七-qi- 


 いつものように足で戸を開けてから、虎牙は驚愕して立ち尽くす。
「間抜け面を晒すな。見苦しい」
 髪を毛巾(タオル)で拭きながら、黒幻は素っ気無く言い放った。上半身には何も着ていない。水分が肌の所々を濡らしている。下肢には薄衣の下穿きのみで、素足のままだ。窓の枠へ腰を落ち付け、身長の割りに長い脚を組んでいる。
 風呂上りだったのだろう。淋浴室(シャワールーム)の扉の玻璃が白く曇っている。板張りの地板についた水滴が、それを物語っていた。床の下には脱ぎ捨てられた靴が転がり、床の上には例の旗袍が放置されている。意外とだらしないようだ。
 外気に晒された痩身を蹂躙するように、暗い紅の線がある。異様ささえ覚えるほど、傷は皮膚を侵略していた。隠すものがない分、以前感じた薄ら寒さが濃さを増して、足下から這い上がってくる。
「気になるか」
 虎牙が何を言うべきか悩むより先に、黒幻が問う。それから虎牙の視線をたどり、体を走り回る跡を見やってから、淡く笑みを浮かべた。
「貴様のつけたものもあるぞ」
 指先が、右の肩口を撫でる。比較的新しいためだろうか、他の傷よりもそれは幾分か紅が濃い。そのすぐ隣に真新しい筋があった。人妖から受けたものだとは、言われずとも知っている。
「それ……」
 治るのか、と口にしかけてから、声を喉へと押し戻す。妖魔を斬れば血が止まる相手、今更聞いても白々しいだけだ。
 黒幻は笑んだまま首を振る。
「妖魔から受けた傷は治る。貴様のつけた傷は、塞がりはするだろうな。だが決して消えはしない――寒い。閉めろ」
 上着を着ればいいだけの話だが、言ったところで聞きはしない。後ろ手に戸を閉め、虎牙は黒幻と対面して座った。
 腹の傷が少しだけ疼く。知人に医者がいたことが幸いした。無免許だが腕は立つ。縫い合わせた箇所は、あと数日で抜糸できるらしい。その代わりに、暴れるのは完全に傷口が塞がるまでのお預けだった。
 荒く巻かれた包帯越しに、何となく手を置く。いくら妖狩といえども、虎牙は一般人と何ら変わらない体だ。傷が深ければ、当然跡になってしまう。
 跡になると聞いたとき、目の前にいる男の体につけられた傷を、あるいは完全に消えてしまった致命傷を、思わずにはいられなかった。
 改めて横目で見やれば、やはり跡らしき跡は残っていない。首を切断するように、赤黒い筋が通っているだけだった。
「痛むか」
 意識を戻せば、黒幻の双眸が虎牙の手元を捉えている。
「大したことはねぇさ。やっぱ跡にはなるらしいが、何、問題はねぇ」
 特に気にしていないと言外に込めて返答すれば、黒幻は一言だけ、そうか、と呟いた。
 それからしばしの沈黙が降り、次いでゆっくりと払われる。
「――強い念でつけられた傷は残る」
 拭われた静寂は、音も無く双方の間に積もる。
「妖魔は本能で動く。ゆえに、そこまで強い念を持ってはいない。人妖も人に近い考えで動くが、それはあくまで人に紛れて欲望を満たすためだ」
 唐突に語られ始めた言葉が読めず、虎牙は黙ったまま黒幻を見つめる。一言一句逃さないように、沈黙の隙間から彼をうかがった。
「だが、人間は感情で生き、感情で動く。だから、人間の持つ武器には念がこもる」
 ようやく、黒幻が何を告げんとしているのか察した。この男は、自分の体についた傷の意味を語っている。
「ことに、人は対するものを斬る際、強い思念を持っていることが多い。例えば、生に対する執念。例えば、目前にした異形に対する恐怖。例えば、純然たる憎しみや殺意」
 虎牙は思わず目をそらした。黒幻の指がある場所は、虎牙が刀を奪って突き立てた所だった。翠憐を殺され、逆上して貫いた部分だった。
