第四章
其ノ4
『辿醒者』
(てんせいしゃ)


 飛ぶように過ぎる緑の中を、二人で並んで駆けていく。バランスを崩すその手を握り締めた。すべらかな手のひらは、自身のそれにすっぽりと収まってしまう。低い体温が心地よい。手を取ったまま走る。隣の気配がかすかに笑った。
 弓を引き絞り矢を放つ。獲物が倒れて快哉を挙げる。隣の様子をうかがえば、気高い横顔がそこにある。見とれるほどに凛とした姿、矢をつがえてから放つまで、その全てが美しい。目が合った。夜空のように澄んだ蒼が、照れたように少しだけ細められた。
 駆ける。駆ける。やがて緑は消えていき、周囲が蒼い水になる。隣の気配が溶けてなくなる。冷たい水が押し寄せてくる。逃れようにも逃れられない。とっさに振り仰ぐ向こう側、きらめく銀が目を射抜いた。伸びた背筋、美しい肢体、なびく髪、先ほどまで隣にあった、いとおしい影。手を伸べても届かない。動こうにも動けない。名前を呼んでも届かない。銀色が、金色に彩られて揺らめいた。そこから何かが飛び出してくる。避けようと思っても、やはり身体は言うことをきかない。
 唐突に響いた衝撃が、全ての視界を突き動かした。次いで激しい痛みが頭をかき回す。一箇所が、眉間が燃えるように熱い。眉間だけでなく、後頭部までもが痛み始めた。渾身の力で殴りつけられたようだ。
 水は灰色の石と混ざり、全身を拘束し続ける。金色から飛び出した鉄の箱が、荒々しく方向を変えた。絶え間ない水音に誰かの叫びが重なり始め、視界が紅く染まっていく。鉄の箱の中にいる少年が、向こう岸の影の隣の誰かが、笑ったような気がした。
 意識にひびが入る。粉々に砕ける気配がする。まだ駄目だ。せめて最後に、あの美しい声を聞きたい。名前を呼んだ。己が望んだ最期の音は、涙に濡れた絶叫となって返された。海の音、人の声、いとおしいあの人、嗤う影、ぶれて混じり、やがて全てが黒に沈んだ。

* * *

 起き上がることすら叶わず、光矢はぼんやりと天井を眺めていた。
「……頭……痛っ……」
 自分の声が激しく脳内を揺さぶっている。頭が割れて弾け飛ぶんじゃないかと思うくらい、ひどい痛みが残っていた。全身もまだ強張っている。また起きるのが遅くなるなと、光矢は苦々しい心地でそう思った。
 重い腕を持ち上げて、枕の脇の携帯を取る。小窓に並ぶ数字を目でなぞり、刻まれる時間にため息をつく。午前五時四十分。外は明るくなり始めているが、兄や先輩はまだ寝ているだろう――全く、嫌になる。ひとえに夢見が悪いせいだ。もうじき夏休みも終わるというのに、こんな状態では先が思いやられる。寝返りを打つのも億劫で、仰向けのまま二度目のため息を漏らした。
 自主練習をし始めて、既に二週間目に差しかかろうとしている。ヘリオス側の動きはない。大会が終わるまでの間もつけ狙われていたのに、二週間前からは全く刺客が現れていない。不気味なまでに平穏な日々が続いている。豊高が何度か潜入を試みてはいるが、あの赤毛の暗殺者がそれを許さないという状態だった。セレネの退院予定日だけが、少しずつ近づいてきている。何事もなければ九月の頭、学校の始業式と同時に退院できるらしかった。
 三度目のため息、同時に寝返りを試みて失敗する。
「……何なんだよもう……」
 ぼやきに返る答えはない。しんと静まり返る部屋、机上時計が刻む針の音だけが、早朝の空気を震わせている。
 あれから随分と秋の気配が濃くなっている。だが、この悪夢との付き合いは依然として慣れない。ヘリオスが宣戦布告をしたあの日から、毎度のように見続けている夢。今までのそれとは全く別の、誰ともしれない誰かの夢だった。
