第三章
其ノ4
『想失者(下)』
(そうしつしゃ)


 鉄の扉の奥からは、わずかにだが人の騒ぐ気配がする。店の裏口、電気が一つだけ点いた場所に、二人は佇んでいた。互いに無言のまま、「彼」が出てくるそのときを待っている。
 『非常口』の緑色をぼんやりと眺めつつ、光矢はふと考える。そういえば、きちんとした形で会うのはこれが初めてだ。一度目は帰宅途中に襲撃され、二度目は太田原氏の――
 記憶が鮮明に描かれかけて、慌てて思考を中断する。まだ思い出として、体験談として語るには、あまりにも生々しい。
 豊高は壁にもたれ、自分の足下を見つめている。時折ふと空を見上げ、一つ息をついてから、また同じ体勢に戻る。この繰り返しだ。表情もやや硬く、何を言うべきなのか悩んでいる風にもみえる。もっとも、考え込んでいるように思えるのは、もしかしたら影のせいなのかもしれないが。
 間を置かず、彼は再び空を仰ぐ。光矢が胸中で五回目、とカウントしたとき、扉がぎしりと軋んで動いた。
 細く開いた隙間から、黒い影が滑り出てくる。左目にかかる前髪は白く脱色され、あの印がある箇所には白いテープが貼られていた。あの時のような全身黒の衣服ではなく、シンプルな黒いベストにカッターシャツといった、洋画に登場するディーラーの衣装を身にまとっている。
 だが、暗く底が見えない眼差しも、何の光も映さない漆黒の瞳も、一切が以前と変わらなかった。極度の緊張で喉が渇き、冷や汗が全身から噴き出てくる。
 豊高が小さく呻く。目で問い掛ければ、ごくかすかにうなずいた。長年共にいた彼が認めるのならば、本人以外の何者でもない。
「あの、」
 勝手に震える膝を何とか落ち着け、乾く唇を湿らせてから光矢は切り出した。
「俺のこと、覚えてますか」
 少量の沈黙の後、淡々と声が重ねられる。
「月島光矢。日照高等学校二学年。弓道部所属。ペロポネソス半島都市国家エリスの王、エンデュミオン。ヘリオス様より捕縛命令が出ている」
「今はその、捕縛はやめてください。今回はそういうことじゃないんです」
 まだエンデュミオンと呼ばれることには抵抗があるが、今はあえてその感情を隅に追いやって続ける。
「俺たち、あなたと話をしに来たんです。質問をさせていただいてもいいですか」
「現在は捕縛の実効命令を受けていない」
 ハデスの言葉はあくまでも事務的だった。温度を感じない音に、改めて豊高の言ったことが実感できる。「純粋培養」された「人形」、「精密機械」。なるほど、失礼な話だがそのとおりかもしれない。
「……ありがとうございます。じゃあ」
 知らずのうちに詰めていた息を吐き、光矢は一歩横へ退いた。
 二人の暗殺者が、相対する。ハデスの無機質な瞳が、かつての旧友の姿を射抜く。
「ハデス――」
 豊高も真っ直ぐに、かつての親友を見つめる。発された彼の言葉は、わずかに震えていた。
「俺のこと、分かるか?」
 また、少々の沈黙が降り積もる。
「記憶内に該当する人物がない」
 無慈悲に突きつけられた答えに、豊高が何を思ったのか。彼の心の内を読み取る術を、光矢は持っていない。ただ彼が一瞬だけ悔しげに歯を食いしばった、それだけが光矢に分かる全てだった。
「……、龍川豊高だ。これなら該当する奴いるだろ?」
「龍川豊高。『殺人人形』所属のSクラスレベル暗殺者。銃、ナイフ、ワイヤーを使用。特にワイヤーによる一対多数の戦法を得意とする。室内の暗殺および待ち伏せによる大量殺戮を駆使した手法から『殺し屋の糸巻き』『血まみれエース』『密室の蜘蛛』『バッドトリッカー』などの通り名で呼ばれ、『最悪の終焉』『狂える快楽主義者』と並び最終階級暗殺者(Hiend Class Assasins)との通称で知られる」
 とつとつと語られる記憶の断片は、まさしく情報と呼ぶに相応しいものだった。知っている、程度のレベルではない。コンピュータに掲載されているデータをそのまま転用してきたかのような、そのまま頭の中に叩き込んであるかのような、澱みも迷いも無駄も一切無い「情報」であった。
「相変わらずだな」
 豊高の呟きにも、ハデスは一切答えない。
「んじゃ、質問タイム行くぜ。おいハデス、俺の年はいくつだ」
 投げられた問いを、黒衣の死神はいとも簡単に打ち返す。
「二十一」
「身長体重」
「180.1センチメートル、73.1キログラム」
「利き腕は」
「右」
「誕生日」
「五月六日」
 光矢の目の前で、単調な質問が重ねられていく。さながらそれは、パソコンを前に情報を引き出す作業にも似ていた。
 何が狙いなのか。光矢は静かに成り行きを見守る。
「血液型は?」
「AB、RH+」
(あ……惜しいな。RH-だったら珍しかったのに)
「特技」
「声帯模写、変装による潜入捜査」