 殺してやろうと思ってつけた、傷だった。
「そうした思念が染み付いて残る」
 腕がゆるりと広げられる。左右両方とも、余すところなく線が刻まれていた。長い袖に隠されて見えなかった肌が、今はまとうものもなく露にされていた。
「厳密に言えば、俺の身に残るものは傷ではない。これは、俺を斬ったものの思念の跡。傷口から入り込んだ、怨恨の跡」
 黒幻は再度笑う。自嘲を唇の端に刷いて、髪をかきあげた。
「それだけ強い思念を持って、人間はなぜ俺を斬ったのか。分かるだろう?」
 素直にうなずくことはできない。肯定してしまえば、認めてしまうことになる。だが全て否定することはできない。自分とて、一時的なことであれそう感じたのだから。
 胸中を察したか、それとも最初から知っていたのか。黒幻は笑みを深める。
「妖狩は人とも妖とも異なる種。異界より来たる、言を操り古の盟約に縛られた一族。妖狩とは人間がつけた名称、この地に縛り、姿を縛るためのもっとも初歩的なまじない。化け物ということも、あながち間違いではない。人間ではないからな」
 下手すれば聞き逃しそうなほど簡単に、まるで世間話をするように、黒幻は言う。それでも虎牙の耳が捉えた単語は、衝撃を与えるに十分すぎるほどであった。
「ちょっと待て! 人間じゃねぇ? いくらなんでも嘘だろ、だってお前」
「ただの人間が」
 すべてを言い終わる前に、鋭く遮られる。彼は顎をわずかに持ち上げ、切れ長の瞳を細めていた。相変わらず口元は笑ってはいるが、その分だけ嘲りが濃くなる。
「妖魔を殺しただけで、致命傷が跡形もなく治るのか?」
 何も言い返すことができず、虎牙は口をつぐむ。虎牙の目の前で、この男は妖魔に喉を食い破られた。血がしぶいたのを確認した。しかしあるはずの傷跡は無く、怨恨の証だけがある。
 まさか、本当に人間でないなんて。信じがたいが、どこか納得する。複雑な心持で、虎牙は次の言葉を待った。
「我々は屠った相手の精力を取り込み、己のものへと還元する。ゆえに個体の生命力は尋常ではない。還元された生命は己のものに上乗せされ、身体を満たす。姿は上乗せされた精力が全て消費されるまで変化はしない。傷を負えば、相手の生命は傷口を治すのに使われる」
 淡々と音は空気を震わせる。外から漏れる薄明かりが、黒幻の秀麗な顔を彩った。
「便利な体だろう? 殺し続ければ老いることもない。傷は相手の精力で治る。相手の命で永らえる。自給自足、という奴だ。盾としてこれほど適したものもいまい」
 それでも、と黒幻は言葉を継ぐ。
「この循環とて万能ではない。過ごす時の長さゆえか、ある日ふと使命に背き、そうして魂を病むものが多かったと聞く」
 窓の外へと首を巡らせ、再度沈黙する。繋ぐべき一語を探しているのか、わずかに頭を傾けている。湿った髪がまとまって、痩せた胸もとへ落ちていく。項が髪の間より覗いた、ある一所に虎牙は目を留めた。
 花のようだと思った。菱形を上下左右に組み合わせた、四つの花弁を持った刻印がある。色は傷跡と同じ、沈んだ紅。今まで知らなかったのは、襟や髪に隠れていたからだろう。
 何となく眺めていた刹那、印がわずかに揺らめいた。目を擦る。手をのける。印は何事もなかったように、黒幻の皮膚に貼りついている。
 嫌な気配がする。肌が粟立った。あの印は、黒幻の体についた傷よりもはるかに危うい気がする。怨みではない。殺意とも違う。例えるならば、悪意そのもの。
「病めば歯止めを失う。歯止めを失えば、正気もまた奪われる。例え意識が残っていたとしても、己の意志では止められなくなる――どうした」
 黒幻がふと言葉を切り、こちらへ目を向けて尋ねてくる。印は再び髪に隠れ、気配もまた紛れて絶える。
