九-jiu- 


 腹の傷が開きかけたせいで、虎牙は翌日より一週間の謹慎刑が処されていた。拳銃を相手にした、と伝えたのも逆効果だったらしい。「今度傷口開いて帰ってきたら、両手両足縛り付けて麻酔なしで縫ってやるよ」。薄い笑みと共に告げられたそれは、反論を一切許さなかった。一回りも年上の女が浮かべた表情は邪悪で、虎牙は反抗すらできずにうなずくしかなかったのだった。
 あてがわれた部屋は家主に似て、比較的綺麗に整理されていた。女臭さがないのがいい。多少消毒液のにおいが気になるが、医者なのだから仕方が無い。
 虎牙が暇をもてあます視界には、必ず黒幻がいる。せり出した窓の枠に腰をかけ、彼は日がな一日外を眺めて過ごす。出かける様子が無いので一度尋ねてみたところ、どうもあの女は黒幻にも禁固刑を出したらしい。
 聞かなくてもよかったのにと返せば、彼は微笑い、揶揄を含めて言うのだった。
『――俺は俺の意志でここにいるだけだ。もっとも、お前は俺がいないほうが気楽かもしれんがな』
 その言葉は、未だ先日のことを引きずる虎牙にとってあまりに重かった。重いゆえに、より己の内側にある強さへの飢えを濃くしていく。
 強くなりたい。思うだけでは駄目だ。実行しなければ。それにはどうすればいい。考えを連ね、重ね、何度も繰り返してようやく、ある答えにたどり着いた。
 禁固刑もあと一日で解除となる夜。虎牙は黒幻に向けて声を投げる。
「黒幻。妖魔が無尽蔵に出てくる場所ってどこにある?」
「なぜそれを俺に聞く」
 黒幻は外から目を外さぬまま、問いを返してきた。
「お前だからだよ」
 床の上に座りなおし、虎牙は淡く照らされる横顔を見つめて答えた。
「妖魔の気配に敏感だから、そういう場所も分かるんじゃねぇかなって思って」
「聞いてどうするつもりだ」
「ちょっと、修行。強くなりてぇから」
 我ながらいい案だと思っている。妖狩としての力を駆使して経験を積めば、今以上に力を伸ばすことが可能だろう。今までは喧嘩屋として人間とやりあってきたが、やはり人相手では限界がある。
 くわえて召喚の力も鍛える必要があるのだ。妖魔は人間と比べてはるかに身体能力が高い。妖魔を相手にしていれば、今よりも強くなれる。虎牙はそう確信していた。
 黒幻の視線がこちらを向く。それから両目をすがめ、首を傾けて言った。
「命を落としそうになりながら、懲りずに死ににいくつもりか」
「強くなるためには、それなりに強い奴と戦わないと駄目だろ。だから」
「たかだか人間の小僧一人が、妖魔数百の群れへ飛び込んで無事に帰れるとでも思うか」
 癪に障る物言いに、虎牙も思わず感情的に返す。
「俺は妖狩なんだろ。血が薄くたって、俺みたいに目覚める奴もいるって、お前言ってたじゃねぇか」
「それは妖狩としての力のことだ。身体的には人間と大差なかろうが。では尋ねるが、お前は血に飢えた妖魔共の巣の内で、手傷一つ負うことなく帰ってこれるのか? 疲労する前に妖魔共を全滅させる力があるのか?」
 淡々と問われ、虎牙は言葉に詰まって黙り込む。
「妖魔の巣とはそういうところだ。そこで一たび傷を負えば、血の臭いに誘われて無尽蔵に湧いてくる。疲労すれば逃れることもままならない。その場で食い殺されて終いだな」
 何も言い返せない。悔しさにも似た感情が起こるが、それでも声が出なかった。
 否定されることは想定していた。簡単に教えてくれるとは思っていなかったし、何よりも馬鹿にされると思っていた――馬鹿にされなかった分だけ、余計に突き刺さる。黒幻の表情は相変わらず動かなかったが、眼差しに蔑みの色は無い。静かな光をたたえながら、虎牙を瞳に映している。
