第三章
其ノ3
『想失者(上)』
(そうしつしゃ)
「いやぁ、さすがの俺もやばかったぜ」 言って、武は豪快に笑った。 傷は思った以上に浅く、命に別状はないそうだ。気絶をしていた理由は他でもない、倒れたときに後頭部を強く打ちつけたからだという。 「やばかったぜ、じゃないわよ」 鏡華が眉間にしわを寄せる。その表情は安堵が半分を、呆れがもう半分を構成している。 「血まみれで白目ひん剥いてるあんたが担ぎこまれたときなんか、ホント仰天したんだからね」 あれから数時間しか経っていないことを考えると、武の回復力は驚異的だった。手術室から出てきた際など、彼は光矢に向けてブイサインを見せるまでになっていたのである。これから一日様子を見、大丈夫そうならば退院できるとのお達しであった。 禁煙パイポに不服そうな武を眺めながら、光矢は先刻から何度も繰り返していた思考を再開する。今は別室で休んでいる、憔悴しきった那月のことだ。 (あの怖がり方は、尋常じゃなかった) 手のひらへ目を落とした。震える肩の感触が蘇る。 (龍川さんのあの、技? を見たからかな……) ちらりと横へ視線を流した。長い足を組み、頭の後ろで指を結んだ豊高が、つまらなさそうにパイプ椅子へ背を預けている。拗ねた子どものように唇を尖らせているが、鏡華も武も全く気づいていないらしかった。 (那月さんのご両親は事故で亡くなったって聞いたけど、絶対違う) 細いワイヤーが張り巡らされた部屋など、故意でなければできない。故意であるということは、事故で亡くなったわけでないということだ。ということは、那月は現場を見ていたのだろうか。 光矢が凝視していることに気づいたのか、豊高がふとこちらを向いた。 「お? どーしたー?」 「いえ、別に……」 「ははーん。俺があんまりにもいい男だから、ついつい見とれちまったんだろ。絶対そうだって」 「それだけはないです」 「えぇぇーッ!? ちょ、そんなぁ、嘘でもいいから『そうです』って言ってちょうだいよぉ! 切なくなっちゃうじゃんかぁ……」 大げさに肩を落とし、今度はしょげの体勢に入る。パイプ椅子の座席に体育座りをし、長身を縮めて恨めしげな視線を送ってきた。こうした態度を見ている限り、やはりユニークな青年には違いない。 だがそれでも、光矢は緊張を隠せなかった。『首切り双刃』とのやり取りがこびりついて、どうしても頭から離れなかった。 明らかに、あれは正常な者の会話じゃなかった――ならば、やはり確かめておかなければならない。 「龍川さん、ちょっと」 聞かなければならない。那月がなぜ怯えるのか。一体どんな関係があったのか。 「ほいほーい」 光矢の緊張に気づいたのか、豊高はごく軽い口調で応じてくれた。武と鏡華に「心配ない」と目配せして、外に出る。廊下は空調が聞いてるのだろう、少々肌寒い。 「どーしたのよ光矢クン、お兄さんなんかナンパしても面白くないっしょ」 幸い、あたりに人はいなかった。 「龍川さん」 光矢は一度息をついた。口の中が乾いている。冷や汗が背を伝って落ちていった。手に不自然な力がこもっている。膝が震えているのは、緊張のせいだけではない。 豊高は片手をポケットに突っ込み、片手をウェストバッグに添えて扉の前に立っていた。不思議そうに首をかしげて、色違いの目を瞬いている。 「……那月さんに、何か、したんですか」 「さぁ?」 しぼり出した声を、青年はいともあっさりと投げ返した。体の芯が冷える、嫌な感覚がした。 「さぁって……そんな、じゃあ何であんな、お父さんとお母さんがって、言うんですか」 「覚えてねーよ、いちいちそんなこと」 癖のある金茶の髪をかき混ぜながら、豊高は続ける。 「だってさぁ、考えてもみてくれよ。ばらされちまったからもう言うけど、俺の仕事は暗殺だったんだぜ? 人殺しが仕事なの。いちいち殺した相手の顔なんか、覚えてられねぇってわけよ」 分かる? と目を細めて、さらに言葉を重ねていく。 「だから『何かしたのか』って聞かれても困っちゃうわけ。ぶっちゃけ分かんねーっつーか。そりゃまあ、手ごたえのある仕事をしたときは覚えてるけどさ。つまんなかったり、簡単な仕事ってのは忘れちまうでしょ? それにさ、いちいち殺した相手の顔とか覚えてたら壊れちまうって。実際一人いたけどさ、俺の相棒なんだけどね」 足の裏から、冷たい何かが這い登ってくる。音も単語の羅列も耳に入ってくるのに、脳が意味を受け取りを拒絶している。 この人の言っていることが理解できない。同じ日本語、同じ言葉を使っているはずなのに。 「……ん? 待てよ、そうだ、あいつがぶっ倒れてあんなになったのが、確か天津博士以降だから……お? 天津って……そうか! あぁ分かった、天津博士夫婦のこと言ってたのかぁ! 何だぁ、悩んじまったじゃん、もっと早く言ってくれよぉ」 豊高が笑いながら光矢の肩をたたく。その感触が、やけに遠く感じられた。 