「いいや……」
 ざわついている神経を押さえようと、食いしばった歯の隙間から息を漏らした。急激に下がった体温は、徐々に回復してきている。手先の感覚がまだ怪しいが、頭の奥の警鐘は既に鳴り止んでいた。
 一方の黒幻は、指で髪を梳きながら感慨もなく答える。
「これか。妻が殺されてから浮き出てきた。魂を病んだものの印だと思えばいい」
 虎牙の脳裏に、先日の人妖の言葉が思い出される。あの妖魔が人間をそそのかし、黒幻の妻を食ったと言った。魂を病んだと彼は言うが、それと何か関係があるのだろうか。
「嫁さんがいた?」
「劉翠玉という娘だ。劉という、俺の遠縁にあたる家の娘だった」
 口調が荒れるかと思ったが、黒幻はいたって穏やかにその名を紡いだ。
「妖狩は近親婚で力を絶やさぬようにする。通常は長男長女が交わり子を成す。生まれる子供は男女一人ずつ。稀に一人だけあぶれるものがいる。俺の父の妹は二人いた。末の妹が、劉という家に嫁いで血を残した。その十代後の子孫が翠玉だ」
 必死に話を整理しながら、やはり考えることは苦手だと思い知らされる。
「先ほども言ったが、妖狩は例の循環があるために個体の寿命が長い。そして何ゆえか、魂を病むものもまた多い。だからいつ死んでもいいように、近親婚にて力を残す」
 いよいよ混乱がひどくなってくる。婚姻をするのは兄妹と。だが黒幻の妻は叔母の血を引いているとはいえ、全くの他人。姉妹がいたなら、 なぜこんな回りくどいことをしたのか。
 慌てて両手を突き出して、彼の口を止める。無視されるのではと焦ったが、黒幻は言葉を切ってくれた。
「お前にも姉ちゃんか妹がいたんだろ? 何で嫁さんを別に探す必要があるんだ?」
「俺の姉は妖魔に食われた」
 変わらぬ調子のまま、黒幻は言う。
「両親も妖魔に襲われて死んだ。どの道どこかで同じ血を引くものを探さねばならなかったのだ。翠玉と出逢ったのはほんの偶然だ。血族だと気づいたのは、彼女と夫婦になってからだった」
「偶然? 知ってて結婚したんじゃねぇのか?」 
「妖狩の気配を感じ取れなかった。人間と交われば血は半分薄まる。薄まった血の子が人間と交われば、血はさらに半分になる。十度も繰り返せば、己が妖狩であると自覚することも難しい」
 妖狩が一代変わる間に、十度。黒幻の叔母が嫁いで子を成してから、およそ十回。数値だけ見れば大したことはないが、血の受け渡しがそれだけ繰り返されていることになる。
「妖狩の力を知らずとも、お前のように何らかの反動で目覚めることもある。が、確率はきわめて低い。大抵は気づかぬまま生涯を終える。翠玉は婚姻のすぐ後、妖魔に襲われて片足を負傷した。そのときに目覚めたという。彼女には他家に嫁いだ双子の姉がいたが、その娘は全く知らなかったようだ」
 虎牙は一度、自分の手のひらへ目をやった。どうして自分も力が目覚めたのか、考えれば不思議である。もしかすれば、その双子の姉とやらに関係があるのかもしれない。
 が、今は聞くべきことではない。瞳を黒幻に戻し、問いを心の隅に置く。
「力が目覚めれば、血は薄くとも本家妖狩と同等の力を子に継がせることができる」
「じゃあ、妖狩が絶えたら困るって思ったのか?」
 否、と短く答えが返ってきた。黒幻はゆるりと頭を振り、言葉を続ける。
「そんなことはどうでもよかった。妖狩など滅びてもよかった」
 と、整った面が緩む。
「彼女が愛しかったから」
 柔らかな、愛しげな表情。普段の冷たさは完全に消えていた。
「それまでは復讐に生きていた。家族を奪われた復讐を果たす、それが俺の生きる意味だった。目的を果たせば虚ろになる。人間には怯えられ、罵られ。そんな中、彼女と出逢った。俺を人間扱いする、変わった娘だった」
