……姉が怪我をして、病院にいるって聞いたので。病院の人が、特別に来てもいいって言ってくれたんです」
 少年は笑みを消し、不安そうにうつむいた。
「僕、姉しか身内がいないので。とても心配です」
 光矢は一旦意識を少年のほうに戻し、記憶の底に沈んでいた思い出を振り返る。多少立場は違うが、彼の置かれている状況は、光矢も経験している。
 過去に一回だけ、交通事故にあったことがある。両親が亡くなってから一月くらい経ったとき、自転車で買い物に出かけ、横断歩道で左折してきた車と接触して怪我をした。ふっ飛ばされはしたものの、奇跡的に大きな怪我はなく、軽い打ち身と擦り傷で済んだのだが。
(兄貴が大泣きしたんだっけかな)
 外に出ることもままならなかった水穂が病院に来て、光矢を抱きしめ激しく泣いたのだ。
 明るくて活発だった兄が、光矢とも散々喧嘩をしてきた兄が、両親の葬式後に塞ぎこみ、自分を避けて口も利かなかった兄が、子どものように泣いて自分の無事を喜んでくれた。
 盲目になって少しもしないうちに両親が事故で亡くなり、精神的に不安定だったこともあるだろう。それでも、光矢は嬉しかった。こんなに心配されていたのだと――自分のことを気にかけていてくれたのだと思うと、一緒に泣いてしまうくらいに嬉しかった。
 事故の知らせを受けたとき、いても立ってもいられなかったんだよ、と兄は後で教えてくれた。今のアシュレイも、恐らくはそんな気持ちなのだろう。たった一人の大切な家族が怪我をして入院している。そんな知らせを受けたとなればなおさらだ。
「アシュレイ君。病院はどこなの?」
 回想を打ち切って、光矢は少年に尋ねてみる。この辺りには多少詳しいから、何か力になってあげられるかもしれない。少年は困ったように、長くて覚えられてないかもしれないですが、と前置きしてから口を開く。
「西嶺……総合、病院です。お迎えにきてくれるって言ってましたけど、待ちきれなくて歩きました」
「じゃあ、俺たちと同じ方向だね。よかったら、一緒に行こうか」
 アシュレイは一瞬驚いたように光矢を見たが、やがて嬉しそうに大きくうなずいた。無邪気なその表情は、大人びて見えた彼が自分より年下であることを物語っている。
「ありがとございます、お兄さんたち」
「よっし。じゃあお兄さんが電話を入れてあげよう。もしかしたら迎えきてくれてるかもしれねーから、車回してもらおーぜ」
 豊高が携帯を取り出すのを横目で眺めていると、アシュレイが話しかけてくる。
「お兄さん、お名前は何ていうんですか」
「俺? 月島光矢っていうんだよ」
「光矢お兄さんですね、ありがとございます」
 少年は柔らかく微笑して頭を下げる。その笑みに、先ほどとは異なる引っかかりを覚えつつ、光矢も頭を下げ返した。

(2008.4.29)



其ノ4「想失者(下)」

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