 たまらずに顔を伏せた。汚れた靴の爪先が見える。腿の上に置いた手に力を込め、歯を食いしばる。
 強くなりたい。そう望むことすら許されないほど無力なのか。自分に対する苛立ちと怒りに、虎牙の無力感はさらに募っていく。
 そこまで言われるのなら、いっそのこと諦めてしまおうか。半ば自棄になって思ったとき、通る声が意識を裂いた。
「まさか、これしきの脅しで諦めるとは言わぬだろうな」
 思わず伏せた顔を戻せば、黒幻はわずかに唇をつりあげて笑っていた。
「お前は俺を生かすと言った。俺を止めると言った。それは嘘か?」
「そんなわけ……ないだろ。嘘や勢いであんなこと言えるか」
 問いかけの意図が分からず、虎牙は面食らいながらも答えを返す。
「ならば再度問おう」
 黒幻は笑みを深め、さらに声を重ねた。
「お前は強くなりたいのか? それともそう俺に告げた、先の言葉は嘘なのか?」
 無力感にさいなまれた虎牙の心に、あの飢餓感が蘇る。龍牙の体を支えたときに、翠憐の遺骸を抱えたときに、黒幻を止められなかったときに痛感した、力への飢え。
「……強く、なりたい」
 しぼり出した答えを聞いて、黒幻が小さくうなずいた。
「明日の昼に連れて行く。本当にそう思うのならば、ついて来い」
 礼の言葉ももどかしく、虎牙は生じた感情のままに黒幻へ飛びついた。瞬時に急所へ叩き込まれた肘の感覚も、喜びに打ち消されてさほど痛みを感じなかった。

 ふわりと舞う小さな体は、少しの間を置いて向こう側の窓へと降り立った。
「何をぼんやりしている。早く来い」
「できるかっ!」
 虎牙の怒声が、昼でも薄暗い路地に響く。辺りは人がおらず、昼ゆえに徘徊する妖魔もいない。彼らは廃墟と化した大楼群の間中にいた。この一帯全てが妖魔の巣と呼ばれ、滅多なことでは人は寄り付かない。
 昨日の言葉通り、黒幻は虎牙をここへ導いた。人気のない大通りを歩き、うち一つの大楼に入り、ある程度の高さまで登った時点で、黒幻がおもむろに窓から向かいの大楼へ飛び移った。
 あっという間の出来事だった。急な展開に虎牙は呆然とし、黒幻は黒幻で当たり前のように催促したため、先の会話と相成ったのである。
「簡単だろうが」
「お前は基準にすらならねぇよ!」
 飛び移ってしまった黒幻と反対側の虎牙が道を挟んで会話しているのが今の状況だ。路地は広くはないが、やはり跳んで渡るには少しばかり幅がある。黒幻のように、歩いている途中で足をかけて跳躍など、普通に考えればできるわけがない。
「できなければ置いていくぞ」
 言い捨てるなり、黒幻はさっさと背を向けて歩いていってしまう。
「ま、待てよ! おい、どう考えたって無理だろうが!」
「ついて来られなければ置いていく」
「答えになってねぇよ!」
 思わず右足を枠にかけ、渾身の力で蹴っていた。耳元で風のうなり声がする。奇妙な浮遊感、それを知覚したと同時に体が下へ引っ張られ始めた。向かいの大楼が近くなる。靴裏が硬い感触を踏みしめた。反動で体勢が崩れそうになる。慌てて両腕を開けば、幸いにも窓枠に手がかかった。
 後ろに落ちかける体を何とか引き戻し、着地する。落ちるかと思った。未だうるさく鳴る心臓を撫でてようやく、安堵の息をついた。
「やればできるではないか」
 と、黒幻の気配で我に返る。後を顧みれば、数刻前までいた大楼の窓があった。自分の靴跡がかろうじて確認できる。跳んで渡ったのだと気づくのには、さらに数刻を要した。
「俺……跳んだのか?」
「それでいい。行くぞ」
 一片の笑みを残し、黒幻は再び歩き出す。虎牙も慌ててそれに続いた。
 途中の道も、虎牙にとって全く無謀極まりないものだった。先の大楼渡りはもちろん、中の階段を使わず跳躍して上り、床に大きく穿たれた穴を飛び越えたりもした。