 電灯に照らされる眼は、ちらちらと蒼い燐光を散らしていた。
「娘は俺の正体を知っても、他の人間と何ら変わりのない付き合いをしてくれた。怯えるわけでもなく、見下すわけでもなく。人間と同じように接し、同じように見てくれた――初めて対等に見てくれた、人だった」
 立場を下ではなく対等とした人。盾としての生を強要され、蔑まれ、罵られ、持つ力に怯えられた彼を、同じ位置に立って見てくれた人。ならば、失いたくないとも思うかもしれない。
「彼女の身内と少数の村人は、俺の滞在を歓迎した。婚姻を交わしたときは、子ができたときは、まるで己のことのように喜んでくれた。彼らは何も無かった俺に、様々なものを与えてくれた……必要とされる、それがひどく嬉しかった。もっとも、俺の存在をよく思わぬものが大半だったが、それでも……」
 また、言葉が切れる。音にならなかった声の先で、彼は何を思ったのだろうか。
 もう一台据えられた床が軋み、黒幻の痩せた体が沈む。距離が先ほどと比べて近くなった。互いの呼吸する流れさえ分かる。
「妻が臨月を迎えた日、村近くの山に巣食っていた妖魔を殲滅した帰り、村が火と血の海になっていた。人妖が村人をあおり、そそのかし、結果として俺を始末しようとしたのだ」
 耳にかけられていた髪がまた一房、重力に引かれてぱらりと零れた。
「人妖は人を欺くことに長けている。妖は妖狩に勝つ術を持たない。ゆえに人妖は、ありとあらゆる手段を用いて妖狩を始末しようとするのだ。恐らく、それで偶然目についたのが――」
「妊娠してた、お前の嫁さんだったってわけか……」
 緩慢な仕草で首肯する彼は、先刻よりも暗い眼差しをしていた。窓越しに、雨の音を聞く。再度降りた沈黙も、雫に混じり落ちていく。
 その合間を縫いながら、黒幻の低い声が流れていく。
「村の長老は、俺が出ていかなかったから災いが起きたのだと言った。他の村人も、俺がいなければ殺す必要がなかったと言った。俺を異形として追放しようとすれば、こうはしなかったのだと」
 喉をこする空気が、ひゅう、と嫌な音を立てた。
「俺を受け入れてくれた村人は、化け物を殺す機会をうかがっていただけだと言った。そうして手に持たれていた刃物には血がついて、足下には変わり果てた俺の妻と、義父と、……」
 かすかに乱れた息の下、黒幻はさらに声を紡ぐ。
「その対象が俺だけならばよかった。裏切られることも、化け物と呼ばれることも慣れていたからいい。最初こそ傷つきはしたが、人間にしてみれば少しばかり丈夫な、使い捨てにできる『物』に他ならぬ。事実を言われただけと諦めればそれでよかった」
 一呼吸の間が開く。虎牙は何も言えず、黙ったまま地板に目を落とした。
「許せなかった。俺を人間扱いした、たったそれだけの理由で命を奪ったことが許せなかった。さも己らが正しいという顔をして、他者へ強要し従わないゆえに蹂躙したのが許せなかった。己らの罪を、平然と他者に転嫁したことが許せなかった」
 きつく握られた手の平から血が滲む。声は深く昏くなり、そのくせ息切れをしているかのように速かった。
「妖魔に食われた己の子の残骸と、顔を潰され腹を抉り出されて息絶えた己の妻と、首をはねられ四肢を切断され火に投げ込まれる己の義父と。罵倒する人間の群れと血溜まりと妖魔の笑い声と。それを目の当たりにしたときに意識が呑まれた」
 妻が殺され、子を喰われ、信じていた人々から裏切られ、傷つけられた。そうして今まで堪えていたものが溢れ出し、心の箍が外れたのかもしれない。
「ただ憎かった。己を正当化するために殺した人間も己の欲望のために殺した妖魔も同じだと思った――同じならば全て殺そうと思った」
