第三章
其ノ4
『想失者(下)』
(そうしつしゃ)


 武を部屋へ押し戻し、那月を鏡華に頼んでから入り口に向かう。耀子が持ってきたバスケットの果物たちは、鏡華が責任を持って管理するとのことであった。
「お願いね、鏡華。武が勝手に吸わないようにしておいてよ」
「まっかせなさい。煙草は念のため没収しておくから」
 笑いあい、敬礼をしてから別れた二人の関係を聞いてみれば、案の定大の親友なのだそうだ。なるほど、確かに話したときのノリとテンションが似ている。類は友を呼ぶとはまさにこのことだろう。
 病院の受付前に差し掛かったとき、光矢は人影があることに気がついた。通常なら面会は修了となっているはずの時間に、患者との面会に来る人はいない。特別に面会を許可されたという場合でない限りは不可能である。ということは、西嶺家の関係者か。
 首を傾げる光矢を見とめたのか、もう一つあった影が立ち上がり礼をした。西嶺家専属執事の寺村氏だ。足下にはハーネスをつけたシェパードが座っている。
「兄貴!? もう大丈夫なの」
 駆け寄って手を取れば、水穂は穏やかに笑ってうなずいた。
 あの事件以来、兄はあまり体調が優れずにいた。目が覚めた後も微熱が続き、仕事への送迎は寺村氏がしてくれているのだという。現在も鏡華のすすめで、彼女の家の一室を借りて生活していた。
「時々家から着替えとか持ってきてもらったり、いろいろとお世話になっているよ」
 水穂の言葉に、寺村氏は笑って首を振る。それから控えめに、私は自分が出来る精一杯のことをさせていただいているだけです、と、再度丁寧に礼をして言うのだった。
 こんな風にかっこよく老いたいものだと、ロマンスグレーの執事を見て何となく思う。
「ところで光矢、これからどこに行くんだい?」
「今から人に会ってくるところ。橘先輩、俺の兄貴です。兄貴、剣間先輩の同級生の橘耀子さん」
 自己紹介をしあい、取りとめもないことを話す耀子と水穂を視界の端に収めながら、光矢は豊高の様子を窺った。視線に気づいたのだろう、出会ったときのような明るい笑顔が返される。
「ん、どしたのー?」
「いえ、」
 動揺や焦りはもう顔に出ていない。既に気にしてもいないのか、それとも表面だけ取り繕っているだけなのか。もしこのことを聞いたら、どういう反応が返ってくるのだろう。
 光矢は多少迷いつつも、浮かんだ問いを口にする。
「ハデスさんって、どんな人ですか」
「んー……難しい質問だなぁ。あいつは面倒くさいよ。単純なんだけどさ。精密機械を相手にしてるみてぇな感じがした。たまーに、だけどさ」
 豊高はちらりと苦笑した。
「自分の考えってのを持ってなくて、感情らしい感情も持ってない、と思う。命令されれば、目的達成のためには手段を選ばない。犠牲も厭わない。お上さんにしてみりゃ、これほど動かしやすい人材はそうそうにいないと思うぜ。あいつは『組織』の純粋培養、殺人人形そのものなんだから」
 自分の考えや行動も一切全部、相手の指示で決まってしまう。ということは、兵器として必要とされた部分以外は全部切り捨てられてしまったのだろうか。
 しかし、想像をすることはできても、やはり光矢にはいまいちよく理解できなかった。やはり遠い世界の話を聞いてみただけでは、その世界の全てを把握することはできないらしい。
 それでも、関わってしまったからには後に退けない。ある一点でも接触をしてしまえば、もう以前のように過ごすことはできない。これまで嫌というほどに思い知らされてきた。だからもう、知らないでは済まされないのだ。
 知る必要がある。あちらの世界のことも、あちらの住人のことも、聞ける限り聞いておく必要がある。光矢は質問を変えた。
「全部覚えていて云々っていうのは、どういうことなんですか」
「記憶力、悪いって言ってなかったけか」
 茶化すように豊高が言う。
「一週間くらいならギリギリで覚えてますよ」
 光矢も軽く肩をすくめた。なるほど納得、とおどけてみせて、豊高は話を続ける。
「あいつは記憶力も半端じゃなくってさ。自分が手ぇかけた相手の顔や年齢、性別とかっていういわゆるパーソナルデータを全部記憶してたんだ。それだけじゃなくて、死因は何かとか、どうやってやったのかとか、何年経ってても全部覚えてた」
「正確にですか?」
「うん、そう。覚え間違いとかうろ覚えになることなんか絶対なかったんだ」
 それはもはや「記憶力がいい」という域を超えている気がする。どれだけ暗記が得意な人間がいたとしても不可能だろう。
(ここまで来ると……比喩抜きで本当に機械と同じじゃないか)
 操作する相手の指示で、行動も考え方も決まってしまう、あくまでも受動的なもの。人間がそうなってしまうことがありえるとは、到底信じたくないが。
(だけど、あの人は事実そうなんだ……)
 死神の無感情な眼差しを思い出しながら、光矢は先を促した。
「でもさ。人間の記憶の容量ってのには限界があるもんだ。とうとう天津博士のときに、キャパが限界を突破しちまった。オーバーロード、って言えば分かるか。それが起きる前までは、一応感情らしいもんもあったんだけど……」
 豊高は一度小さく息をついて、瞳を細める。
「オーバーロードを起こしてから、あいつにゃ感情らしいもんも自分の意思も無くなっちまった。感情が生まれそうになるとパニックになって、混乱した原因のことも記憶から消しちまうようになったんだ。故障しちまった脳みそが、そういう刺激を有害だって勘違いするようになったのかもしれねーな」
 腕を組み直し、豊高の言葉が途切れる。何かを思い出したのだろうか、彼は目蓋を伏せ、笑みを消して静かに佇んでいた。
「あの……龍川さん、そのことに関しては……」
「そりゃさすがに、何とかしてやりたいとは思ったよ。あいつは俺の大事な親友だし――でも」
 と、豊高は光矢を眺める。今までとは全く異なる、どこか鈍い色を帯びた眼差しだった。
「そんなことに意味なんかないって思っちゃうんだよね」
 だってそうでしょ、と言って笑う。それは確かに笑みだったが、今まで見せていたものとは違う、どこか寂しそうな笑顔だった。
「俺がどれだけ心配しても、どれだけあいつのことを考えても……あいつは俺の感情が分かんない。俺の考えていることを、理解しようとすら思わないんだ」
 そのとき光矢は始めて、彼の諦めの表情を見たのだった。
「あいつにとっては、それが当たり前。俺にとっても、それが当たり前。今更どうこう言ってもしょうがないのさ」
「龍川さん……」
 そして、諦めてしまっている彼のことを、なぜかとても悲しいと思ったのだった。