 かろうじてそれが成功したのは、置いていかれたくないという意地があったからなのか、それとも己に流れる妖狩の血のためだったのか、虎牙には分からなかった。
 黒幻がようやく足を止めたときには、虎牙の息はすっかりあがっていた。
「ついたぞ」
「こ……ここ、どこだ?」
 視線をあげれば、いつの間にか空の蒼に紅が溶け込んでいる。夕刻。妖魔が活動を開始する時間だ。
「これからこの場所で戦ってもらう」
「は?」
 突然の言葉に目をむく。それを気にした様子もなく、黒幻は続ける。
「ここは下がよく見えるだろう。下からは見えぬが、上からは見つけやすい」
 確かに、この大楼は他のところよりも一段高い。周囲の様子がよく分かる。
 黒幻の言葉の意味が理解できた。地を這う妖魔には見つけられないが、逆に空飛ぶ妖魔にとってすれば格好の狩場というわけである。
「お、おい! 冗談だろ」
 立ち上がり、詰め寄ろうとした途端に体勢が崩れる。上ってくるのに必死だったために気づかなかったが、足場はほとんど無いといってもよかった。虎牙が立っている場所には、かろうじて大人が二人横になれる程の面積しか残っていない。
 悲鳴を飲み込み、虎牙は足を踏みしめてこらえた。黒幻を見れば、片足爪先立ちの状態で平然と立っている。対面する反対側のそこ以外に、足の置き場は見当たらなかった。
「何をしている」
 踏ん張っている虎牙を、黒幻が一瞥する。その態度が苛立たしい。思わず感情のままに怒鳴り返した。
「何をしている、じゃねぇよ! どういうことだ、こんな場所で戦えるか!」
「己に不利な場所にいても戦えるようにするためだ。それも分からないのか、馬鹿が」
 淡々と告げられた台詞に、頭の血が一気に下へ降りる。
「……へ」
「言葉通りの意味だが、何か不満でもあるのか」
 爪先で立っているにも関わらず、彼の体は微動だにしなかった。暗くなっていく視界の中、黒幻の目だけが蒼く煌めいている。
「来るぞ」
 返事をしようとする虎牙を遮り、彼は白い面を上へと向けた。奇声と共に、上空から羽音と影が舞い降りてくる。妖魔だ。それも、かなりいる。何体かなどとは数える気にもならなかった。
 どうする、と尋ねるが、黒幻は全く動かない。動かないまま、言葉が継がれた。
「お前が全て片付けろ。空を飛ぶ者相手は得てして素早い、どう戦うか考えることだな」
 信じられない言葉に、虎牙は再度目を見開いた。
「な、」
 何だと、と続けるよりも前に、妖魔の群れは獲物に目掛けて急降下を仕掛けてきた。
 黒幻の動作はそれ以上に速い。爪先立ちの状態から、瞬く間に上空へと躍り上がる。普段ならば刀を振るうか、もしくは妖魔が動くよりも前に『冰針』で始末をする。
 しかし、彼は力を解放しなかった。妖魔の攻撃を、最小限の身のこなしで回避するだけである。そうして二、三匹をやり過ごし、黒幻はわずかに残った縁の上に着地して虎牙を眺めた。視線に気づいたか、妖魔が高く叫んだ。進路を変え、虎牙に向けて攻撃をくわえてくる。
 応戦しようと腰を落とすが、不意に体が沈んで飛び退いた。ばらばらと足場の欠片が下の階へと吸い込まれていく。
 上手く体勢を立て直せない。敵からの攻撃は容赦なく繰り出される。
 手を前に突き出し、相手の速度と反動を借りて頭部を粉砕する。力を失って下へ墜落する胴体、その後ろから二体が追撃をしてきた。紙一重で避けながら後ろへ移動し、足場を確かめてから反撃に移る。
 突っ込んできた足をつかんで引きずり落とし、翼を引きちぎって投げ捨てる。続く二体目に備えて身を低くし、膝のばねを使って心臓を貫いた。血に濡れる腕を引き抜く、その反動で体をひねり、奥にいた三体目に蹴りを喰らわせる。妖魔の上半身と下半身が二つに分かれ、重力に従って下の階へと消えていく。
