断絶した回路
-No.1-


 地上三十階のボタンを押してから、豊高はハデスに声をかける。
「今日はどんなことやるんだろ。楽しみだな」
 扉が閉まり、上へ向けて動き出した。
「理解できんな」
 流れていく夜景を眺めながら、ハデスは言う。
「楽しいだの楽しくないだの、関係あるのか」
 視線を投げられて、豊高は軽く肩をすくめた。
「ちっとは関係あるだろ。気分が乗らなけりゃ、やる気も出ねぇし」
「与えられたことを、与えられた分だけこなせばいい」
 間をおかずに返された言葉は、動く密室によく響いた。
「おいおーい、そんなつまんねぇこと言うなって」
「事実を言ったまでだ」
 にこりともせず、ハデスが答える。豊高は小さく息をつき、一緒に呟きも吐き出す。
「……お前、そればっかだな」
 聞いているのかいないのか、ハデスはもうガラス越しの外に目を戻してしまっていた。
 それきり会話が途絶える。地上十五階を過ぎた。
 沈黙に耐え切れず、豊高は話題を転換する。
「こないだの勝負、どっちが勝ったんだっけ」
「俺だ。お前が三、俺が四」
「その前は?」
「お前が四、俺が六」
 連敗かよ、と豊高は胸中でうめく。今日で挽回しなければ、連敗記録更新となってしまう。
「……何か、いつも僅差で負けてるよな。ずりぃ」
 ハデスは再び視線だけを豊高に向け、何も言わずに戻した。つられて豊高も目をやる。
 人工の灯が転々と黒地に敷かれ、宝石のように輝いている。夜中の一時ではあるが、明るい部分は明るいものだ。この光景は豊高に、模型の街を連想させた。
 模型の街で行われる、極秘のハンティング・ゲーム。最高のスリルと高揚感を与えてくれる、企業秘密の催し物。豊高にとっては娯楽であり、生きがいでもあった。
 獲物を追いかける瞬間が、追い詰める瞬間が、仕留める瞬間が、逆に追い詰められる瞬間が、さらに体を突き動かすのだ。
 だからこそ、豊高はゲームをやめられない。やめるという選択肢さえ、頭には無い。ただ繰り返しゲームに参加して楽しみさえすればいい。無愛想だが最高の相棒と共に、ゲームをクリアできさえすれば、それで満足だった。
 地上三十階、エレベーターが止まる。先に立とうとする背後に、突然声が投げられた。
「ずるいと思うなら――」
「うわっ! びっくりした、話すときは話すって宣言してからにしてくれよ! 心臓止まるかと思った」
 大げさに胸を押さえてよろめく。が、ハデスの表情に変化は無い。
「お前しか相手がいないだろうが」
「いや、そうなんだけどさぁ……心の準備が」
「ずるいと思うなら」
 豊高の主張を無視し、ハデスは途切れた台詞を繋ぎなおした。
「もっと努力をしてみせろ。お前の不規則な動きは、俺の読みを凌駕するから」
 それだけを言い置き、ハデスは豊高の脇をすり抜けて出て行った。背中を呆然と見送ってから、閉じかける扉に我に返る。
「それって、褒め言葉でいいんだよなっ? おーい、ハデスー!」
 振り返りすらしない相棒の姿を、豊高は慌てて追いかけた。

