序-Prolog- 


 月が、出ている。白く輝く天体は、静寂の支配するこの路地裏にまで、儚い光を投げかけている。自身は熱を持たない、だからあのような冷たさを帯びるのか。少年は一人、ふと思う。
 積み上げられた鉄屑の上に腰をかけ、少年は空を仰いでいる。足場には烟(たばこ)の吸殻、もう数えることはやめていた。月光に照る鈍い金髪は、色こそ生来のものではないが、若い獅子のたてがみのごとく彼を雄雄しく見せていた――もっとも、人は彼を虎と呼ぶし、事実李虎牙(リ フーヤ)という名であるから、獅子に例えるのはいささか不適切ではあるだろう。
 ともあれ虎の名を持つ少年は、月の下で依然思考にふけっていた。生ぬるい風が紙烟の灰をさらっていく。長く伸び、大雑把に結んだ髪を撫でていく。
 今宵はどうも胸が騒ぐ。少年はわずかに両目をすがめ、息を吐いた。月は煙に一度隠れ、柔らかに揺れながら再び姿を現す。周囲は蒼味を帯びた黒が溶けていた。あの日のようだと、少年は眉を寄せて一人ごちる。
 滑らかな蒼い闇、冴え冴えとした白い月。思い出すのは紅の色、反射してぎらつく爪と牙、獣の雄叫びと、横たわる両親の体。少年はもう、父と母の顔を覚えてはいない。この記憶が焼きついたのは、少年がまだ三つの頃である。
 あれから十と四年、薄れゆくはずのそれを鮮やかに彩っているのは、月と闇、蒼と白、細い影と、紅。
 遠い過去に残されたこの影は一体誰なのか。思い出せずに今までを過ごし、あの夜と似た日はもどかしさを覚えた。今宵もまた、その繰り返し。苛立たしさに、少年は小さく舌打ちする。音は鉄に当たり、空気を震わせた。
「喧嘩屋の李虎牙だな」
 新たな烟に火をつけたとき、太い男の声がした。
「『上海の虎』のこと言ってんなら、お前の目は節穴だな」
 少年は空から地上へ視線を移す。やたらに眼をぎらつかせた男が十ばかり、こちらをにらみつけている。
「喧嘩屋の李虎牙だな」
 別の男ががなりたてた。
「目の前にいるだろが」
 吸って、吐く。一瞬の火気が喉を焼き、空気に消えた。
「喧嘩屋の李虎牙だな」
 一番大柄な男が言った。一歩前へと進み出て、
「ならば妖狩(ようしゅ)を知っているな」
 風の噂に聞く一族の名称を口にした。世は異形の生き物を妖と呼び、妖魔と呼ぶが、それらを狩って人間を守護する者たちを妖狩という。噂に尾ひれこそつくものの、実在することだけは確かである。
「会ったこたぁねぇがな」
「嘘をつくな」
 突如、男が声を荒げた。
「お前から、あの男のにおいがする」
「あの男のにおいがする」
「あの男はどこだ」
 気づけば男たちは目前にまで迫っていた。ぬらぬらと光る眼球は、死人のように澱んでいる。四方から腕が伸ばされた。うち一つが少年の肩をつかむ。とっさに引き剥がそうと手首を握り締めた。
 男が悲鳴をあげて飛び退いた。つかんだ箇所が無残に崩れ、男の手が地へと落ちる。
「貴様、妖狩か!」
「妖狩の一族か」
「もしやこやつがあの男か」
 男たちの間に走るのは、少年にも察知できるほどに明確な殺気だった。少年は腰をあげ、短くなった紙筒を足下に投げ捨てる。
「ならば殺すべきだ」
「殺すべきだ」
「危険すぎる」
 音がした。何かが裂ける、音がした。額からは角が生え、肉はいびつに盛り上がり、爪は伸び、口は広がり、人とは異なる体形へと変化していく。月の下で不気味に光沢を放つ皮膚には血液が付着し、一部はなおはぜ割れている。人間の残滓が所々に貼り付いて、嫌な臭いを放っていた。
 異形の者はこうして、弱い生き物を狩る。そして人間は、狩られる側の弱い生き物だ。そんなことは、あちこちに転がる死体を見れば理解できる。
 しかし少年は身構えた。強い相手と戦うことは嫌いではない。それに、ただ黙って狩られるのは面白くないと思ったのだ。
 足下に捨てた烟の火が、消える。と同時に、少年が異形たちへと躍りかかる。
「その喉、喰ろうてくれるわ」
 だが次の瞬間、背中から力いっぱいたたきつけられていた。鉄の足場がひしゃげ、少年の喉は異形の手によって締め付けられる。気管が圧迫され、呼吸もままならない。倒れた際に頭を打ったのか、手足が重く痺れていた。
 あの時両親が死んだのは、妖魔の手にかかったからだ。遠のきかける意識の下で、少年はふとそんなことを思い出す。
 目の前ではらわたを引きずり出され喰われていく、その様を何も出来ずに眺めていた。今の自分も、やがて同じように殺されるのだろうか。
