了-epilogue-
逃げる影、追う影。廃墟となった建物の森に、隠れ現れる。逃げる者は異形、追う者は獣の姿。見事な銀の体躯を翻しながら、狼の形をしたそれは異形の者を追いたてる。 駆けながら、狼は鋭く声をあげた。何かを知らせるようなその音に、異形の者は怯え、逃げる速度を上げる。 切迫した空気に、指笛の音が混じった。細いが確かなそれは、追う獣に作用する。狼は姿を消した。異形の者が気を緩める。 突如その身が二つに裂けた。虎の牙にかかったがごとく、成す術もなく割られた胴が、冷たい瀝青へと転がり動かなくなる。 死体の前に佇む若者が、軽く己の腕を振るう。袖は血に濡れているが、肌は依然として綺麗なままだ。無造作に束ねた髪は腰に垂れ、わずかな風になぶられていた。 「銀狗(インゴウ)」 ゆるい男中音(バリトン)が何者かの名を呼ぶ。銀の狼が若者の足下に座り込み、せわしなく尾を揺らした。白銀色の毛並みは、首の周囲だけが鋼のごとき漆黒だった。 「十年、だ」 それを確認してから、若者は呟く。 「長かった。俺は、強くなったか」 狼は嬉しげに一つ吠え、人間の少年の声で答えた。 『虎牙は強くなった! ここいらで一番だぞ!』 狼は、彼が初めて呼び出した獣だった。狼は彼を主とは呼ばず、また彼も狼に主と呼ばせなかった。それほどまでに、付き合いが長かった。 「そうか」 若者は薄く笑った。拳を握り締め、磨きぬかれた碧海を振り仰ぐ。冴える光は温度を持たず、あの男の冴えた眼差しを思い起こさせる。 見事な満月が、深い蒼にその体を浸していた。はるか昔――彼が幼子だった頃と全く同じ、美しい月夜だった。 視線を落とすと、すぐ先に金色の目をした黒猫がいた。一筋白い筋が入った背には、翼だけが艶やかに紅い鴉がとまっている。 「ご苦労だ、黒猫(ヘイマオ)。どうだった」 『間違いなかったみたいよ。紅鴉(ホンヤー)が見てきたって』 尻尾を優雅に揺らしながら、猫は女の声でそう言った。 『正確に言えば、見てきたのは私ではない。私は金蛇(ジンシェ)を運んだだけだ』 毛皮に包まれた背にいた鴉は、青年の声で猫の言葉を受ける。彼の細い足からは、金の鱗をした蛇が若者のほうを向いて鎌首をもたげていた。 『主様。宵黒幻様と思しき人物が、日本にいらっしゃるのを確認いたしました』 ちろちろと舌を出し、蛇は少女の声音で告げた。 「そうか。ご苦労だった。十分に休め、しばらくは俺一人でも何とかなる」 軽く手をかざすと、獣たちは皆姿を消した。 胸もとに下げた金属の板が、ちゃりとかすかな声を立てた。それを指で撫でてから、若者は思う。 今度こそ、あの背中に追いつけるのだろうか。今度こそ、あのときの誓いが果たせるのだろうか。 「……無事でいてくれよ、黒幻――」 若者は天へ向けて呟くと、月影も鮮やかな夜の街へと消えていった。 * 人気のない道の途中、男が身を引きずるようにして歩いている。左腕を押さえ、息を切らし、彼の通った後にはおびただしい血の跡が残された。傷口からは、紅に混じって白いものが覗いている。 「しくじった……」 荒い息の下で呟く男に、答える者は誰もいない。 やがて男は体を折った。傷を負っているのは腕だけではない。胸もとにも深い裂傷が走っている。彼が座り込むと同時に、止まらない血が瀝青を汚した。 「死ぬ、か」 塀へ背を預け、彼は小さく一人ごちる。特に悲嘆するでもなく、絶望するでもなく、ただ事実を確認するために、ぽつりと声を落とす。 「俺は、死ぬのだな」 吐息に紛れる音を、冷たい空気が砕いていく。それを覆うばかりに起こる叫びは、人間の断末魔によく似ていた。 「妖魔が……もう、逃げられぬな」 男はわずかに苦笑を混ぜ、再度呟いた。力なく四肢を投げ出し、迫り来る気配をただ受け止めている。血を失ってか、彼の頬はもはや紙のように白い。黒く潰れた大楼の陰から光が差し、男の眼を蒼く蒼く染め上げる。 「悔いることが許されるならば……」 光の源を見やりながら、彼は小さく言葉を零した。闇から抜け出る異形たちが、男の虚ろな瞳に映り込む。妖は歓喜に咆哮し、男に向けて這い寄ってくる。湿ったものが引きずられる、粘着質な音が路地に響いた。 「……あの若者が……強くなるのを待てずに死ぬこと、か」 諦めを含んだその声は、誰にも聞き取られることなく、瀝青に吸収されて消えた。 刹那。 「まだ死なせやしねぇぞ」 張りのある声が、狭い路地に響いた。次いで男の体をたくましい腕が引っ張り込む。直後、彼がいた場所を数本の腕が貫く。粉塵が散り、双方の体をたたいていった。 月影が腕の持ち主を鮮やかに照らす。男はそれをただ呆然と眺めていた。 「お前、死ぬ気だったろ。馬鹿野郎が。