 乱れる足音を聞きながら、ハデスは廊下の時計へ目をやった。二十五時一分四十三秒、遅刻だ。足を速めて社長室に急ぐ。
 上質な木の扉を二度たたき、声をかけた。
「ボス」
 少しの間の後、どうぞ、と返答が返る。重い戸を押し開け、中に体を滑り込ませる。空調が効いている。不自然に冷えた空気が皮膚を撫でていった。
「待っていたよ、依頼だ」
 椅子のかすかに軋む音がする。体を反転させて目を細める青年に向けて、軽く頭を下げた。
「ちーっす。ボス、先代お元気っすか?」
 ほぼ同時に豊高が入ってきた。のんきに手を振りながら顔を覗かせる。
「ああ、父は相変わらずだよ」
「そりゃよかった。しかし大変っすね、若いのに。ああ、でも俺らと違って若いから大丈夫か」
 若い社長は、柔和な顔に苦笑を浮かべた。
「君たちはまだ二十歳にもなっていないだろう? 僕は少なくとも、君たちよりも五つは年上だ」
「でも肉体労働が主なんで、体はガッタガタなんすよー」
 肩をすくめて両手を広げ、豊高がおどけてみせる。社長はおどける豊高の様子に、苦笑を再び微笑に変えた。
「悪いね、そんな体に鞭打つような真似だが、少し頼むよ。標的はある会社の社長、通常は護衛を十人連れている」
「ええ、十一人ですかぁ」
 豊高の声には、明らかに不満が見える。
「三分で片付いちまうよ。な、ハデス」
「余計なことは喋るな」
 向けられた矛先をたたき落して、ハデスは社長に問う。
「ボス。それだけの地位を持つ人間となると、証拠潰しも難しいのでは」
「心配しなくてもいい。いつものようにやってみせる。君たちもいつもの通り、存分に暴れてくれればいいさ。場所はここで」
「帰還予定時刻は二十八時といたしますが、それで」
「ああ。頼む」
 渡された紙片は、豊高が受け取る。ハデスも了承の意を込めて首肯した。
 瞬間、耳にある音が飛び込んできた。機械の電源を入れるのにも似た音、聞き取れるか否かほどである。首を巡らせて、その発信源を探す。再び音がした。
「ボス、失礼します」
 歩み寄り、手を伸ばす。真紅のネクタイに留まるピンを外し、円形の飾りを指でねじり取る。そのまま床に落として踏み砕いた。
 実に巧妙な技術だ。一目見ただけでは分からないだろう。割れて散らばる破片に、豊高はようやく何が起きたのか理解したらしかった。
「げっ……盗聴器!」
 邪魔が入ることは一目瞭然だった。ならば、邪魔される前に片付ける。
「ボス。万が一に帰還が遅れてしまった場合は、どうぞご容赦ください。妨害した者も、出来うる限り始末してまいります」
 再び一礼して、ハデスは部屋を後にした。
「ハデスっ! おい、待てってば!」
 力いっぱい腕を引かれる。それを無言で払い、歩きながら話すよう示した。
「あ……悪い。あのよ」
 豊高は隣に並び、歯切れ悪く切り出した。
「その……さっきのあれ。ボスのピンに仕掛けられてたあれさ……あんなところに堂々と仕掛けられる奴って、まさか」
 言いたいことは理解できる。だが今は、それに構っている時間は無い。今自分たちに求められているのは、与えられたものを確実に遂行することなのだ。
「余計なことは考えるな」
 ハデスは冷然と言い放つ。
「相手が何であろうが、妨害するものはすべて敵だ。敵は排除する、それだけの話だろうが」
 声は冷えた窓ガラスに当たり、余韻を残して砕けた。

 小さなイヤホンの向こう側で、会話は進んでいく。頭上に別の人間がいることすら気づかずに。
 屋上は風が強い。下から吹き上げる空気の流れに、黒皮のコートの裾と髪がなぶられる。視界に入る紅い髪を乱暴にかきあげて、彼はわずかに唇を歪めた。
 某社の社長は背が低い。髪も薄く、太っている。せっかちで、声は高い。お決まりのルートを通って帰らないと、途端に機嫌が悪くなる。護衛は十人、それぞれが空手、柔道の有段者であり、更に特別な訓練を受けている。
 地図はもう確認済み。ルートをシミュレートしてから、意識を耳に戻す。もれてくる不満げな物言いに、思わず嗤った。
「三分で十一人、ねぇ……三分間に十一人しかやれねぇのかよ。大した自信だぜ」
 ポケットから伸びるコードを指に絡める。風は声を巻き上げて、かき消した。
「俺なら一分でやれる」
 呟いた時、彼はふとある考えを思いついた。もしこの依頼を邪魔したならば、どうなるだろう。
 そもそもここに来たのは情報収集のためだったが、それだけでは少々つまらない。丁度いい。最近は面白いこともなく、退屈していたところだ。
 鼓膜に破壊音が刺さる。気づかれたらしい。イヤホンを外してポケットに突っ込んだ。
 まぁ、いい。彼は口の端をつりあげる。これに気づかなければ張り合いが無い。この組織のトップを争う実力者ならば、退屈しのぎにはなるだろう。
 強風で乾いた唇を舐めて、彼は呟いた。
「さァ、狩りの時間だ」
 硬い床を蹴り上げ、非常用の階段を飛ぶように駆け下りる。
「潰してやるよ。お前らのちゃちぃ『命令』をよ」
 うつぶせに転がる警備員の上を通り過ぎ、呟きとかすかな嗤いを残して、彼の姿はビルの林に消えた。

(2006.9.20脱稿 2008.1.16 細部訂正)



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