 息をつく暇も無く次が飛びかかってきた。意識をしないほうが動けるのだが、意識をしなければ足を踏み外すだろう。そちらに気を取られれば、攻撃防御がおろそかになる。
 上手く集中することができない。妖魔の数は一向に減らない。倒しても倒しても、後から湧いてきては襲ってくる。虎牙の焦りは最高潮に達していた。
 焦りは判断力を鈍らせる。ついに体がかしいだ。足を踏み外したのだ。待ち望んでいたように、妖魔どもは歓声をあげて飛びかかってくる。かろうじて穴の縁をつかんでいた虎牙には、防御の術がない。
(しまった――)
 衝撃を覚悟し、固く目を閉じる。が、次の瞬間耳に入った声に思わず目を開いた。
「焔華」
 深紅の焔が妖魔を飲み込んでいく。熱が頬を焼き、わずかに鼻を突く臭いと共に喉へと流れ込んでくる。
「風狼」
 狼の形を取った風の流れが、紅を縫って妖魔に襲い掛かる。うなり声、甲高い断末魔、もがく羽音が冷えた壁の林に木霊する。
 最後の一匹が息絶えると、黒幻は虎牙の頭上から見下ろしてきた。荒く息をついてにらみあげると、急に冷たいものが腕をつかむ。続いて月が視界に入ってくる。満月の光が眼を刺し、反射で目蓋を伏せた。
 一呼吸の後に、黒幻が片手で自分を引き上げたのだと知る。不意に力が抜けて、虎牙は屋上の縁に座り込んだ。黒幻は隣に座ったのだろう、衣擦れと共に、ごくかすかに彼の気配が生まれた。
「……笑えよ」
 虎牙は呻いた。黒幻が眉をひそめたのが、空気の動きで分かった。
「お前から見たら、どうせ子供の遊戯にしか見えねぇんだろ。笑えよ」
 情けなさと悔しさが、自然に涙腺をゆるくする。
 黒幻からすれば、さぞかしおかしいのだろう。さぞかし馬鹿馬鹿しいのだろう。黒幻の足下にも届いていないのに、『上海の虎』と呼ばれていい気になっていると。内心で嘲っているのだろうか。
 これが『虎』と呼ばれた男の限界。『龍』に育てられた『虎』は、妖狩の力が無ければまともに戦うことすらできない。無力感が再び虎牙を押し包む。
「どうせお前よりも強くなんてなれねぇよ」
 鼻をすすり、吐き捨てるように呟いた。
 強くなりたいと思った。誰かを守れるくらいに強くなりたいと思った。だがどんなに望んでも、どれだけ願っても、結局は誰かに守られていることしかできない。誰かを守ることなど、できないのかもしれない。強くなれないかもしれない――誰かを守ることも、今隣にいる男を止めることも、約束を果たすことも、永遠にできないのかもしれない。
 悔しさに滲む視界が嫌で、虎牙は手のひらで目元を覆った。沈黙が二人の間に下りる。
「面白くも無いことなど笑えぬ」
 それを破ったのは黒幻だった。相変わらずの淡々とした声が、夜の闇を裂いていく。辺りは先の騒ぎが嘘のようにしんとしている。
「強くならぬものを鍛えるほど、俺はもの好きではない」
 虎牙は顔をあげ、闇に白く映える顔を目におさめた。黒幻は視線を手元に落としたまま、通る音で言葉を編み上げていく。
「まずお前は無駄な動きが多すぎる。全体的に動きが鈍い。体力も無い」
 妖魔を屠る指がしなやかに踊る。刀を握り、針を以って妖を穿ち、焔を操り狼を御す、自分のそれとは異なる手。
「ここを拠点として体を鍛えろ。ふた月もすれば、もっと動けるようになる」
 ふた月。虎牙にはそれが途方も無く長い年月のように思えた。
「通常の人間を育てるとすれば一年以上かかる。お前は才能がある……なるほど、確かにたたき上げればそれだけ鍛えられるだろう。お前もただの馬鹿ではなかったというわけか」