待ってろ、今ちょっと片付ける」 離れた場所に男を下ろし、青年は――腕の持ち主は、金のたてがみを持った若い青年だった――身を翻して妖魔の群れと対峙する。息を吸う鋭い音が、男の耳を穿った。 膝を深く折り曲げ、青年が妖魔の懐へもぐりこむ。次いで払った足が、異形の体を断ち割った。反動で腰をひねり、腕を振りぬく。攻撃は紙一重で避け、反撃は重く、確実にしとめていく。 それでも一人では限界がある。青年の猛攻からかろうじて逃れた数体が、男の元へと這いずっきた。爪が男の急所を狙う、男は全く動けない。 「喰らい尽くせ――銀狗!」 青年が高らかに吠えた。闇に沈んだ壁に波紋が生まれ、銀色のしなやかな獣が妖魔へ躍りかかる。銀の輝きを散らしながら、獣は妖魔の喉笛に喰らいついていく。次々と千切れる叫びを背に、青年は最後の一体を打ち倒した。 やがて波が引くように、戦いの音が止んだ。役目を終えた獣は地を蹴り、闇の内へと溶解する。 静寂の中、青年は男に歩み寄って膝をついた。胸もとにかかるたてがみに、月光が溶け込んで輝きを放っている。 「お前らしくねぇな、雑魚に苦戦なんて」 精悍な顔に苦笑を浮かべ、青年は言う。胸に下げられた金属の板が、鈍く光を弾いていた。下半分が潰れ、薄らと彫られた名は『李』とある。 「……お前は」 男は青年を凝視して、やっと声をしぼり出す。かすれて震えたそれを受け、青年は小さくうなずいた。 「十年だ」 青年は真っ直ぐに男を見つめ、言葉を繋ぐ。 「二年間でようやく、召喚が使いこなせるようになった。妖狩として名を馳せるのに八年かかった。今じゃ『上海の虎』の名を知らねぇ者はいねぇ。妖魔退治の依頼も来るほどだ。お前ほどじゃねぇが、それでも一人でできるようになった」 「……李虎牙」 「黒幻」 名を呼ばれた虎は、目の前にいる宵闇を呼び返す。男は――黒幻はわずかに首を振り、血の止まらぬ腕に爪を立てた。そうして虎牙と呼んだ青年へ、拒絶するように冷たい音を投げつける。 「何をしに来た」 「お前に後悔させてやるためだ。それから、お前を止めてやるためだ。だから追いかけてきた」 上海の若き虎は、真摯な眼差しに黒幻の姿を映す。黒幻は惑うように瞳を揺らめかせ、顔を背けた。 「貴様は馬鹿だ。何のために貴様を置いていったと思っている。巻き込みたくないから、これ以上失いたくないから、死んでほしくないから――殺したくないから――貴様から離れたのに!」 最後はほとんど悲鳴であった。悲痛な叫びをあげ、再度頭を振り、涙を流してうずくまる。虎牙はその肩に触れ、宥めるように手を置いた。 「あのな」 それから、困った風に笑う。幼子をもてあますような、そんな笑顔だった。 「だから、言っただろ。俺は、俺の選んだ道を進むだけだって。俺は俺の責任を果たす、俺は俺の決めた誓いを守るだけだって。俺が死んだら俺のせい。お前のせいじゃねぇ。だから、そんなに気にするなよ」 ただ、と、虎牙は言葉を継ぐ。 「俺がいるからには、無駄な殺しだけはさせねぇぞ。力ずくで止めてやるからな、痛くても我慢しろよ。力はついたが、今度は加減できねぇんだ」 そこでようやく黒幻が笑った。頬は依然として蒼白だったが、虚ろに開かれていた瞳には再び、己の意思が灯って揺らめいていた。 「……本当に、貴様は勝手だな」 「勝手にしろって言ったのはお前だろ?」 「さあ、昔のことは忘れた」 「じゃあ改めて、俺は勝手についてくからな。覚悟してろよ」 虎牙もまた微笑いながら答える。手を伸べ、黒幻の薄い体を助け起こした。黒幻もまた、伸べられた手に肩を預ける。 よろめく体が支えられ、足が硬い地を踏みしめる。虎牙も黒幻を支えたまま、後ろに立った。虎牙の身長はいまや、以前よりもはるかに高い。十年前よりも大人びた顔立ちが天を仰ぎ、「来るぞ」と強い口調で告げた。 たくましく成長した青年を見やり、黒幻は声を投げかける。 「離れるなよ」 「お前こそ、ぶっ倒れるなよ」 分かっているとうなずいて、彼はかすかな音を紡ぐ。 「――ありがとう、虎牙」 零れ落ちたそれを拾えたのだろう。虎牙は不敵な笑顔を浮かべ、黒幻の肩へ置いた手に力を込めたのだった。 この男と共にあれば、いつか呪わしい己の病が癒えるのではないか。手の温もりを感じながら、虚幻のごとき男は思う。 約束を果たすために、誓いを守るために死なず、必ず傍にいる。痩せた体を支えながら、虎の名を持つ男は思う。 自分たちはここにいる。双方の存在が、交わした誓いの証になる。双方の存在が、転じて生への枷になる。その重みと温かさを全身で感じながら、二人の妖狩は月光の中で佇んでいた。 (投稿日:2007.7.14 最終訂正:2008.3.25) |