妖狩


 昔、稲荷の山に住んでいた悪い狐があった。あまりに悪さをするため、村人は旅の神官にこらしめてもらうことにした。神官にこらしめられてからは、狐はすっかり心を入れ替え、神官の後について回っては人助けに専念していた。狐は神官の言うことをよく聞き、二度と悪さをすることはなかったという。
 神官はしばらくこの地に留まったが、やがて次の地へ旅立つ日がやってきた。狐は泣いて引き止めたが、神官の決心が固いのを知り、ついに諦めた。
 嘆き悲しむ狐を憐れに思い、神官は一つだけ、狐と約束を交わした。
 ――お前に、この社を預けよう。私がまた戻ってくるまで、ここの地を守っていて欲しい――
 かくして狐は、稲荷の山の頂上で、今も神官を待ち続けているのだという。



 県立冠桜高校に、最近ある噂が流れていた。
「銀の髪の青年が魂を抜き取りに来る」
 事の発端は二ヶ月前。夜遅くにとある中学校の女子生徒が家路を急いでいた時のことだ。ふと前を見ると、誰かが前で待ち受けている。月の明るい晩であったので、顔の造作まで見て取れたと言う。
 長い髪は銀、瞳も見事な銀色で、切れ長の一重だったらしい。
 その格好も奇妙だったという。和服、特に着物に似た形で、腰には緋色の帯を締めていた。昔話から抜け出てきたようなその姿は、今の世の中では場違いで、女子生徒はひどく戸惑った。
 が、その青年のある部分を見て、生徒はますます驚いた。青年の頭には狐の耳があり、後ろからのぞくものはやはり狐の尾だったのだ。
 少女はそこで初めて恐怖に駆られ、とっさに声をあげようとしたが、それよりも先に青年が手で口を塞いでしまった。
 青年の手に、手のひら大の珠があった。それを目の前に出された瞬間、少女は魂を抜かれてしまったのだ――
「はぁ?」
「いやだからそういうウワサ。あくまでウワサッ! 脚色されてるとかそーいう文句はなしな! 俺は聞いたのをそのまま……」
 弓月の声があまりに不機嫌だったからなのだろうか、比呂也が取ってつけたような言い訳をする。
 桜はすっかり花を散らし、季節は昨日よりも初夏へと近づいた、そんな日のことである。存外にも、比呂也は昨日深夜のメールを忘れていなかったらしい。
「そーじゃねえよ。何でそんな……その野郎の格好とか詳しく残ってるんだよ? んな冷静に観察できるか、フツー」
「見たってヤツがいたんだって」
「見たら魂取られるんだろ?」
「だから、昨日のメールでも言っただろ? 四組の尾股の兄貴が、コンビニでバイト中に見たって言ってたんだよ」
 話を聞くと、どうもコンビニの目の前でやられたらしい。二十四時間開いている店舗の目の前でやるとは、度胸があるのか何も考えていないのか。
「客来なくてぼーっとしてたら人が通って。そしたらウワサのお狐サマが出てきたんだと。犠牲者が噂通りぶっ倒れちまって、そこを見たんだって。その後出てきて起こしたんだけど、昏睡状態になってたらしいぜ」
「何でそいつも取られなかったんだよ」
 妙な話だ。噂では、その男が持つ珠を見た者は魂を抜かれるのではなかったのか。
「いや……自動ドアの中だったから、らしいぜ」
「はあぁ?」
 意味が分からない。
 どう受け取ったのかは知らないが、比呂也はひどく慌てたように早口でまくし立てる。
「だ、だからっ! 自動ドアが開くのを見たら、急にビクッてなってどっか行っちまったんだよ! ……っていう話で……」
 それから自信なさそうに、小さく最後の台詞をつけ加えた。
 つまり問題の狐とやらは、勝手に動く自動ドアが怖いということか。可愛らしいものである。まあ、狐だから仕方がないか。
 多少なりとも気が抜けてしまった弓月だが、それがどうも顔に出たらしい。比呂也はいささかムッとした表情で語気を強めた。
「何だよその、大したことなさそーだなーって顔は! 確かな筋から仕入れた俺の情報に偽りはねえぞ! 多かれ多かれ誇張はあるけど!」
 威張るようなものではない。むしろ致命的である。しかも最初に言ったことと矛盾していた。とりあえずふざけている場合ではないので、一発すねに蹴りを入れて黙らせるだけにしておく。
 それにしても――銀の男の噂、確かにここ最近話題になっている気がする。新聞でも昏睡状態になる人の数が増加していると報じていた。一日に数人の単位ではあるが、この短期間で四十九人もの人間が倒れている。死者が出ていないのが幸いだ。まだ対処の方法はある。
「なあ、弓月……もしかして、もう調べてる奴だった?」
 実のところ、噂が流れた直後から単独で調査をしていたのだが、正体がつかめないままだったのだ。他にも早急対処物件は山ほどあり、そちらを優先せざるを得ないうちにここまで数が膨れ上がってしまった……というのは言い訳だ。時間は作るもの、それができないなんて情けない話である。
 悲しいかな、本家妖狩の身体は一つしかないのだった。身体が三つくらい欲しいな、と真剣に考えてしまう弓月であったが、それはともかく。
「まあ、ちょいちょいだが……途中で気配が消えちまうんだ。妖気を完全に遮断できるなんざ、そうそう簡単にはできねぇはずだ。話を聞く限り、犯人は狐で間違いねぇんだが……どこの狐なのか、どこから来てんのか、正体が全く分からねぇ」
 通常ならば、現場に残っている妖気を辿って探しだせる。だがこの場合、現場を捜索して妖気を探り出しても、辿る途中で完全に消えてしまうのだ。妖気の残滓だけが、まるでトカゲの尻尾のように残されているだけで、肝心の本体が見つからない。
 妖気をそこまで綺麗に断ち切るには、二つの手しかない。一つは別の空間へと逃げ込むこと。そしてもう一つ。
「――しまった」
 髪の毛をぐしゃりと握り締め、息をつく。普段なら当たり前に視野に入れていたことを、今更になって思い出すなんて。
「……俺としたことが、あいつらの存在をすっかり忘れてたぜ……」
 自分の詰めの甘さに呆れ果て、弓月は低く呻いた。突然取り残された比呂也は、ぽかんとして弓月を眺めていた。