 白い布の上に、紅の染みが広がっていく。まるで病に侵食されていく彼の心を示しているようで、虎牙は耐え切れずに目をそらす。
 そして翠憐を失ったときのことを思う。視界が徐々に紅に染まって、心の奥から溢れる憎しみに突き動かされるのだ。他人の過去の感情など分かるわけもないのだが、それでも考えずにはいられなかった。
 黒幻もまた、そうだったのかと。
「それ以降会ったものも皆俺を蔑み嘲り俺から略奪した挙句に保身のため殺そうとさえする。だから人間は守るに値しない。だから奪われたものを奪い返す。当たり前のことをして何がおかしいというのか。人間でさえしていることをどうして俺がしてはならないというのだろう」
 徐々に口調が激しくなってくる。もはや息継ぎすらしていない。瞳に鋭い光が灯り、獣のごとく瞳孔が細く裂けた。骨の浮いた肩より立ち上る気配は、紛れもない殺意だ。
 止めるか、逃れるか。この至近距離で何ができるかはわからないが、虎牙はとっさに腰を浮かせて対応できるように意識を張った。
 が、虎牙の反応が次の行動に繋がることはなかった。唐突に声を切り、力なくうなだれる。虎牙も再度、浮かせた腰を落ち着ける。
「奪われたものは返らない」
 少々の間を置いてから、黒幻が低く呻く。先刻の早口とは異なる、どちらかと言えば囁きに近かった。
「他の人間を斬っても無駄なことだと分かってはいる。今していることが、過去に人間たちが俺にしたことと同じだと、分かっている。それでも止まらない。止められない。人間が全て悪いわけではない、分かっているのに止められない」
 言いながら、彼は暗く微笑んだ。諦めにも似た色が、表情をより翳らせている。
「先の言葉も本音だ。そして、お前が聞いてきただろう言葉も全て、偽りなく真実。本来ならあってはならない、人間に対する憎しみや猜疑。盾として生きることを定められた妖狩が、抱いてはならない感情がある。それを抑えられない。止められない」
 妖狩。人の盾となり、人を守る一族。守るべき対象を憎むことがあれば、確かに使命を全うすることはできない。しかしそれ以上に、使命感を塗りつぶすほどの出来事があった。愛おしい者を奪われ、守った者から傷つけられ、殺されそうになる。それでは不信感が生まれるのも無理はない。
 ――ああ、そうか。ふと、虎牙は悟った。
(こいつ、ただすげぇ悩んでただけなんだな……)
 人間は裏切ったから憎い。妖狩は人の盾となるから憎んではいけない。人間は守るに値しない。それでも守らなければならない。化け物と誹られ、殺されかけても憎んではいけない。それで傷ついても、守らなければならない。
 だが人間は裏切って大切な者を奪った。だから奪い返す。でも本来ならば、あってはならない。止めなければならないのに、箍が外れて止まらなくなっている。止めて欲しい。けれど、それを望むのは許されない。使い捨ての道具だから望んではならない。
 何のこともない。妖狩としての使命と、宵黒幻という一個人としての感情との間で揺れ動いているだけだ。人間にだってある感情のせめぎあいである。仮にもここに人格を持って存在する以上、避けられない。
 妖狩という肩書きと立場が多少ややこしくしているだけ、それ以外は人間と大差ないではないか。
「お前って、意外と悩む性質なんだな。まぁ確かに病んでるっちゃ病んでるし、化け物じみて強ぇし、死んだと思ってもすげぇ乱暴に傷治して結局死なねぇし。人間と違うんだってことはもう嫌ってほど分かってるつもりだ」
 うなだれた頭が、少しだけ持ち上げられた。
「でもさ、妖狩って名札取っ払ったら、お前人間と変わらねぇじゃん。同じように感情を持ってるし、同じように悩んでる。それでいいんじゃねえか?」
