月下魔性 


「なぁ」
 同じ問いを発すのも、これで三度目だ。
「まだ着かぬ」
 同じ答えが返ってくるのも、これで三度目である。
「まだ何も言ってねぇじゃねぇか」
「貴様のことだからな」
 隣を早足で歩く男は、ほんのわずかにだがうるさそうな表情を浮かべた。
「何度も言わせるな。ここはまだ表層部、光が届きすぎる」
 表層と彼は言うが、さすがに人気は皆無であった。強く吹き付ける風の音と、時折地響きのように聞こえる妖魔の咆哮だけが木霊している。辺りの空気は、食われ腐っていく人肉の臭いで澱んでいた。
 道先を確認する。慣れた目でも、ほんの少し向こうが全く見えない。光すら飲み込みそうなほどの闇に覆われていた。内側へ消えていくそこに比べれば、確かにここは電灯がある。
 妖は闇を好み、闇に住まう。月以外の光があれば動きが鈍り、弱い者は息すらできないのだ。ゆえに弱者は、闇の潜む場所に溜まる。強者もまた闇を求め、そこへ集う。人間は絶対に近づけないそこに、この男は向かっているのだった。
 知らせを、受けたのだという。玉で出来たかんざしを持っている妖魔を見たと、誰かから連絡が来たらしい。連絡を寄越した人物が何者かは知らないが、彼がそんな情報を簡単に信用するとは到底思えない。
 今までもずっと不思議だった。かんざし一本のために、なぜここまでするのか。亡くなったという妻の――劉翠玉という女性の持ち物を、どうしてここまでして集めたがるのか。
「どこまで行くんだ」
 いきなり聞くのも気が引けて、関係ない問いを口にする。
「もっと奥だ。この先に、時計台を模した塔があるらしい」
 彼はふと足を止め、奥へと伸びていく道を示した。依然として視界は黒一色、全く見えない。時計台とやらも分からないし、そもそもどの辺りを歩いているのかすらも分からない。
「そんなところにいるのかよ? もっと自分で探したほうがいいんじゃねぇのか」
「だからこうして確かめに行くのだ」
「黒幻」
 どうしてここまで必死になるのか。人間も妖魔も無慈悲に斬り捨てる男が、なぜ。
「お前……何でそこまでして集めようとしてるんだ?」
「虎牙」
 珍しく名を呼ばれ、自然と身体が硬直した。わずかに空から零れてくる月光に、その瞳が鈍い蒼に染まっている。風になぶられる髪は柔らかく宙にたなびき、そこにも月光が金粉を散らしている。
 右目を細め、口元には自嘲の笑みを乗せてはいたが、その表情はどこか泣き笑いにも似ていた。
「――守れなかった愛おしい者の欠片で、少しでも正気でありたいのだ」
 なぜか声が詰まって、それ以上何も言うことができなかった。ただ彼の声がひどく優しくて、震えて、かすれている事実が悲しかった。
 彼は笑みを消して顔を背け、今一度道の消える先を眺める。
「答えは出した。これで満足だろう。行くぞ」
「あ、……おう」
 かろうじて返事をひねり出し、恩人の後姿を追いかけた。