 始まりはたいてい森の中からだが、常にその場所は変化する。走っているときもあれば歩いているときもあった。森ではなく平原のこともあったし、なだらかな丘を越えているときもあった。隣には常に誰かがいて、その誰かと狩りをしているのがほとんどだ。場合によっては休んで会話をすることもあった。不思議なことに、会話の内容も声も、真正面から見ていた顔も、起きると全く覚えていない。ただ、くっきりとした蒼い瞳と、流れるような銀の髪だけが、記憶の端にこびりついているばかりだった。
 そして終わりはいつも一緒、誰かに頭を射抜かれる。そこに車が突っ込んできて、激しい痛みと共に意識が途切れる。その余韻を引きずってか、気だるさと頭痛をお供に目覚めるのが常だった。
 車は分かる。エンデュミオンが最後に見た光景だ。ヘリオスの乗った車に跳ねられた、あの体験をなぞっている。それが誰かの夢に重なって、結果持ち越す痛みを助長している。
「混ぜるな危険だよ……ホントさあ……勘弁しろっつの」
 今も内側で眠っているだろう、魂の持ち主に抗議する。当然ながら返答はなかった。ずるい。痛みは全部こっちに来るのに、当の本人は暢気に寝ているのだからたまったものじゃない。もっとも――彼が体感した痛みは、夢をはるかに凌駕しているに違いないのだが。
 だからこうして呻くに留める。多少理不尽だが仕方がない。それよりも、一番の原因はこの『誰か』だ。エンデュミオンが記憶をだぶらせ、重ね合わせてしまう状況を作った張本人。いったいどこの誰なのか、はっきりさせたいところではある。
 しかし、そんな光矢の思いもむなしく、夢はいつも同じように始まって終わる。誰かと一緒に狩りへ行き、最後は頭を射抜かれる。頭を射抜かれて生きている人間など、漫画のギャグシーンくらいしか思いつかない。順当に考えるならば、おそらくはもう生きてはいない。
 死んだ人間の魂が、さまよった挙句に入り込むことはあるのだろうか。可能性としてはあるのだろうが、いかんせんそれが正しい答えには思えない。
「……あとでセレネに聞いてみようかな……」
 セレネなら何かを知っている気がする。アレスやディオニュソスには尋ねづらかった。というよりも、他の人間(この場合は神になるのだろうか)に質問をしても、詳しい答えが返ってこない気がする。
 何せアレスは喧嘩のことしか考えていないし、今は思うように動けずぴりぴりしている。ディオニュソスは……個人的に苦手だった。彼は非常に陽気だ、そのことを責めるつもりはない。おしゃべりなのだ。豊高の分と合わせて考えると、聞き出すまでにどれだけの時間がかかるか想像できない。水穂でも駄目だろう。カッサンドラは人間の預言者であって、神ではないから。
 結局のところ、消去法でもセレネしか選択肢がないのだった。ちゃんと受け答えをしてくれるのがセレネしかいないのが、なんだか妙に物悲しい。
 携帯が震える。六時のアラームが鳴り、痛む頭に響き渡る。アラームを切り、元の位置に放り投げる。
「……何なんだよ、もう」
 二度目の呟き、四度目のため息。答えはやはり、返らない。
 いつものように一時間だけ布団に転がっていれば、いつものように頭痛は引いていった。起き上がってジャージに着替え、部活の用意を整えて階段を下りる。いつの間にかテレビがつけられ、兄がヘクトルと一緒にニュースを聞いていた。
「おはよう、光矢」
「うん」
 テーブルには既に朝食がそろっている。バターを塗って焼いたパンが二枚、ベーコンエッグにトマトのサラダ、コーヒーの香りがする。
「今日は休み?」
 カレンダーの隣にかけられたコルク板に目をやった。シフト表が貼り付けられている。律子がわざわざ作ってくれたのだろう、兄の仕事の日には凹凸がついていた。
「うん、休みだね」
