八-ba-


 雨上がり特有の生ぬるい風が、頬を通り過ぎていく。下弦の月が頼りなく光を零し、淡い影を地に描く。黒く塗りつぶされた大楼が立ち並ぶ中、虎牙は黒幻と共に表通りを目指していた。
 仕事だ、と短く告げられたのは数刻前。報酬も出される、黒幻が昔より行ってきた『妖狩』の仕事だという。ついでに腹の傷は、「暴れなければいい」のでこの際忘れることにした
 無償ではないのかと問えば、
「妖狩とて人の世界に生きるものだ。金が無くては暮らしていけないだろうが」
 しごくもっともな答えが得られた。確かにその通りである。
 ともあれ、仕事の際には一言も告げずに出て行った男が、虎牙に向けて仕事と告げる。暗について来いと示すそれに、虎牙は喜びを隠し切れなかった。
 身支度をしているときにそれが表へ出たらしく、「にやにやするな薄気味悪い」と嫌そうに言われた。意外にもこの男は感情の起伏が激しい。そんなことでもなぜか、ひどく嬉しかった。信じたい気持ちになった――それが嘘でないという意味にも思えたのだ。例の人妖の一件以来、ことさらに強く実感する。
 彼があれだけ冷酷な態度だったのは、個人ではなく人間そのものに対する負の念が強すぎたからかもしれない。偏見だと責めるのは簡単だ。情緒不安定だと決め付けるのも楽だろう。しかし果たして、一概に黒幻が悪いのだと言い切れるのだろうか。一歩前を行く男の横顔を眺め、虎牙は思考をめぐらせていた。
 途中で小さく金属音が鳴る。耳元をかすめたそれを確認すべく、そちらへ目を向けた。黒幻も数歩先で足を止め、いぶかしげにこちらを振り返る。
「ああ、悪い」
 いつも持ち歩く札が落ちた音だった。足下のそれを拾い上げ、口袋に押し込む。追いつき、歩みを再開する。位置は気づけば、隣になっていた。
「何だそれは」
「迷子札。俺が拾われたときに持ってたんだと」
 言いながら、虎牙は先ほどの問いを思い出した。浮かれてすっかり忘れていたが、聞きたいことがある。
 もしかしたら違うかもしれない。だがどうしても、確認しておきたかったことだ。頭の隅に置いた質問を引っ張り出し、黒幻に軽く投げ渡す。
「なあ、黒幻。俺の力ってどこから来たんだ? 何か、他にも変な力があるらしいけど」
 彼は開きかけた唇を、思い直したように引き結んだ。次いで見せろ、と指で示され、言われるままに札を手渡す。黒幻は何度も確認するように板をひっくり返していたが、やがて探るようにこちらを見つめてきた。
「……妙な力と言ったな」
「あ? おう。召喚の力だとか、何だとか」
 情報は少なかったが、無いよりはましだろう。虎牙は人妖から聞いたことを全て話した。黒幻はしばし沈黙し、足を運ぶ。
 時折蝙蝠の飛ぶ羽音が聞こえる。人の気配は全く無い。虎牙が額の圍巾を結び直し、ずれた位置を直し、数回ため息をついたところでようやく返事があった。
「心当たりがある」
「本当か!?」
 あぁ、と短く声を継ぎ、黒幻は横目で虎牙を見やる。
「翠玉には他家に嫁いだ双子の姉がいたと言ったな」
 首肯して先を促す。彼はわだかまる闇へと視線を戻し、言を繋いだ。
「その家かもしれぬ。異界より獣を呼び寄せて使役し、王宮に仕えていた一族があったと。彼らはその証として、金属の板に己らの姓名と印を刻んで腕につけたらしい」
 異界の獣を使役する一族。虎牙は再度、手のひらの札に目を落とす。
 ひしゃげて潰れた名前は読めない。名字が彫られたその裏に、薄っすらと円が浮き出ていた。細かな細工は削れているが、円の隅に獣がいることは分かる。
 北は龍が昇り、東には角を持った獣が、西には亀が描かれている。南は見えない。手のひらに収まる程度の板に、ここまで細かい文様があったとは知らなかった。
「呼ぶ獣の位は才能に左右され、御し切れねば暴走する。ゆえに隠れて暮らしていたと、そう聞いたことがある」