 遮るものが無くなり、ようやく月の光で周囲が確認できるようになった。侵食する黒を照らし出す白い光は、不自然に開けた空間を満たす。
 虎牙は注意深く辺りを見回した。広場の奥にそびえる塔は、中国都市部にある巨大な大楼よりもなお大きい。が、そのほとんどは無残にも崩れ落ちており、入り口から中に入ることはできないようだ。
 元々塔以外にも巨大な建造物を立てる予定だった場所ゆえか、相当に広い部分がむき出しのままで残っている。そして、この広すぎる広場に佇むのは二人以外にいない。妖魔の気配すら無いのだ。
「……変だな」
 黒幻も周囲の気を探っていたが、やはり眉をひそめている。気配には獣以上の敏感さを見せる彼にも、気が探れなかったらしい。
 広場を突っ切り、塔へと向かう。足音がやたらに響くのは、辺りに誰もいないからなのか。
 案の定、入り口も潰れていた。扉は滅茶苦茶に壊され、とても中に入れるような状態ではない。妖魔なら無理やり入り込むことも可能ではあるだろうが、窓という窓からうかがえるのは、鉄骨と石とが絡み合ったものだけだった。
「本当にここなのかよ?」
「連絡を寄越した男はそう言っていた」
 黒幻は苛立った様子で舌打ちすると、低い声で刀を呼び出し始める。
「『我為汝盾 我為汝劒』」
 不意に、虎牙の視界の隅で何かが動いた。黒幻の後方――空気が歪みたわんでいる、その隙間から何かが伸びている。
「う……!?」
 腕だ。人間の腕、細くてしなやかな、蒼白い手が伸びている。ふらふらと、まるで何かを探しているかのように左右に揺れている。
 それなのに――腕だけしか見えないはずなのに、全身を押し潰さんばかりのこの殺意は何だというのだろう。
 黒幻の視線が動いた。背後の気配に気づいたらしい。身体を沈め、翻す。鋭い呼気が虎牙の耳に届いた、その瞬間。
「ぅおぉッ!!」
 鮮やかな蹴りが、虎牙の鳩尾に決まっていた。傷口から外れたのは幸いだったが、背中を衝撃と激痛がたたき呼吸が止まりかける。
 舞い上がる埃に咳き込む。ばらばらと落ちるのは、恐らく腐った木の破片だろう。先ほどの扉の奥だと気づいたとき、黒幻の冴える声が響いた。
「そこから動くな。黙って見ていろ」
 あの歪みからは、腕から肘が、肘から肩が現れていく。それに比例するように、殺意が猛烈な勢いで膨らんでいく。心臓が直接鷲掴みにされているような、直接刃物を当てられているような、強い不快感と恐怖が同時に押し寄せてくる。
(何だ、あれは……)
 震える足で無理やり立ち上がり、上の階から突き出た鉄骨と入り口付近の壁の間に身を隠す。
 ずるり、と何かが這い出てくる。のけ反り、両腕を天へと突き上げて、小刻みに身体を震わせながら、白と銀色の何かが――
 同時に、殺意が破裂した。斬撃が黒幻に襲い掛かる。黒幻はかろうじてそれを避けるも、髪の一部が落ち、旗袍の裾に深々と裂傷が走る。
 白と銀で作り出されたそれが、立ち上がる。その姿はまるで、
(人間の……男?)
 妖魔にはあまりにも遠い美しさを持つ、人間の青年であった。
 乱雑に切られた長い銀色の髪を持ち、細い体躯と白い肌をしている。真っ白な衣装に鮮やかな紅の帯を締め、燕尾を思わせる裾を風に遊ばせて、彼は笑っていた。
 背筋を寒気が走っていく。あれは人間ではない。あれと関われば助からない。戦ってはいけない。本能が必死に警告を発している。全身が逃げろと訴えている。だが声をあげれば、相手はこちらに気づくだろう。黒幻の足は引っ張りたくなかった。
 黒幻は気づいていたのかもしれない。あの場所に出現するということも、虎牙がいては満足に戦えないということも。
「畜生……俺は、何もできねえのかよ……」
 悔しさと歯がゆさと自分への苛立ちに奥歯を噛み締めて、虎牙は呻いた。

 物陰に隠れていても、黒幻の声は聞こえてくる。
「貴様が俺を呼び出したのだな」
 放たれた冷たい音を聞き、虎牙は思わず顔を上げて彼を見た。刀で空を切り裂いて、黒幻が低く吐き捨てる。
「取引に応じたぞ。人妖めが。一体どこからあれを手に入れた」
「妖狩、宵黒幻」
 一方の人妖は、焦点の定まらない瞳を細めて微笑んだ。狂気を孕んだ銀色が、黒幻を捉えて離さない。
「知っているぞ。知っている。私を殺すもの。私が殺すものだ。私は一度お前と殺し合いをしてみたかったのだ」
 どこか茫洋とした語り口で、彼は呟くようにそう言った。一方の黒幻は再度舌打ちし、刀を大地へと打ちつける。耳障りな金属音と共に、漆黒が火花を散らした。
「貴様ら妖が彼女に触れるな。早くしろ」
「殺し合いはいい。血の色は、私を落ち着かせる。絶叫は心地よい子守唄だ。お前もそうだろう、宵黒幻?」
「早くしろと言っているのだ!」
 虎牙の周囲にあった埃が、黒幻の怒号で舞い散る。それを見ている人妖は、笑んだまま懐に手を入れて何かを取り出した。
 濡れたように光を弾く滑らかなそれは、深い碧色の石でできていた。石の名前は分からないが、相当いいものであることは確かだ。細長く、恐らくは彫刻が施されている。女物のかんざしだ。黒幻も動揺したのだろう。刀の先端がかすかに震えた。
 それを眺めていた妖が、笑みを深める。
「宵黒幻。私はね、本気のお前が見てみたい」
 子どもが新しい遊びを思いついた、そんな表情で無邪気に囁いた。
「だから本気で、殺し合おうじゃないか」
 月光の下、かんざしが投げられる。妖魔の白い手が翻り、その刹那。
 澄んだ音と同時に、石造りのそれが。

 綺麗に、二分された。

(初稿:2005.11.10 訂正:2008.4.29)








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