 常と変わらぬ微笑を浮かべ、水穂がうなずいた。先輩は、と探すまでもなく、頭を軽く叩かれる。痛みはない。この感触だと新聞だろう。
「おう。起きたか」
「あ。おはようございます」
 振り向いて頭を下げる。相変わらず派手な紅い髪は、初めて会ったときよりも長くなり、根元が少し黒くなっていた。
「先輩。頭、プリンになりそうですよ」
「マジか。面倒臭ぇな」
 面倒臭いならいっそ黒髪にしたらどうですか、と言いかけてやめる。目立つ髪と怖い顔、それに似合わない丁寧な接客が、近所で話題になっていることを思い出したのだ。
 一見不良だし実際不良ではあるけれど、何だかんだで人懐こい。兄の仕事振りも手伝って、最近売り上げがいいと律子が言っていた。武君は目立つからいいわねえ、と嬉しそうに話していたから、店長代理としてはやはり喜ばしいのだろう。
 一方の武は、特に気にした風もない。忙しくなった程度の認識らしい。相手側の動きもないためか、バイトばかりしている。今も煙草を吸いながら腰を落ち着け、そのまま新聞を読み始めていた。一緒に住み始めて知ったことだが、彼は意外と新聞を好んで読む。時折顔をしかめて片耳をふさぎ、小さくうるせぇなあ、と呟いている。これも、最近ではよくあること。以前尋ねてみたところ、中でアレスがやかましいのだそうだ。
 平和なのは実にいいことだが、性質を考えれば仕方がない。荒々しい戦争の神からしてみれば、今の状況は不満以外の何者でもないだろうから。
「またアレスさんですか」
「うるせぇンだよ。平和ボケすンな、喧嘩の一つくれぇ買えとかよ。ったく、暴れたくても暴れらンねえのはこっちだって同じだっつンだ」
 煙草をくわえたまま武がぼやいた。暴れたいらしい。バイトと私事は別ということらしかった。まあ、それはいい。要はこちらに危害がなければ問題はないのだ。
「へえ」
 相槌は打っておく。武はそれを見て満足したのか、眉を寄せたまま再び紙面へと意識を戻した。こういうときは、聞いてもらいさえすればとりあえずは安心する。そういうものなのである。
 武の正面に座り、朝食を取る。コーヒーを片手にパンをかじり、兄の聞くニュースを何となく眺めた。いつも通りの光景だ。こんな奇妙な事件に巻き込まれる前と、多少の変化こそあれ変わらない日常。
 帰らなくては。光矢は思う。この穏やかな日常に、無事に戻ってこなくてはならない。甘えているわけにはいかないのだから。
 インターホンが鳴った。武が新聞を持ったまま外に出る。一言二言会話をし、リビングの入り口から顔を出した。
「おい、お嬢さン来てンぞ」
「あ、はい。今行きます」
 慌ててパンを口に詰め込み、コーヒーで流し込んで席を立った。音で気づいたのだろう、水穂が笑って手を挙げる。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「油断すンなよ」
「分かってますよ」
 かばんをつかみ、玄関から飛び出す。控えめにたたずむ那月が、嬉しそうに頭を下げた。
「おはよう、光矢くん」
「おはよ、那月さん」
 彼女の柔らかな髪が、朝日を受けて艶を含んでいる。かすかな風にもなびくのは、一本一本が細いかららしい。それを横目で見やりながら、他愛のない話を重ねていく。
 親しい人間と、当たり前の会話ができる。そうできる環境があるのは、とても幸せなことなのだと――光矢は不意に思うのだった。



 セミの大合唱が降り注ぐ校庭の隅、緑化教室のすぐ隣が弓道場だ。セミは相変わらずやかましいのに、熱を孕んで吹き抜ける風はかすかに秋の気配をにじませていた。
 ぱあん、と紙を突き破る軽快な音がする。那月が凛と背筋を伸ばし、一人で弓を引いている。安土側から見る弓道場は、いつもより格段広く感じられた。
