一-yi- 


 寒い。虎牙は薄らと目を開いた。限定された視界を、闇が少しずつ侵食し始めている。額に巻きつけた紅の圍巾(スカーフ)を手で押し上げ、首だけを巡らせる。
 夜になる。それは分かったが、ここがどこなのかが把握できない。
「……ここ、どこだっけ」
「賓館(ホテル)だ」
 独り言に答えが返った。飛び起きて、声の方角をにらむ。窓の縁にわだかまる影が一つ、つい昨夜に再会したばかりの男であった。
 やはり、若い。あれから十年以上も経っているというのに、まるで年を取っていないかのようだ。にも関わらず、放つ空気は外見に全くそぐわない。しなやかに動く体躯は、細いというよりも痩せぎすで、いっそ痛々しかった。解けて流れた髪は窓枠から零れ落ち、長い袖から覗く指に絡みついている。顔立ちは端整だが、蒼白い肌と相まってか、逆に作り物めいて見えた。
 突如、虎牙の体を何かが走り抜けていく。氷の矢に貫かれたような、重く冷たい衝撃だった。
 無機質な眼差しが向けられている。温度も感情も一切払拭された瞳が、こちらを映していた。
 目をそらすことができない。しばしの間、見つめあう。
 妖狩、宵黒幻。妖狩とは読んで字の如く、妖を狩り人を守る、そのためだけに生きる一族だという。ならばどうしてこの男は、凍てついた目をしているのだ。
「……あんた、本当に『妖狩』なのか?」
 矛盾さえ感じて、疑問を相手に投げかける。
「それがどうした」
 その答えは、彼が何度となく同じ問いを重ねられてきたという証拠であった。と同時に、彼が彼自身であるという肯定に他ならなかった。
 次の句が継げず、虎牙は黙り込む。息が詰まりそうだった。しかし沈黙を打破する術を持たないこともまた、事実。過ぎる刻だけが無遠慮に、静まり返る空気を覆っていく。
 やがて街に、完全な昏黒が舞い降りた。外から漏れる淡い光は、満月のものでないとはいえ、昨日と何ら大差ない。歩くことにも困らないだろう。
 黒幻が音も無く立ち上がる。つられて虎牙も、座り込んでいた床から腰を浮かす。
「仕事か? 俺も行く」
 闇と同化する男は、一瞥すらくれず吐き捨てた。
「足手まといだ。邪魔になるような付属品はいらぬ」
 虎牙にとって、この台詞は十分侮辱に値するものであった。乱暴に腕をつかみ、強引に引き止める。布越しではあるが、骨の感触がやけに生々しい。
「付属品だと? てめぇ、この俺を誰だと思ってやがる! 『上海の虎』李虎牙様だぞ!」
 腕には絶対の自信があった。齢十七にして、上海の裏側に広がる世界で名を知られている。それは己の腕一本で身を立ててきた虎牙の誇りであり、また力で全てが決まるこの場所での確固たる地位でもあった。
「それがどうした。よもや、たかだかそれしきの権威で俺を支配できるとでも思ったか」
 黒幻は振り払いもせず、虎牙の誇りを一蹴する。尖った顎をかすかに持ち上げ、嘲りの言葉を口にした。
「――愚の骨頂、だな」
 脳の奥で、ぶつりと何かが切れる音がした。足を払い、捉えた腕を持ちあげて引き倒す。黒幻が地板(ゆか)に背中を打ち付ける、硬い衝撃が腹に響いた。
「もう一度言ってみろ、てめぇ! この俺を侮辱するとどうなるか、思い知らせてやる!」
 怒りに任せて腕をひねりあげる。
「殺すのか」
 抑揚の無い声が、これから目の前で起こるだろう出来事を紡ぐ。特に後悔するでもなく、悲嘆するでもなく、逆上するでもなく、淡々と、確認するように。
 黒幻の腕がぶれた。否、虎牙の手が震えているのだ。拘束し、まさに折らんとしていた手が、無様に揺れている。
「俺を、殺すか」
 黒幻は再度、繰り返す。震えは意に反して止まらない。頭の奥底が警鐘を鳴らしている。
 これ以上は駄目だ。手を出すな――この男に、殺される。
 本能からの警告に負け、腕を解放する。彼は服についた埃を払い、再び戸口に向かった。その背中を、追う。
「ついてくるな」
「勝手についていって、何が悪いんだよ」
 一定の距離を保ったまま、虎牙は先行く姿に苛立ちをぶつける。
「勝手にしろって言ったのはお前だろ。だから勝手にさせろよ、お前にゃ関係ねぇだろうが」