 水穂らと別れ、耀子の車で移動すること二十分。時刻は午後の八時を回ろうとしている中、緑の屋根にかかる喫茶店の看板が見えてきた。『Jupiter』、紅茶とコーヒーにこだわりを持っているという、雑誌でも比較的有名な店である。特にケーキやランチが美味しいと、若い女性から人気を集めているのだとか。
 耀子が先に車から降り、店頭のボードを片付けていた女性に話しかける。二言三言やり取りをし、女性が中に入ってから、車内の光矢たちに向けて手招きする。
「今ちょっとマネージャーに確認してきてくれるってさ」
 程なくして女性が戻り、次いで店内に通される。片づけが始まってはいたものの、店内の一番端は空けておいてくれたらしい。無償で出されたケーキと紅茶をご馳走になりながら、光矢はいたたまれない気持ちで店内を見回す。
 室内は木の持つ温かさと自然な色味で溢れていた。テーブルや椅子も全て木で統一されており、大き目の窓ガラスと白いレースのカーテンが店の雰囲気によくあっている。窓際に置かれた小物も洒落ており、諸所に据えられた観葉植物が一層自然な空気を作っていた。
 豊高にはミルクティーが出され、なぜか握手が求められている。掃除の手を止めてまでしたいものなのか。有名人じゃあるまいし。
 嘆息した光矢に対し、耀子が笑う。
「この店限定の有名人なのよ、彼」
「はぁ」
 ちょっとカッコいい人が張り込みしてただけでこれだけの扱いなんだから、人間というものがいかに現金で面食いかがよく分かる――そんな拗ねた考えがちらつくが、口には出さずに胸の中にそっとしまっておくことにした。
「マネージャー、今日は深見はいるんですか?」
「いるけど、今日は赤だから下だね」
 優しげな顔を少々曇らせ、壮年の男性は言う。耀子もまたわずかに眉根を寄せたが、そのまま事情を説明してくれた。
「彼は下のオーナーのお気に入りだからねぇ……会えるかどうか分からないけど、交渉してみるよ」
「すみません、マネージャー」
「何々、いいよ。深見君の知り合いだといえばいいんだね。ちょっと待ってなさい、行ってくるから」
 彼が奥の厨房に姿を消してから、耀子はおもむろに声を沈める。
「……うちのオーナーは二人いてね。朝と夜とじゃ別なお店やってるの。『下』っていうのはここの地下にあるカジノ……いわゆる賭博場になってる場所のことを言ってるってわけ」
「と、賭博場!?」
 確か、現在の日本の法律では禁止されていたはずだ。テレビの特番などでも、稀に報じていることがある。
「しっ、声が大きいよ」
 耀子の指が、光矢の唇に当てられる。
「……本当はいけないことなんだけど……上のオーナーも『恩人だから』って理由で、違法だってことも強く言えないみたいなのよ。私たちは言わずもがな、ってわけなんだけど。バイトの子たちには秘密だし、本社の人も一部だけ、しかも半ば脅しみたいな感じで口止めされてるの。ヤバイ人たちばっかりなんだけど……私も何だか気に入られてるみたいだし、家族に何かあったらと思うと断れなくて……」
 耀子が小さく嘆息したところで、マネージャーが戻ってきた。十五分間だけ時間を取れたので、裏口で話をするという。その代わり、空いた穴を耀子が埋めるという条件がついていた。
「すみません、橘先輩。せっかくのお休みなのに」
 光矢は耀子に頭を下げる。彼女はいいのよ、と笑って首を振った。
「たかだか十五分くらい、気合で乗り切るわ。さ、お二人とも出て出て。裏口は厨房抜けた先だけど、さすがに一般の人を入れるわけにはいかないから。ぐるっと回ればあるから、きっちり話をつけてらっしゃいな」
 横目で眺めた豊高の顔は、やはりどこか複雑そうだった。

(2008.2.1)



其ノ3「想失者(上)」

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