 あれから二週間。那月は光矢の自主練習に付き合ってくれている。朝早くから夕方まで、時折先生が見に来る以外は二人きり。昼は射場で那月お手製の弁当を食べ、あれこれと型について話し合う。時々、他の人たちのことも話題に上る。
 とはいえ、ほとんど兄の水穂の話や、武、美奈世のこと、セレネの容態の話ばかりだった。たまに、本当にごくたまに、豊高やハデスのことを口にする。彼らは那月の心の傷そのものだ。本当なら、二度と会いたくはないだろう。しかし那月は彼らの現在を知り、何とかして元の関係に戻ることを願っているらしかった。
 大切な人と離れ離れになるのは、やっぱり苦しいよ。もし助けられるのなら、何が何でも助けたいと思うもの。
 先日、那月のこぼした一言が忘れられない。なぜだかは分からない。ただ、その一言がやたらと胸に刺さったのだった。
 光矢も既に経験したことがある。忘れもしない。交通事故に巻き込まれて両親が死んだ、あの日のこと。そしてもう一つ……繰り返し夢に見る銀色の娘との別れ。彼女の悲しげな悲鳴が、今もまだ耳に残っている。頭痛はしない。代わりに訪れるのは、小さな胸の痛みだった。
 ぱあん、また音がする。那月の腕はいまや、初心者とは思えぬほどにまで成長していた。これで何本目かになるが、そのほぼ全てが的を射抜いている。そこまで考えて、光矢はようやく自分が何をしに来たのかを思い出した。矢返しに来たのだ。自分の矢がなくなって、那月もそろそろ矢が尽きそうだったから。
「矢返し入るよー」
 声をかけて一歩踏み出す、その眼前に矢が突き立つ。それから那月の悲鳴がかすかに聞こえた。次いで弓を取り落とす、がらがらという鈍い音。血の気の引く感触がやけに鮮明だった。あと一歩速かったら、今頃大怪我をしていたところだろう。
 しまった。入る前に射場を見ておけばよかった。考え事をしながらが一番危ないのだと、以前先輩に注意されていたはずなのに。
「あっ! ご、ごめん! ちゃんと見てなかっ……」
 慌てて那月へかけた言葉は、ひゅ、と不自然に乾いて喉へ押し込まれた。
 那月が射場にへたり込み、頭を抱え込んで震えている。弓は傍らに放り出されていた。弦が切れた様子はないから、怪我はしていないはずだ。
 思い出す。あの廃ビルで、豊高がワイヤーを張り巡らせたときに見た、那月のひどい怯え方を。何かを思い出してしまったのだろうか。思い出させてしまったのだろうか。
「那月さん!」
 芝生を踏みしめ、射場へと駆け戻る。靴を脱ぐのももどかしく、光矢は射場へと駆け込んだ。那月のそばへと膝をつき、華奢な肩に触れる。すごい汗だ。体育着が湿っている。顔も青白い。柔らかな曲線を帯びる顎から、雫が絶え間なく滴り落ちていた。
「那月さん、しっかり、どうしたの」
「う、……」
 那月は苦しげにうめきながら、小さく首を横に振った。左手の指を額に当てている。弓を取り落とした衝撃が未だ残っているのか、そこもかすかに痙攣していた。
「ごめんね、俺、うっかりしてて」
「違う、違うの、光矢くんのせいじゃないの……!」
 しぼり出すような声に、光矢は思わず言葉を切った。乱れた前髪から片方だけのぞいた瞳が、じっと光矢を見つめている。そういえば、初めて目にしたかもしれない。普段からずっと、目元を前髪で隠しているから。吸い込まれそうだと思った。こんなに綺麗な目をしているのに、どうして隠しているのだろう。
 奇妙な懐かしささえ覚えるまなざしだった。胸の奥がちりちりと痛む。この目を知っている。このまなざしを知っている。どこで。どうして。