 王朝が無くなった現在では、ただの慣習となっていたのだろう。思い入れと呼べるほどのものはない。それでも捨てられなかったのは、自分に流れる血のせいか。千切れた鎖が小さく擦れる。
「藍玉(ランイー)……その娘の名だが、藍玉が嫁いだことで妖狩の血が混じったと考えれば、貴様に妖狩の力があるのも何ら不思議ではないだろう」
 熱いものが胸の内から溢れてくる。唇を噛み締め、力一杯札を握り締めた。これでようやく、出自がわかった。家はもう無いけれども、帰るべき場所はもう無いけれども。妖狩の力がある。召喚の力もある。きっと、今よりも強くなれる。翠憐の墓前で誓ったことが、龍牙の死の後に誓ったことが、守れるはず。
 落ちぬように、札を胸もとの口袋にしまいこんだ。普段よりも重量を増した箇所を撫でて、虎牙は黒幻の腕を捕まえる。
「ありがとな、黒幻」
 引っ張ってこちらを向かせ、感謝を伝えた。一方の黒幻は、柳眉をひそめてにらみあげてくる。心底鬱陶しそうだ。
「鬱陶しい。離れろ」
 にべもなく一蹴された。顎を上げ、鋭い目をさらに細めている。眉間にはしわが寄っていた。不意打ちに衝撃を受け、虎牙の手が緩む。
「な、何だその言い方。ひでぇな」
 衝撃の合間に挟んだ抗議も黙殺された。無言のまま先に立つ背を慌てて追う。
 こちらが大股で速足にも関わらず、黒幻の足はそれよりも速かった。顔を見せまいとでもするように、一心不乱に進んでいる。黒絹の旗袍に施された蝶の刺繍が、闇に紛れて踊った。
(ひょっとして、照れてんのかな)
 直感でしかない上に、口に出すのも憚られる考えではあるが。
(だとしたらあいつ、滅茶苦茶感情表現下手くそなんだな)
 妙な新鮮さを味わうと共に、黒幻との距離が少し縮まったような気がした。笑いを必死で抑えつつ、虎牙は歩を小走りへと変えたのだった。
 「表」と「裏」を隔てる境目に、小太りの男が所在なさげにたたずんでいる。禿げかかった頭をせわしなく撫でつけ、おどおどと周囲を見回していた。二、三人男を連れている。着ているものは上質な商標品(ブランド品)、護衛役までつけているとなれば、相当身分が高い証である。
「おお、『上海の虎』! お前も一緒だったとは!」
 虎牙らの姿を見た途端、脂ぎった顔に安堵を浮かべて擦り寄ってきた。中年に擦り寄られても嬉しくはない。さりげなく避けつつ、黒幻に尋ねてみる。
「おい、こいつ誰だ」
「依頼人だ。見れば分かるだろう」
 黒幻の答えが気に入らなかったのだろう。男は真っ赤になって怒鳴り出す。
「貴様! そのおざなりな説明は何だ、私を誰だと思っている! 私は裏でも名の知れた張黄冠(チャン ファンガン)だとあれほど、あれほど……! 貴様のような無価値な奴を雇ってやったのだぞ、ありがたく思えこの低俗物!」
 張黄冠、聞いたことがある。「裏」でも有数の組織に癒着し、「表」で莫大な富を築き上げたと噂される男だった。「表」の利益よりも「裏」を通して得る利益のほうが高いと、まことしやかに囁かれている。
 そう言えば、護衛の話を持ち出されたことがあったか。虎牙は忘却の彼方に追いやった記憶を、かろうじて掘り起こすことに成功した。護衛という名の暗殺依頼ゆえに断ったのだが、しつこく食い下がってきたことに腹が立ち、招かれた部屋の扉を蹴り壊して帰った覚えがある。
 今思えば、実にもったいないことをした。あんなにいい木材の扉は、今まで見たことがなかったのに。
「わめくな」
 なおもわめく黄冠を、黒幻が冷たく遮った。感情の窺えぬ双眸が、わずかな月光に蒼く燃える。
「妖魔に気づかれたいか。命が惜しければ黙れ」
「ひ、しゃ、『上海の虎』! この男、この男、己の立場をわきまえず……!」
 脂肪に覆われた手を虎牙の腕に絡みつけ、黄冠がなおも声を張る。汗をかいているのか暑苦しい。以前無礼を働いたはずの自分になぜ貼りつくのかが理解できなかったが、場を収めなければ話が進まない。
「俺ぁこいつにくっついてきただけだから何とも言えねえが、とりあえず仕事だから仕事しようぜ」
