第三章
其ノ3
『想失者(上)』
(そうしつしゃ)
双方が見つめあうことしばし、先に折れたのは豊高だった。ポケットから手が引き抜かれ、手首を返して甲を晒す。 光矢は知らずの内に息を飲んでいた。あの死神の頬に彫り付けられた印が――十字架の柄を垂直に貫いた、不吉に紅い小さな紋が、彼の右手の甲にべったりと貼り付いている。 那月の顔から血の気が失せる。力を失いそうになる彼女の体を支え、光矢は今一度それを見る。濃く、鮮やかな色彩のそれは、たった人指し指一関節分くらいの長さしかない小さなそれは、存在を大いに主張していた。 「一つ尋ねるぜ、『糸巻き』野郎。てめぇの行動は『組織』の意向か? それともヘリオスの意向なのか?」 光矢が握っていた手袋を抜き取り、はめ直して、豊高は答える。 「どちらでもない。それはディオニソスが証明してくれる。俺はもう『組織』とは何のかかわりもねぇし、ヘリオスの誘いは随分前から断ってた。ハデスも、行方不明になる直前まで俺と一緒に断ってた。あいつは単純だが面倒くさい性格で、命令は基本的に逆らわないはずなんだ。でもあのときは」 「ちょ……ちょっと待って下さい龍川さん!」 那月を落ち着かせて座らせてから、光矢は再び遮った。おかしい。今の現状と矛盾している。ハデスはヘリオスの側にいるのに、「行方不明になる直前まで」「断っていた」なんて。 「初めて会ったときに説明したとおり、あの人は俺たちの前に現れたときからずっとヘリオスさんの味方でしたよ。龍川さん、その時にハデスさんの特徴を確認したじゃないですか」 「確認と確信は別物だぜ。あいつも大概有名人だったからな、外見誤魔化して名前かたる奴なんか腐るほどいる。……ギリシア神の気配がするから、あいつのこと知ってるんじゃないかと思ってさ。そんで話聞いて、こっち側についた後に独自で探りを入れる予定だったんだ。例えば、どこぞの赤毛のお子ちゃまをボコって吐かすとかな」 「最初ッから打算込みだったってえわけかよ、性格悪ぃな」 武が忌々しげに呟き、聞こえよがしに舌打ちする。 性格の問題云々はともかく、もし計算してこちらについたというのならば、彼はものすごい能力を持っていることになる。十分程度の簡単な説明から、こちらの置かれている状況のほぼ全てを把握し、協力した場合としなかった場合の労力、および見返りを弾き出すことなど、頭の回転が速くなければできないことだ。そこは賞賛すべきだと光矢は思う。 「ンな当たり前のことで感心なンかすンな」 顔に出たらしい。というか、当たり前のことなのか。何だか馬鹿にされた気がしないでもない。ささやかな抵抗とばかりににらんでみたものの、武は綺麗にスルーしたらしかった。 それはさておき、と光矢は意識を引き戻す。どうにも引っかかる部分がある。豊高の話が本当だとすれば、ハデスの考えが一年経って変わったことになる。確かに、一年という時間の長さを考えてみればありえない話ではない。人間の意見や思考は、時間が経てば変化することが多いからだ。もっとも、これはあくまで光矢自身の経験則なので確証はどこにもないのだが。 ハデスは「命令には基本的に逆らわない」という――まるで機械のようだが、長年一緒にいたという豊高が言うのならそうなのだろう。事実、彼の態度を見ている限り、よほどのことがなければ考えを変えないことぐらいは予測できる。 それなのに、一年前に行方不明になって、それだけで考え方が変わってしまうことなんてあるのか。あるいは、彼の考えを根本から塗り替えてしまうくらいの出来事があったのか。 ぐるぐると考え込む光矢を他所に、武は息をついて話題を変えた。 「しかしまぁ、こりゃぁチャンスだと言えなくもねぇな。もしも向こうのハデスが本物なら、『糸巻き』野郎が説得してこっちに引き入れられるかもしれねぇ」 「随分都合がいいっつーか……もしも偽者だったらどうすんだよ」 「そンときゃそンときさ」 鷹揚かつ大雑把にして無責任な返事だった。豊高は軽く眉を下げ、お手上げ、とでも言いたげに両手を振った。 「ちょっと武!? あんた、何やってんのよ」 そんなとき、女性の驚く声が廊下に響いた。鏡華のものとは違う、やや低めのハスキーな音である。 「げ、耀子(ようこ)」 「何よ今の『げ』って。せっかくお見舞いに来てあげたのに」 バスケットを掲げ、ヒールを高らかに鳴らしながら、女性は大股に歩いてくる。薄手のキャミソールに短パン、程よく日に焼けた肌を惜しげもなく晒していた。やや癖のある茶髪をポニーテールに結い上げ、黒目がちな瞳には安堵と呆れが映っている。 鏡華を色白クールなお嬢様系とするならば、こちらは健康的なスポーツタイプ姉御系美人といったところか。どうやら武の知り合いらしい。 「あの……先輩、この方は」 「俺のダチだ。橘耀子。今は喫茶店で働いてる」 「へぇ、これが噂の光矢クンね。初めまして……じゃないかな? あ、ホラ、一年前の選手送別会ん時に、バドシングルスの代表で舞台上がったんだけど、分かる?」 