 黒幻が足を止め、肩越しにこちらを見やった。眺めているだけの先ほどは違い、明確な意志が感じ取れる。
 が、やはり表情というには、あまりにも希薄すぎた。あえて人間のものに当てはめるならば、嫌悪のそれに似ている。右目をわずかにすがめ、眉を寄せて、彼は小さく息を漏らした。
「勝手に……するがいい」



 月明かりの下にありながら、時折見失いそうになる。目の前を歩む男の気配は曖昧で、ふと気をそらせば消えてしまうのではないかと、いらぬ危惧さえ抱かせた。
「どこ行くんだよ?」
 黒幻は答えない。歩の速度を緩めるでもなく、塀と建物に囲まれた小汚い路地を進んでいく。
 何者をも飲み込んでしまいそうな夜半の都市。煌く霓虹燈(ネオンサイン)は表面の世界だけだ。整えられた街路を奥へと逸れれば、秩序は腐り果て、狂気も暴力も一緒くたになって渦巻いている混沌の街へと変化する。
 表裏を使い分ける魔の都、上海。表のきらびやかな装いは飾りに過ぎない。一たび表皮を剥ぎ取れば、血のにおいが空気を満たし、人を食う妖魔が徘徊する都なのだ。
 妖魔は既に、裏側では居て当たり前になっている。人気のない場所から無尽蔵に湧いてくるというが、実際に確認した者はいない。使い古された言葉を用いるのならば、侵略者だろうか。湧いてきては殺戮を求めて彷徨い、手当たり次第に食い荒らす。力の無いものは喰われ、無造作に放置される。力のある無謀なものもまた、同じ末路を辿る。力を持ち、わずかに知恵のあるものだけが、妖魔をやり過ごして今を生きている。
 弱肉強食の世界――それこそが、虎牙の生まれ育った故郷であった。黒き幻が見せる記憶にさいなまれながら、人を疑い、争って奪いあるいは奪われ、生きてきた場所であった。
 誰かのために働く前に、誰かのために生きる前に、手前の命と身を守れ。それが「上海」の常識だった。
 だからこそ人の興味を引くのか。気まぐれで抱いた娼婦から、あるいはいつぞやに組んだ男から、あるいは仕事を持ってくる爺さんから、『妖狩』宵黒幻の噂は留まるところを知らない。
 虎牙は今一度、骨ばった肩口を見やる。黒絹の旗袍は、鮮やかな大輪の花が染め付けられていた。が、よく見れば裾はぼろぼろに破れ、花にも赤黒い染みが残っている。今まで彼が斬ってきた妖魔の体液か。だとすれば、身にまとう絹糸には、花に付着したそれよりもはるかに多くの血が染み付いているに違いない。もっとも、妖を狩り、自らが盾となればそうならざるを得ないだろうが。
 人の盾になる。他人のために、生きる。随分と余裕なものだと、虎牙は胸中で一人ごちる。誰かを守るだけの力が自分には無い。分かっているからこその僻みを込めて、言う。
「今日も人間様を守るために奔走する、ねぇ。ご苦労なこった」
 予想はしていたが、案の定反応は無い。腹いせに舌打ちをしてやるも、聞いてすらいないようだった。
 不自然に、空気が動いた。ばらばらと現れるのは人影である。数は六。いずれも喧嘩慣れしていそうな、柄の悪い連中だった。
「おいそこの、いい着物着てるじゃねぇか」
「命が惜しくなけりゃ、それと有り金全部置いていきな」
 陳腐な脅し文句に、虎牙は呆れて物も言えなかった。相手も虎牙には気づいていない。視線は目前の黒幻に向けられている。武器を持っているかもしれないが、その場合は姿を現すより奇襲をかけたほうが早い。喧嘩に慣れてはいるが、そこから今一歩踏み出せていない奴らである。
 こういう輩は、適当に痛めつけて追い払うのが一番いい。黒幻を押しのけて前へ出ようと、足を踏み出した。
 生温かい風が頬を撫でた直後、並んでいた男たちが倒れた。ある者は胴体を上下に分断され、ある者は頸から血しぶきをあげ、ある者は肩から腹までを深くえぐられている。呻き声も、悲鳴すら聞こえなかった。
 妖魔が襲ってきたのかと思うたが、そんな気配はどこにもない。今この場にいるのは自分、その他にはさっきの男たちと、あと一人。
 漆黒の刃が、視界の端に映った。粘つく液体が鋭い刀身を伝い落ちる。昨夜と同じ光景だ。異なるのは、相手が異形のものでないことだけ。