 黄冠は未だ文句を垂れていたが、黒幻の一瞥にしぶしぶ承知の意を示す。虎牙が改めて目をやれば、当の黒幻は既にきびすを返していた。闇に溶けようとする姿を見失わぬよう、虎牙は再度男を引き剥がした。

 半分以上聞き流してはいたが、依頼人はどうやら、ある組織との話し合いに出向くために黒幻を雇ったらしかった。会場に向かうための道には妖魔が出没する。妖魔には妖狩、とでも考えたようだ。
 そのくせ、妖狩の力を借りたのは仕方なしとしつこく熱弁する。いい加減辟易して黒幻に助けを求めるも、彼は一切こちらの会話に参加してこなかった。
「妖狩が嫌いなら雇わなけりゃよかったじゃねぇか」
 呟いた独り言にでさえ、男は声高に主張する。
「妖狩は盾! どうせ埃でも被っていたのだろう、使ってやらねば性能も劣るに決まっている! 道具は有効に使わねばならん! そうするのが道理! 有効活用してやっている私は間違っていない!」
 よく同じことを繰り返して飽きないものだ。この主張も、既に六回目になっている。これ見よがしなため息も全く通用しない。
 自分が妖狩だと暴露すれば、一体どんな顔をするのか。虎牙は握り締められた夾克の袖をにらんだ。男は案の定、視線の意味に気づいていない。いかに自分が有用な人間か、対していかに妖狩とやらが利用されるだけの道具に過ぎないか、しつこく意見を押し付けてくる。
 自分勝手なそれに、呆れを通り越して不快感さえ覚えた。いっそ殴って黙らせたほうがいいかもしれない。口袋に突っ込んだ手を拳にしたとき、黒幻が不意に立ち止まった。
 耳鳴りがする。次いで閉塞感と、肌を焼かんばかりの殺意が周囲に満ちる。人間の笑いにも似た声が、無人の大楼から漏れてくる。滝のように流れてくる。
 黒く穿たれた大楼の窓、突き出される顔は無数。零れんばかりに見開かれた眼に生気は無い。人の鼻に当たる部分は鼻腔しかなく、口からは肉の触手がうごめいていた。
 窓枠から腕が伸び、数体が妙に白い胴体をせり出した。虎牙の後ろから情けない悲鳴があがる。護衛の男たちが虎牙の周囲を囲んだ。黄冠は虎牙にしがみついている。これでは身動きが取れない。
 妖魔が次々と窓枠から落ちてきた。下半身はぐずぐずと崩れて形を成していない。脚は触手の塊だった。濡れたものが擦れる、嫌な音が空気を伝ってくる。
「おい、邪魔だ! どけよ!」
 虎牙が怒鳴りつけても一向に聞くそぶりを見せない。妖魔は波となり、目の前に迫りつつあった。
「『我為汝盾、我為汝劒(われなんじがたてとなり われなんじがつるぎとならん)』」
 声が冴え冴えと木霊する。黒幻は己の左側、虚空より紡がれた刀の柄をつかみ、勢いよく引き抜いた。
 刃が空を切る、鋭い音がする。実際にこの詠唱を聞いたのは初めてだ。鈍い光沢を含んだそれが現れただけで、場の空気が一層張り詰めていく気がする。虎牙もそれに倣い、男を振り払って意識を集中し始める。
 ふと、視界の隅で黄冠の口元が歪んだ。何かに合図をするように手元が動く。護衛の男たちが一斉に黒幻の背後へ忍び寄り、その刹那。
 黒幻の痩身が妖魔の群れへと放り出された。体勢を整える前に突き飛ばされたのだ。受身すら取れずに吹っ飛び、刀を握りしめた状態で倒れる。
「黒幻っ!」
 とっさに飛び出そうとした虎牙の腕を、男たちの屈強なそれが引き留めた。
「化け物風情が、人間様のお役に立てて嬉かろう! 人間様のために命を捧げて当然! 少しでも時間を稼ぐんだな!」
 口汚く吐き捨てた一方で、黄冠は虎牙に向けて愛想笑いを浮かべる。
「ささ『上海の虎』、あれが妖魔に喰われている間に、早く私を目的地まで護衛してくれい。何なら報酬を提示額の倍にしても構わんぞ。元々使い捨てるだけのものに払う金などないからな、好きなだけ持っていけ」
 では最初から、報酬を出すつもりはなかったということか。仕事は契約の元で執り行う、契約が守れなければ命の覚悟をしろ。それが「裏」での暗黙の了解だったはずだ。