 言葉をわずかに溜めて、黒幻は虎牙を瞳に映した。月の周囲に流れる蒼い闇、それと同じ色がある。
「ふた月もあれば、あの群れを楽に切り抜けることができるだろう」
「お前抜きで? じゃあ、一年とか二年とか五年とかすれば、もっと強くなれるか?」
 期待を込めて尋ねれば、黒幻は小さくうなずいた。そのかすかな首肯は、暗くなっていた虎牙の心に一筋の光を投げかける。
「もっとも、お前にそれだけの根性があればな」
 あまりにも嬉しげだったのか、揶揄を添えた笑いが聞こえる。冴えた月光が、彼の整いすぎた横顔を照らしている。口元がおかしそうに緩んでいた。
「当たり前だろうが」
 にらみつけるが、どうやらそれは逆効果のようだった。今度は喉の奥で笑っている。
「笑うな! お前もしかして、途中で投げ出すと思ってるだろ!」
 最終的に、黒幻は声をあげて笑い出した。今まで聞いたことの無い、純粋に楽しそうな笑い声だった。
「わ、笑うなって言ってるだろ! くそっ、何がおかしいんだよ!」
「おかしいから笑うのだ、こんなことを本気にするとはな」
 なおも肩を震わせて、黒幻は一つ頭を振る。
「しかしそうだな、期待はせんが楽しみに待たせてもらおうか……俺を止めると言ったお前が、強くなる様を」
「よし、明日から特訓だ! こうなったらお前が参ったって言うまでに強くなってやるぜ! 覚悟しろよ!」
 月に向けて拳を突き上げる。月光がゆらりと揺れて、虎牙の拳を包み込んだ。



 心地よい眠りの波に身を浸していた最中。遠くでかすかに音がした。夢見心地のまま、虎牙はふと思う。
 あれは確か、賓館に備え付けの鋼筆(ペン)を置いたときの音だ。
「李虎牙」
 次いで、名前が呼ばれる。一音一音確かめるように、声はゆっくりと名を紡ぐ。
「お前を巻き込むわけにはいかないのだ」
 巻き込むとは、何の話だろうか。魂の病の話だろうか。それならもう覚悟はできている。そうでなければ止めるなどとは言わない。
 意外と気にするんだなぁ、と、虎牙はたゆたいながら薄く笑った。
「ゆえに、連れて行くことはできぬ」
 気配が濃くなる。隣に立っているのか、それとも座っているのかは分からない。柔らかな息遣いが聞こえる。
「幸せになれとは言えぬ。今の状態から幸せになれる保障など、どこにもないのだから」
 虎牙の目蓋に、冷えたものが触れた。その冷たさが心地よい。緩やかに顔の線をなぞる、優しい感覚が肌を滑った。
「だからせめて、生き続けろ」
 いつくしむような手の動きは、どこか懐かしかった。母がよくしてくれたのか、それとも翠憐がしてくれたのか、思い出すことはできなかった。
「お前と」
 声は少しだけ、躊躇う。数回息を飲んで、何度か吐き出して、数刻の静寂が流れた後ようやく、小さな答えが零された。
「お前と出会うことができて、よかった」
 再度躊躇って、再度逡巡して、落とされた言葉は沈黙を泳ぐ。虎牙の意識が、眠りの底に沈みかける。遠くなっていく気配、不鮮明になる聴覚が最後に捕らえた彼の声。
「――永別了(さようなら)、虎牙……」
 それは彼から贈られた、永遠の別れだった。

 重く空を包む雲、生温かい風を切り走る。じきに降るであろう雨に濡れぬよう、枕元に置かれていた紙片を固く握り締めて。書いた本人をそのまま表したような文字で、そこにはこう書かれていた。
『行ってくる』
「くそっ、これで通じるとでも思ったのかよッ! 何が何だか分からねぇじゃねえか!」
 毒づくも、それに返る返事は無い。
 目を覚ましてこれを見つけたとき、そのときはただ珍しいと思った。書置きなどという手段を、出会ってから今まで一度も使ったことがなかったから。