 忘れていた――否、もう慣れて感じなくなっていたはずの恐怖が押し寄せてくる。足がすくんだ。筋肉が強張り痙攣した。舌は喉に張り付いている。指の先は冷えて感覚がない。染み広がる血に体を浸した男たちは、もはや微塵も動かない。
 死骸を蹴り飛ばして道を開け、黒幻は歩き始めた。白々と照らされた道に、小さな足跡が残される。濃い鉄錆の臭いに、胃の奥から酸味がこみ上げてくる。反射的に口元を押さえ、歯を食いしばって何とか耐えた。
 妖狩。人間を守り、人間のために盾となる一族。守ることにより、己の存在意義を確立している一族。麻痺した脳が、噂の一文を反芻した。
 硬直した足を何とか引きずり、膠着する視線を無理やり剥がして、虎牙は黒幻の腕を捉える。
「お、まえ……今の、人間じゃねぇか……!」
 ひねり出した言葉は、情けないほどにかすれていた。
「あぁ、そうだな」
 返された言葉は、恐ろしいほどに平坦だった。
「お前、自分が何やったか分かってんのかよ!? 殺す必要なんてなかったじゃねぇか!!」
 思わず声を荒げ、胸倉をつかむ。抵抗はない。薄ら寒さすら感じる虚ろな瞳が、虎牙をひたと見据えているだけである。
「邪魔だから斬った。だからどうした」
「人間を……人間を守るのが、お前の仕事なんだろ!? おかしいじゃねぇか、殺すなんてよ!」
「そんなものは、貴様ら人間の勝手な解釈に過ぎん」
 絶句する虎牙を一瞥し、黒幻はわずかに目を細めた。淡々と並べ立てながら、虎牙の手を払う。
「殺される前に殺さねば、殺される。殺す相手が人か異形か、たかがそれだけの違いではないか」
「……冗談じゃ、ねぇ」
 腹の底から息を絞り、乱暴に薄い体を突き飛ばした。黒幻は二三歩よろめいたが、倒れることはなかった。
「あいつら、普通の人間だったじゃねぇか! 妖魔と何にも関係なかっただろうが!!」
「そんなことは一目見れば分かる」
 対する黒幻は、表情を変えぬまま返した。
「解せんな。何をそうも怒る。斬ればどちらも唯の肉塊になる、殺せばどちらも同じではないか」
 ふつふつと怒りが湧いてくる。一体この男は何を言っている。
 侵略者を排除するのは、もはや仕方のないことである。自らの身を守らねば、生きていくことはできない。殺さなければ殺される。そこまでは、不本意ながら黒幻の言うとおりだ。
 しかし、だからと言って関係の無いものまで巻き込むのはおかしいではないか。ましてや先ほどの相手は、妖魔でも何でもない、ただの人間だったというのに。
 無駄に相手の命を奪っても、意味のあることなんて一つもないではないか――虎牙は胸中に渦巻く怒りを抑えきれず、激昂のままに声を張る。
「そういうことを聞いてるんじゃねぇ、殺す必要のない人間を殺して何になるって言うんだ! ふざけるな、俺ぁ意味もねぇ殺しをすることだけは、絶対に許せねぇんだよッ!!」
 必要のない殺しはしない。虎牙を育ててくれた男の信条でもあり、虎牙があるときを境に立てた絶対の誓いでもある。他人に強要するつもりはない。しかし、例え他人事であったとしても、やはりどうしても許せないのだ。
「口先だけで言うならば簡単だ、それこそ妖魔にだってできる」
 投げ返される黒幻の声は、あくまでも冷たい。凍りついた音は、嫌味なほどによく通る。
「くだらぬ戯言を並べる暇があるのならば、さっさと俺の前から消えろ」
 ただ無造作に、無差別に生命を屠るこの男が、自分の生命を繋いだ恩人。こんなろくでもない男が、自分を助けた恩人。揺らがぬ事実が余計に虎牙を苛立たせる。
 生憎と、彼の自分勝手な言葉を聞く気にはなれなかった。煮えくり返るはらわたを抱えたまま、虎牙は再度黒幻について歩く。歩きながら、虎牙は前を行く小さな影へ怒鳴りつけた。
「てめぇの恩返しはその後だ!! 覚悟してやがれよ、宵黒幻!!」
 返事はやはり、返らなかった。

(投稿日:2007.7.14 最終訂正:2008.3.25)

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