 かすかに目を見開いて、黒幻が弾かれたように虎牙を見つめた。注がれる視線を受け止めながら、続ける。
「あんまり気にするなとか言えねぇけどさ。世の中名札で区別する奴らが多いし。でもな、それで全部決まっちまう、それで全部判断するのはちょっとおかしいと思うんだ」
 こういうのは苦手だ。改めて認識し、自然と苦笑が漏れる。
「あー……うまく言えねぇんだがな……その、お前の持ってる感情が間違ってるとか、あっちゃならねぇとか、そういうのは無ぇと思う。俺も、お前みてぇになったことあるし」
 どうすれば伝わるだろう。虎牙は必死で単語を探った。
「だから、ええと、とにかくお前、悩みすぎなんだよ。あとそうだ、気負いすぎなんだ。こうあるべきとか言って、自分の首絞めてる。それで自分の感情押し殺して、思いつめて爆発して、でも制御できないから暴走するんだ。で、止まらなくて叫ぶんだろ。だけど、名札しか見てねぇ奴らばっかりだから、誰も聞いてくれねぇんだな」
 黒幻は答えない。この男にしては珍しく、呆然としているらしかった。もっとも、今まで呆然としている場面などに遭遇したことはないから、あくまでこちらの推測なのだが。
「お前だけのせいじゃねぇよ。俺ら人間も悪い。だからって全部許すってことはねぇぞ。それとこれとは別だ。誰かの大事なもの奪ったってぇお前の罪は、無かったことになんてならねぇからな」
 弱々しく、分かっている、と返事があった。
「本来ならばあってはならぬことだから、当然」
「あーまたそれだ!」
 叫んで遮り、虎牙は乱暴に相手の肩をつかんだ。湯冷めして冷え切っている。突然のことに驚いたのか、黒幻がびくりと肩を震わせる。
「そうじゃねぇって言ってんだろ! いいか、妖狩がどうだからってわけじゃねぇ。こんなのは人間だって同じだ。肝心なのは心の持ちようだ、心の! お前、後悔してるんだろ? 妖狩云々じゃなくて、『お前』はどう思ってるんだよ」
 視線がかち合った。揺らめく蒼に、自分の顔が映っている。
「……俺は」
 やがてかすれた声で、黒幻が答えた。
「……止めたい。止められる、ものならば……この、際限もなく続く奪い合いを、止めたい」
 恐らくはまだ、迷っているのだろう。迷って当然だ。人間を憎み猜疑に狩られ絶望しきった心も、それを止めたいという心も、どちらも彼の本心なのだから。
 しかし今、黒幻は自分の意志で選んだ。選んだならば、それを目指してひた走るだけ。
「奇遇だな。俺の目標は、お前を生かして一生かけて罪を償わせるって奴なんだ。あとはまぁ、しぶとく生きて誰かさんを止めるってやつだな」
 虎牙は笑って手を離した。それから自分の羽織っていた夾克を投げてよこす。黒幻は瞬きを一つして、今度はおかしそうに喉で笑った。
「……まだほんの小僧に説教をされるとは、俺も落ちぶれたものだ」
「俺ぁ思ったことを言っただけだ。まだ十七年しか生きてねぇから説教じゃねぇ」
「人間のくせに、俺を人間と変わらぬという。しかも俺を生かすという。つくづくおかしな小僧だな」
「俺だって妖狩じゃねぇか。人間だけど。何だお前、俺の主張に今更嫌とか言うのかよ」
 唇を尖らせて抗議しても、黒幻には通用しなかった。笑う声は途切れない。同時にひどく優しげな音で、ひどく柔らかな微笑を浮かべて、宵を連れる男は言った。
「いいや。そう言われたのは、生涯で二度目だ――やはり悪い気は、しない」

(投稿日:2007.7.14 最終訂正:2008.3.25)

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