「お前、約束が違うんじゃねぇのか!?」
「何を言う! お前は使い捨ての雨傘に、わざわざ莫大な金を払う価値があると思うか? 無いだろう? それと同じことよ。使い捨てると分かっていて大金を支払うなど馬鹿のすること。道具は道具、人間様におとなしく使われていればいい」
 盾の一族、人間を守るための一族。紛れもない事実だ。人間とは異なる生き物、異界のものを化け物と呼ぶ。肯定しかねる考えだが、自分も一時的にそう思った。頭ごなしに否定はできない。
 だが、この言い分には絶対に賛同できない。それが妖狩だというだけで為されるならばなおさらだ。盾だから使い捨てにされろ、だから人間に裏切られても文句を言うな。何と言う自分勝手な論理だ。人間は庇護される立場にある。それのどこに偉ぶる理由があるのだろう。
 怒りが虎牙の身体を這い登っていく。再度振り払おうと力を込め、男たちの腹に蹴りを入れるべく膝をあげた。
 全身を悪寒が襲ったのは、それとほぼ同時だった。空間を覆わんばかりに広がっていた妖魔の殺気が、跡形もなくかき消されていく。寒気などという生易しいものではない。冷気を通り越して痛みさえ覚えるほどだ。
 視界の中央で、黒幻が音も無く立ち上がる。痛覚が肌を貫通する。冷や汗が噴き出しては伝い落ちていく。体の末端が痺れ、凍ったように硬く強張っていた。
 襟に隠れた箇所から立ち上る、刺すような悪意。髪から覗いた首筋には、血管にも似た黒い筋が浮き上がっていた。心臓の鼓動をなぞり、不吉に脈打っている。
「焔華」
 地を這う声音が、深紅を散らした。轟と弾ける色の間を縫って影が舞う。風の獣が肉を噛み砕き、氷の針が急所を穿つ。漆黒の刃が悲鳴を裂き、鉄錆の臭いすら奪っていく。触手は打ち払われ落とされ、成す術もなく転がった。音なき断末魔が次々に上がる。影が疾駆する度ごとに、異形の死骸が増えていく。
 妖魔の気配が消えていく中で、虎牙は足すら動かせなかった。まともな思考をすることすら、できなかった。気を抜けば、おそらく立っていることもままならない。
 屍の海が広がる中、黒幻がこちらを見た。瞳は凍てつく光を宿し、激しい輝きを帯びている。正気はまるで垣間見れない。袖から覗く指先にまで、黒い根が張り巡らされている。指だけではない。いつの間にか首筋にまで侵食していた。
 つと体を斜にし、刀を水平に構える。鍔が鳴る。切っ先は虎牙を――否、その後ろにいる黄冠を狙っていた。
 この男に、これ以上殺させてはいけない。止めると決めたのだ。何が何でも止めなければならない。黒幻が身を沈め、地を蹴る構えを取る。ここから真っ直ぐ飛び込めば間に合うか。虎牙もまた腰を落とし、体重を前へかけた。
 鼓膜を突く、乾いた破裂音がした。黒幻の手から刀が離れる。左腕を押さえてよろめき、膝をついた。身を返して思考が止まる。
 背後にいた男たちが三人、拳銃を持っていた。銃口は黒幻に向けられている。黄冠自身もまた、黒く光るそれを手にしている。一度手の内で鉄の塊を回し、せせら笑う。
「血に飢えた獣は見境なく人を襲って困る。今の内に始末しておかねば、後々危険ゆえにな。何、害虫駆除と大差あるまいて」
 歯軋りしながら、虎牙は拳を握り締める。自分を守れと言うくせに、いざ危害が及ぼうとすれば平然と排除しようとする。命を捧げて守るのが当然だと、自分たちのために死んで当然だと言い放つ、この無責任さは何だ。
 強く燃え上がった怒りに任せて飛び込もうとした瞬間、本能が危険を訴えた。とっさに身を低くする、頭上を鉛玉がかすめていった。
「言ったろう? 今の内に始末しておかねば、と。喧嘩屋『上海の虎』李虎牙、懐柔できなければ殺すだけよ」
 あのとき既に選択肢は提示されていたのだ。仕事を請ければそれでよし。請けなければ始末するつもりだったのだろう。自分のうかつさに舌打ちし、虎牙は体勢を立て直す。
 不意に、視界の隅にあった気配が揺らいだ。
「黒幻!!」