(そういえば初めて会ったときにそんなこと言ってたっけ)
「好きな女のタイプ」
(……、……ん?)
 光矢は思わず眉を寄せ、豊高を眺めた。本人は至って大真面目だ。先ほどと変わらず、真剣な表情のままハデスを見つめている。
 聞き違いか。視線をハデスへと移し、答えを待つ。
「胸のサイズがE以上。身長は165センチメートル以上。目が大きく童顔で華奢。色白で髪がロングストレート」
(聞き違いじゃなかったのかよ!!)
 ドサクサに紛れて何聞き出そうとしてるんだこの男最低だ。ちょっと見直そうかなとか思ったのに。心の中で毒づきながら突っ込もうとした、そのとき。
「今俺の内側にいるギリシア神は誰?」
 豊高の目つきが変わった。
「ディオニソス」
 ハデスは変わらず、淡々と質問に答える。
「足のサイズ」
「28.5」
「俺がお前と会ったのは何歳のときで、何月何日何時何分?」
「六歳、五月六日午前十時二十三分五十八秒」
 唐突に豊高の考えが理解でき、光矢はハッとして豊高を凝視した。
 これは、誘導尋問だ。ハデスの奥底にあるだろう記憶の欠片を刺激して、失われた記憶を呼び戻そうとしているのだ。
「中坊んときの得意科目」
「国語」
「好きな飲み物」
「ミルクティー。社のえり好みは無い」
「その逆は?」
「無糖コーヒー。社は一切関係ない」
 光矢は時計を見る。あと、五分。息をつく暇も惜しいのか、豊高は徐々に早口になっていく。
「俺の癖は?」
「片足に体重をかけて立つ、銃の使用時に腕がぶれる、近くのものを見る際に目を細める、右手の甲の印部分を撫でる」
 情報は矢継ぎ早に引き出されていく。
「俺のコードネームはどこに入ってる?」
「左肩甲骨より五センチ下、背骨右十センチの箇所」
「字の向きは」
「縦、背骨側が下部」
 答えが返されたと同時に、豊高の口元が緩んで笑みを作った。
「よし。最後の質問だ、ハデス」
 色違いの瞳には、何かを確信したらしき強い光が宿っている。光矢も知らずに息を飲み、双方を見つめる。
「確か、一般に出回ってる俺のパーソナルデータには、氏名年齢生年月日身長体重血液型、それから備考による追記だけしか載ってないはずだぜ。じゃあ、お前が答えたそれ以外の情報は、一体どこで手に入れた?」
 沈黙は、今までよりも長かった。秒針は進む。五――十――十五――二十――二十五――
 針が三十秒目を刻んだとき、ハデスがわずかに瞠目した。それから一歩後じさり、細かく震える指先で額を押さえつける。
「ど、こで」
「そう、『どこで』だ。コードネームの位置なんか、ずっと一緒にいた奴くらいしか知らねーぜ。そういやぁ昔、実質上同室みたいだった相棒がいたが、多分そいつくらいしか知らねーような情報を、どうしてお前は知ってるんだ?」
 ハデスは、傍目から見ても分かるほどにひどく狼狽していた。どうしてこの情報が引き出されたのか、なぜこの情報を自分が持っているのか。理由を辿っても答えが出ない、その事実に彼は混乱しているらしかった。
「お前は、一部を落っことしただけなんだ。記憶の糸は繋がってる。手繰り寄せるってぇ選択肢が無いだけだ」
 そして豊高の音が和らぐ。迷子の子どもに語りかける、そんなニュアンスが言葉に滲んだ。
「なぁ、ハデス。一緒に来いよ。俺なら、お前と一緒にいた時間を証明してやれる。お前の糸を引っ張り寄せることもできる。だから、」
 ハデスの額に添えられていた指が、静かに外された。衣擦れの音だけがやけに響く。
「我が使命は『神の国(オリュンポス)』計画の完遂および妨害者の排除。使命に背くことなど不可能。我が主はヘリオス様。主の命に背くことなど不可能。我が命はヘリオス様のためにある。それが我が存在理由」
 整った顔には、先ほどまでの狼狽を窺うことはできなかった。底の見えぬ漆黒の双眸に、薄く水のまくが張ってはいたが、そこには面と同じく感情らしきものは無い。
「龍川豊高。今回の接触は、Sクラス暗殺者からによる妨害と見なす。次回遭遇した場合、排除を決行する」
 豊高は何かを言いたげに手を伸ばした。が、すぐにその手をポケットへと突っ込む。瞳をハデスから外し、再び足先を眺めて、
「そうかよ」
 低く呟いた。落胆とも諦めともつかない色が、表情に濃く影を落としている。
 対するハデスは、以前に出会った彼と全く同じだった。相対する者を見据えたまま、淡々と言葉を連ねていく。
「冥府神ハデスが力は、全て須らく主のために捧ぐ。我が主を阻む者は、我が力にて須らく死を与えん」
 時計が無常にも、十五分目を指し示した。

(2008.2.1)

其ノ5「真見者」

其ノ3「想失者(上)」

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