 首の骨が軋む。異形のモノが口を歪める。牙が覗いた。力が一層込められる。このまま首をへし折られるか。なぜかとても胸が騒ぐ。記憶を揺さぶるように、騒ぐ。
 刹那。
「邪魔だ」
 耳鳴りを裂いて、凍る音が滑り込んできた。
 妖の手が緩む、次いで真紅の花が散る。首が飛んだ。血の吹き上がる前に、誰ぞの足が巨体を蹴り転がす。
 少年は息を飲む。男は――そう、それはまだ若い男であった――白磁の面にかかる紅の飛沫を拭いすらせず、乱れた長髪を風に弄らせて佇んでいた。
 月を背に、瞳は沈む滑らかな蒼。痩せた身には女物の旗袍(チーパオ)をまとい、時折露店でさばかれる日本刀を手にしている。が、刀身は鈍い漆黒を帯び、明らかに売られているものとは異なった。粘つく紅が鋭い線に沿って落ちていく。
 心臓が妖しく波打つのを、少年は抑えることができなかった。
 この男を、知っている。
「あ、あんた……」
 呼びかけた直後、肺に酸素が流れ込む。急激なその勢いにむせ、咳き込んだ。再度言葉を発するため、むせながら顔をあげる。
 視界に映るのは、妖魔の群れに飛び込んでいく男の後姿であった。体重を感じさせぬ軽い動きは、場違いなほどに優雅だ。
 低く言葉が紡がれる。細い指先が翻る。何かが異形を刺し貫く。低く言葉が繋がれる。腕が払われる。胴が二つに分断される。低く言葉が落とされる。髪が吹き散らされる。相手の肉がこそげ落ちる。濃い血の臭いがあたりを満たす。そして静寂が舞い降りる。
 息が詰まる。これが恐怖なのか畏怖なのか、あるいは懐かしさなのか、少年には分からなかった。
 男の頬を異形の体液が伝い、顎から糸を引いて落ちていく。
「まだいたのか」
 抑揚の無い声が投げられた。瞳に揺らぐ蒼炎は、月光の加減によって深く、淡く、そのいでたちを変えていく。
「小僧、邪魔だ。去ね」
 この言葉を、知っている。月、蒼、闇、紅も血のにおいも眼差しも、全て知っている。
 少年は立ち上がる。男は思ったよりもずっと細く、小柄であった。そして少年の記憶の中と、何ひとつ変わっていなかった。両親の死体の向こう側にあった、あの姿のままであった。
「あんた……、あんたのこと、知っている。俺のことを、助けてくれた人だろ」
「知らぬな」
 青年は冷たく吐き捨てると、しなやかな身のこなしできびすを返す。その腕を、少年は思わず捕らえていた。
「待ってくれ。あんたに、恩を返したい。俺はあんたに二回も救われた。今度は俺があんたに恩を返す番だ」
「必要ない。邪魔だ、離せ」
 感情をにじませぬまま、男は言う。しかし少年は離さない。
「嫌だ。俺はあんたに恩返しがしたい」
「必要ない」
「俺の気がすまねぇんだよ。俺がこうして生きていられるのは、あんたが助けてくれたからだ。だから恩返ししたい。それじゃ駄目か?」
 相手の腕に力がこもる。振りほどこうとしているのが分かった。
「貴様を助けたわけではない。俺は俺の本能のままに狩りをしただけだ」
「それでも、結果として俺は助かってるだろ」
 なお抵抗を試みる男に、少年は苛立ちを覚えた。逃げられないように引き寄せ、両肩をつかむ。しばらくの間、双方とも無言のままでにらみ合う。
 やがて男は視線をそらし、低く吐き捨てる。
「……勝手にするがいい」
 それは折れたというよりも、むしろ全てを放棄した態度であった。が、少年はそれでも満足だった。
「よし。俺は李虎牙。李白の李で、名前は虎の牙って書く。あんたの名前は?」
 再三促しても男の口は開かなかったが、十度ばかり繰り返した後にようやく、気だるげな答えが返る。
「……宵黒幻(シャオ ヘイファン)。通宵(夜通し)の宵、黒暗(くらやみ)の黒、虚幻の幻と書く」
 少年の手を振り解き、男は再度身を返す。その隣に並びつつ、少年は彼へ笑いかけた。
「恩を返すまで絶対に離れないからな、覚悟しろよ」
「……勝手にするがいい」
 男は……宵黒幻は、変わらぬ冷えた口調で呟いた。

 梦幻のごとく現れた男に、虎の名を持つ少年は出会った。何が待ち受けているとも知らず、少年はただ男の隣を歩き。男はただ、そこに存在する。

(投稿日:2007.7.14 最終訂正:2008.3.25)

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