 後を追って走るが間に合わない。刀が閃く。一人が血を噴いて倒れた。次いで二人。胴体を割られて紅に沈む。三人。首が飛び、妖魔の死骸の中に埋もれる。
 黄冠は一度身を強張らせ、次いで奇声をあげて発砲した。当たらない。距離が詰まる。詰められる。逃れようとしたか、足をもつれさせて転倒する。そのすぐ脇に刀が突き立った。引き抜く、その腕をつかんだ。
「落ち着け、黒幻! こいつを殺して、一体どんな意味があるんだよ!」
 黒幻からの答えはない。項からの悪意は濃く澱み、息が詰まるほどだ。虎牙の手は震え、黒幻の腕をつかむだけで精一杯だった。必死で宥める言葉を探すが、これ以上頭が働かない。
 虎牙の耳を、めりめりと嫌な音が撫でていく。黒幻の首筋から伸びた根が、顎の線を越えた。
 魂の病――虎牙の脳裏に黒幻の言葉が蘇る。妻が殺されたときに、憎しみに呑まれたと。それがもし、今のような状態ならば。人を斬れば斬るほどに加速しているのならば。止めなければ、どうなる。
「黒幻、よせ! これ以上斬ったら駄目だ、止められなくなっちまうぞ!! もっと酷くなる、駄目だ、斬るな!!」
 割り込み、引き離そうとする。もう殺させたくない。これ以上は誰も殺させない。正気に戻ってくれることを祈りながら、つかんだ腕を引こうと力を込めた。
 黒幻は感情の浮かばぬ面を虎牙へ向け、腕を戒める手に指を這わせた。今まで触れた、あるいは触れられたどの体温よりも冷たかった。
 乱暴に引き寄せられ、耳元に唇が寄せられる。そうして、

「もう、遅い」

 囁かれた声はかすれ、震えていた。
 躊躇する虎牙の腕を払い、袖が大きく翻る。断末魔が木霊する。重いものが地に転がる音がする。強張る首を動かせば、倒れ伏した男の背を貫いている一振りの刀が見えた。
 静寂。耳鳴りがするほどに静かだった。生きている者は、虎牙と黒幻ただ二人だけ。
「……黒幻、お前」
 やるせなさが虎牙を襲う。膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。
 黒幻が笑う。哄笑ではない。嘲笑でもない。ただ乾いた声で笑っていた。もうどうにもならないと、全てを諦めたように、虚ろに声を立てている。
 震えた吐息の感触が耳から離れない。『もう、遅い』。苦しげに告げられた声の裏に、助けを請う音があった。もう自分では抑えられない、だから力ずくで止めてくれ、と――応えてやれなかった。分かったのに、何もできなかった。
 虎牙は悔しさに唇を噛む。何のために、自分は誓いを立てたのだ。こうして命が奪われないようにするためではなかったのか。黒幻が感情を制御できず、暴走した際に止めるためではなかったのか。
 黄冠は確かに酷い男だった。こんな輩ばかりでは、憎まれるのも仕方が無い。だがそれでも、一人の人間であることに変わりはない。黒幻の心にのしかかる重さは、善人だろうが悪人だろうが同じなのだ。
 盾として生きる運命、古の盟約に縛られた存在意義。それに抗い、逆らえば魂を病む。病めば己を見失う。その先にあるものは滅びだけだ。必死にもがき、あがいてなお止まれぬ黒幻を、止めてやると言ったのは誰だ。
 このままでは何もできない。何も守れない。だからといって、ただ見ているだけしかできないのは嫌だ。
 虎牙は再度、渇望する。幾度も繰り返してきた望みを、胸中で叫ぶ。
 強くなりたい。自分の大切なものを守れるくらいに強く。誓いを、約束を全て果たせるほどに強く。これ以上後悔することのないように。これ以上何も失わないように。
 強くなりたい――こんな思いはもう、たくさんだ。
 皮膚が切れたのか、舌に鉄錆の味が広がる。それをきつく噛み締めて、虎牙は何もできなかった拳を瀝青にたたきつけた。

(投稿日:2007.7.14 最終訂正:2008.3.25)

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