と、軽い足音が耳に届いた。 「あれっ、那月ちゃん! もう大丈夫なの?」 首だけ回し、光矢は廊下に佇む華奢な人影を見た。両手はきつくスカートを握り締め、今にも倒れるのではと不安になるほど蒼い顔をしている。 「……やっぱり」 彼女は細い声をしぼり出して、豊高に投げた。 「お父さんとお母さんを……したのは、龍川さんたちだったんですね」 「そっかぁ。聞こえちゃってたんだね」 豊高の態度はあくまでも軽い。ひょいと首をすくめ、口角をつりあげて那月に笑いかける。 「で? どうすんの? ヒトゴロシってんで通報する? それとも親の仇、ってんで俺を刺す? 別にいいよ、そーいうのには慣れっこだし」 言う彼の表情は、どこか空々しかった。肌を鋭い気配がなぞっていく。体の末端が冷えるほどのそれは、本能が反応するほどの強いものだった。これが殺気なのだと、光矢はすくむ足を意識しながら思う。 豊高の指は、腰に下げられたバッグに添えられている。 「ここに、ナイフが入ってるよ。法に引っかかんないくらいのちゃちぃもんだけど。使う? 何、命を奪うくらい簡単にできるさ」 光矢は那月を見た。祈るような心地で、強張る首を横に振る。 那月も光矢を見た。そしてかすかに震えた、しかしはっきりと通る音で、 「私は、あなたたちを許しません。これからも、絶対に許すことはないでしょう。でも、今後一切責めることはしません。恨むことも、しません」 そう、告げた。 豊高が驚いたように瞬く。殺気は霧散し、空調の冷やす空気に消えた。 「……なんで?」 次いで放たれた言葉には、はっきりと狼狽の色があった。 「なんで? え? 恨むでしょ、憎むでしょ? 普通なら、両親の仇って言われたら取り乱すでしょ? 許せない、殺してやるって思うもんでしょ? え、それなのになんで」 「本当なら!」 まるで豊高の発言を打ち消すように、那月は半ば叫んで切り出した。 「本当なら今すぐにだって仕返ししてやりたい! お父さんとお母さんのことを奪った人なんか、いなくなっちゃえばいいんだっ!!」 スカートを握っていた彼女の指は、いつしか胸の前で組まれ、結ばれていた。 「……ついさっきまで……あの部屋にいたときまで、そう思ってました」 光矢の視界の奥、武の部屋の二つ向こうにある扉が、ほんの少しだけ開いている。 豊高が眉を寄せるのが分かった。 「でも、気づいたんです。私がどれだけ泣いても、あなたたちを憎んでも、死んでしまった人は帰ってこない。過ぎてしまった時間を戻すことはできないし、起こってしまったことを無かったことにもできないって」 光矢の心に、那月の静かな声が流れ込んでくる。凛と澄んだその音は、心の奥深い場所を優しく包んでいく。 「だったら、全部受け止めて……前を見て、歩いていくしかないじゃないですか。恨んだり、憎んだりする分のスペースを、失った人たちが生きていくための場所にしたい。だから私はもう、あなたたちを責めたりすることはやめます」 「は、はは」 一歩、退いた。退いて、彼は虚ろな笑い声を立てた。 「何だ、それ……何だよ、それ? そんな、だって……さぁ、俺だって、ハデスだって……そりゃ、恨まれる、よな、ことしたけど――そんなこと、誰も言わなくて、一度も、言われたことなんか――」 「ま、待ってください!」 光矢は思わず、声をあげて会話を遮る。 「龍川さん、今ハデスって言いましたよね。やっぱり知ってたんですか!」 我に返ったらしい豊高が、しまったとでも言うように瞳を見開いた。それからついと視線をそらし、壁にもたれて苦笑する。 「……ダチ、だよ。ずっと昔から一緒だった、俺の最高の相棒」 もう隠す気はないらしい。笑みは崩さないまま、わずかに肩をすくめてみせる。 「――だったんだけどさ。一年前、仕事してくるって出てったきり、あいつは帰ってこなかった。だから俺はこうして、未練がましくあいつを探してるわけ。あいつのいない『組織(あのばしょ)』は、張り合いがなくてつまんねぇし……外の世界にいれば、いつかあいつを見つけられる気がしてさ」 「『組織』ってぇのは、『殺人人形(Killer Doll)』のことだな」 不意に聞きなれた声が割り込んできた。いつの間に外へ出たのだろう、武が部屋の入り口にあるソファでふんぞり返っている。一応良心はあるのか、煙草でなく禁煙パイポのままだった。 彼はおもむろに、何かを光矢へ投げつけてきた。顔面に当たった感触で、皮製の手袋だと知る。豊高が普段から愛用している、フィンガーレスグローブだ。 「外出てくときにこっそりぶンどった。……おい『糸巻き』野郎」 「龍川豊高だ。そっちの名前で呼ぶな」 「『糸巻き』野郎」 武は豊高の抗議を無視して続ける。 「手の甲、見せてみろ」 一瞬、ぴんと空気が緊張した。触れれば傷がつきそうなくらい鋭く、一分いれば凍りつきそうなくらいに冷たいそれが、辺りを覆っていく。 (2008.1.15) |