 頭の中にノイズが走り、軽い目眩がした。光矢もまた小さくうめき、右手の甲で額を押さえる。なめした鹿革が額の汗に貼り付いて気持ち悪い。いつの間にか自分もひどい汗をかいていた。
「光矢くん……?」
「ごめ、ん。何でもない。ちょっと立ちくらみがしただけ」
 適当にごまかして、安心させようと笑いかける。頬が引きつってはいたけれど、とりあえず微笑みを作ることはできたらしかった。那月が安堵したように力を抜く。
「それより、何かあったの?」
 光矢の問いかけに、那月は再度唇を引き結ぶ。一瞬だけ現れた瞳は、もう見えなくなっていた。
「……あの……ごめんね、気を悪くしないで、聞いてほしいの……」
 了承の意を込めてうなずけば、彼女も小さくうなずき返す。細い髪がさらりと揺れ、わずかな風にもたなびくのが分かった。
「……一瞬だけ……光矢くんの、頭に、矢が……矢が、刺さるのが、見えて……! ううん、光矢くんだけじゃないの、……誰か分からない、誰かの頭にも、私の打った矢が……!」
 続きは音にならなかった。パニックを起こしかけている那月を落ち着かせるべく、背中をそっと撫でてやる。だが、そうしているはずの光矢本人もまた混乱していた。頭が殴られたような気がした。再び目眩が光矢の意識をかき乱す。
 その話を聞いたことがある。いや、体感したことがある。違う、体感なんてしたことはない。光矢は生きている。頭に矢が刺さった経験など、あるはずがない。けれど、それが夢の中ならばどうだ。もしくは――遠い遠い過去に経験したことだとしたら。
「……那月さん。俺もね、逆だけど、夢を見るんだ。誰かに、頭を……矢で射抜かれる、夢」
 セミの声がうるさい。かき消されそうになる自分の声に若干の苛立ちを覚えながら、光矢は必死に言葉を探した。
「エンデュミオンがいきなり出てきて、引っ込んでから……ずっと繰り返し、おんなじ夢を見る。誰かと一緒に狩りをしていて、場面が変わって……その誰かが矢を打って、……その矢が頭に刺さっちまうっていう」
 情けなく震える言葉の羅列を、那月は一生懸命聞いてくれた。それから再び唇を引き結び、
「ねえ、光矢くん……セレネさんに、聞いてみようよ」
 一つの案を口にした。
「え?」
「セレネさんなら、何か分かるかもしれない。何かつながりがあるのかもしれないけど……それ以外のことは、私何も分からないから……」
 それは光矢も同じだったし、まさに今朝考えていたことだった。繰り返される夢の内容以外に情報はない。散々夢に出てきたエンデュミオンの過去は、あれから嘘のように途切れてしまった。セレネに会って満足してしまったのか、魂だけの不安定な状態では交信が難しいのか、はたまたその両方なのか。光矢には知る術がない。しかし、突如浮上してきた夢の主の正体だけは、やはりどうしても突き止めておきたかった。
「よし、セレネのところに行こう。気分転換も兼ねて、さ」
 一拍の間の後、那月がかすかに首肯する。青ざめていた頬は、ようやく赤みを取り戻し始めていた。
「大丈夫かな」
「うん、平気」
「よかった」
 今度はきちんと微笑めた。立ち上がり、那月へと手を差し伸べる。那月はどこかきょとんとした様子で、光矢の顔と手を見比べている。
「つかまって」
 見る見るうちに真っ赤になる那月が、何となく可愛かった。沈黙をセミの鳴き声が埋め尽くす。風が吹いて脇を通り過ぎていく。
「……ありがとう」
 その風がさらっていく前に、那月の声を聞き取れた。遠慮がちに重ねられる手のひらを握る。華奢で小さなその感触が、胸の奥に痛みを伴って走り抜けた。

(2010.3.21)



其ノ3「戦臨者(下)」

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