 すぐ帰ってくるだろうと思っていた。黙って仕事に行くことが普通すぎて、本当にいなくなることなど頭の片隅にも思ったことがなかったから。
 だから――賓館の主に言われた言葉で初めて気づいた。まさかてっきり一緒に行ったものだと思ってまして、と驚いて言う彼を、怒鳴る気にはなれなかった。仕方のないことだ。あの男はいつものように、何も言わないで出て行ったのだろう。
 角を曲がり、直線に抜け、時には人をなぎ倒して虎牙は走った。
『旦那は日本に渡るんだって言ってましたよ。虎牙の旦那も一緒なんですか、って聞きましたら、笑ってらしたもんで。先に行ってるんだなとてっきり……ハァ』
 主の言葉を思い返し、そして明け方に聞いたおぼろげな記憶を辿って一人、歯を噛み締める。胸が苦しくなるほどに哀しげな、永久の別れを告げる言葉。
「ちっくしょ……!」
 遂に足が止まった。闇雲に走っていただけで、本当はどこに行きたかったのかも分からない。ひょっとすると自分は、黒幻の後を追いたかったのでは無いだろうか。もう手遅れだというのに。
 辺りを見回す。上海の裏通りはあらかた頭に叩き込んではあるが、さすがにどこをどう来たのかは分からない。幸いにして妖魔の気配は無かった。黒幻の気配も無い。もう日本に着いた頃だろうか。それとも、もしかしたらまだどこかにいるのだろうか。
 虎牙は再び駆けた。ある一つの大楼の中を駆け上り、飛び上がりよじ登り、無我夢中で最上階を目指す。時間の感覚すら麻痺している中で、最後の扉を蹴り開けた。
 風が巻き起こる。髪がそれに煽られるが、そのまま屋上の縁まで足を進めた。上海の街が眼下に広がっている。この大楼は、上海の中でもかなりの大きさがあると聞いた。
 虎牙は街を見下ろす。妖魔も人も、一緒くたになってうごめく街。生まれ故郷。あの男と会った、運命の街。そのはるか向こうには、見たこともない国がある。
 日本。海を隔てた異郷に黒幻は旅立った。何を思って彼は一人で行ってしまったのか。理由さえ残さずに、彼は梦幻のように消えてしまった。虎牙の誓いを置き去りにしたまま、虎牙自身を置き去りにしたままで。
「……勝手に置いていきやがって、馬鹿野郎が……ッ!」
 口をついて出た悪態も、風にかき消される。
 置いていかれた。待つと言った翌日にいなくなるなんて反則だ。もう二度と会えないのか。立てた誓いを守ることすらできないのか。
 愕然とした心は、やがて別の何かへと姿を変える。
「そんなに俺が役立たずだって言うのかよ、こら」
 呻くように呟いた。答えはない。
「ちくしょうが! だったらお前が納得するまで強くなってやらぁ! そっちで首洗って待ってやがれ、黒幻ッ!」
 腹の底に力を入れ、代わりに生まれた衝動を思い切り叫んだ。――喉が破れたって構うものか。この渾身の誓いが、勝手にいなくなったあの男に届くのなら。
「俺は強くなる! 強くなって、てめぇが参ったって言うまで強くなってやる! てめぇの病がひどくなっても止めてやれるようによ! 止めるって言ったんだから最後まで勝手についていくぞ、勝手にしろって言ったのはてめぇだぞ、忘れてるわけじゃねぇだろうなっ!! 嫌がったってもう遅ぇぞ、覚悟してやがれぇっ!!」
 瞬間、雲が切れて光が差した。眩しさに目を細め、視線の先に差した光の柱を見やる。
 神など信じてはいなかったが、このときばかりは虎牙も、天の神が誓いを聞き届けたのだと――そう信じたい気分になった。
「また会えるだろ? なぁ、黒幻……」
 燐光を散らす風を受けながら、少年は宵闇のごとき男を想った。

(投稿日:2007.7.14 最終訂正:2008.3.25)

←八-ba- 了-epilogue-→



::: 戻る :::