そう言われてみれば、知っている気がする。覚えてなくもないかもしれない。が、あくまで「気がする」「かもしれない」レベルのことである。かと言って、このまま知っているを前提に話を進められても困る。 (一年前なんて、兄貴とひと悶着あったくらいしか覚えてないし……) 「あの……失礼ですみません。俺、記憶力壊滅的に無くて」 「あぁ」 彼女は快活に笑うと、武にバスケットを押し付けた。中には果物が山盛りになっていたが、よく見ると煙草の箱が隠してある。武も気づいたのだろう。吸いたそうに箱を凝視している。 「ごめんね、気にしないで。ほとんど初対面みたいなもんだし、舞台上じゃ顔までは見えないし。謝らなくても平気よ」 そう言われると、何だか逆に申し訳なくなってくるものである。 このところ、相手の期待を裏切ってばかりだと思う。このままではいけない。このままずるずると言い訳を続け、逃げ続けていては何も変わらないのだ。 光矢は口の中に広がる苦味とやるせなさを噛み締めたまま、黙って耀子に頭を下げた。 「ほらほら、そんな顔しないで! 気にしなくても全然いいんだから」 そんな光矢の心を知ってか知らずか、彼女は光矢の肩を勢いよくたたいて笑う。そのときにたまたま目に入ったのだろう、豊高に一度会釈をしてから、はたと手を打ち指を突きつけた。 「あーっ! あらあらあら、お客さんってば久しぶり! もう偵察には来ないんですか? 先輩もうちのバイトの子たちも、みんな寂しがってるんですよー」 親しそうな空気に、光矢は思わず武を見た。武も初めて知ったらしく、面白くなさそうな顔をしている。 「あの、お知り合いなんですか?」 「知り合いっていうか、うちのお店でも有名な人なのよ。うちの看板ウェイターのことについて、あれこれと聞き込みしてたから。顔カッコいいし気さくだからって、みんな騒いじゃってね」 「聞き込み……偵察……おい耀子」 武が何かを察知したらしい。細められた双眸には鋭い光が宿っている。 「そのウェイター、この辺にメッシュ入れてねぇか? 無口で、髪の長さはこンぐらいで」 「あら、よく知ってるわね。そうそう、いつもほっぺに湿布貼ってるの。火傷してるらしいのね、見せたくないんですって。それ以外にもちょっと変わったところがあるのよ、彼。一年前、道端に倒れてたところを今のオーナーが拾ったんですって。しかもその日から昔のことは、一切覚えてなかったみたいよ。何だかドラマみたいな話よねぇ」 愛想はないけどいい人よ、という言葉を受けながら、光矢は豊高へ意識を向けてみる。先刻までの余裕は既に消え、複雑そうな表情を浮かべて黙り込んでいた。 豊高の話では、ハデスは一年前に行方不明になっているという。耀子の話では、一年前に記憶がない状態で倒れていたのだという。細かいことを除けば、時期的にはほぼ合っているとも言える。ハデスの記憶が失われているのが本当だとすれば、何も分からずにヘリオスの下につく可能性もないわけではない。 光矢は一度深呼吸をし、意を決して切り出した。 「橘先輩。その人に会うことってできますか」 この場にいる者たちの視線と注意が、一気に光矢へと注がれる。 「えぇ、会うくらいなら構わないと思うわ」 「龍川さん。一緒に行きましょう」 豊高のほうを見てそう言うと、豊高はぽかんとして光矢を眺めた。驚いているのか、それとも誘われるとは思っていなかったのか、おそらくはその両方だろう。 「ここでいろいろ言っていても仕方ありません。何よりもまずは、本人かどうかを確認する必要がありますよ。もし本人だったら、龍川さんが説得してみてください。うまくいけば味方になってくれるかもしれませんし、駄目でも何らかの話が聞けるかもしれませんから」 「あ、……ああ」 まだ呆然としている。よほど驚いたのだろう。武のほうも窺うと、同じような顔をしてこちらを見つめていた。今までのことを考えれば仕方ないとはいえ、少し微妙な気がする。 「橘先輩、今からお店に案内していただいても大丈夫ですか?」 耀子は一度自分の腕時計に目を落としてから、快くうなずいてくれた。 「龍川さん、行きましょう。先輩、お大事に」 きびすを返したのと同時に、武が短く光矢を呼び止める。 「おい」 「はい」 「……意外だな。何もできねぇだの何だのと駄々こねてたお前が、自分から動くなンてよ」 武からの褒め言葉こそ意外ではあったが、今はそれを茶化す気にはなれなかった。素直にうなずいて、小声で答える。 「那月さんもセレネも頑張ってるのに、肝心の俺が逃げてばっかりで格好悪いと思ったんです。守られてばっかりじゃ男が廃る、それだけですよ」 武はそうか、とうなずき返し、どこか満足そうな笑みを浮かべて光矢の肩に手を置いた。 「行ってこい。逃げてばっかだったお前がどこまで頑張れンのか、ちゃンと見ててやっからよ」 返事をする代わりに、光矢は武の手を硬く握ったのだった。 (2008.1.15) |