 学校が終わると同時に家へと急ぐ。
 改めて確認したいことができたのだ。事態は急を要する。言い方は悪いが、部活のある幼馴染を待っていたのでは、貴重な時間が無駄になる。
 半ば駆け足で家に帰る。門を押すのもそこそこに、身体を隙間に滑り込ませた。洗濯物を干していた養母、由梨江(ゆりえ)と目があう。満面の笑みで、由梨江は弓月を迎え入れた。
「あら、弓月ちゃん。お帰り、お疲れ様」
「ただいま、おばさん」
 頭を下げると、由梨江はほう、とため息を漏らした。それから本当に嬉しそうな笑みを浮かべ、呟く。
「弓月ちゃん。制服、すごくよく似合うわぁ」
「……どうも」
 複雑な心境のまま、弓月は小さく頭を下げる。由梨江は上機嫌で洗濯物を片付けると、おやつを出すためにいそいそと中へ入っていった。その後を追うように、弓月もガラスの引き戸を開ける。
 通りすがる途中の鏡、映った姿に嘆息する。凹凸の少ない体つき、藍色のリボンタイに白地のセーラー。プリーツスカートも白い。身長が高いため特注品となったが、それでもやはりスカート丈は短かった。一月近く経っても、足がすかすかして嫌なのは変わらない。
 男として育った自分が、女の着る服を身につける。想像しても気持ち悪いし、現にこうして見ても気持ち悪いのだが、由梨江が喜んでいるのならまだ我慢できる範囲である。
 理解者である岡田夫妻は、一般人ならば理解しがたいだろう一族の特性と掟を遵守してくれ、親の遺言通り男として育ててきてくれた。女子の制服を承諾したのは、その小さな恩返しのつもりであるのだが、未だに鏡を見ることには抵抗がある。実際中学までは男子の制服を着ていたし、学校の教師に理解者がいたため特に何も言われなかったのだ。さすがに水泳は女子と一緒だったが、ノリとテンションと陰湿さについていけなかった記憶がある。
 だが、ただでさえあの年頃の子どもは異質に敏感である。少しでも自分たちと違うものを嗅ぎ取れば、彼らは真っ先にそれを攻撃して排除しようとする。仕方ないことだ。それが最も簡単な自衛の方法だから。
 そういえば、そのときから比呂也は自分のそばを離れなくなったんだっけ。何がなんでもついてくるようになって、妖に襲われてもこっそりつけてきて、面倒臭いから許可を出して、それが当たり前になって。もうどれくらい経つのだろう。
 ぼんやりと思い返しながら階段をあがる。突き当たりの部屋の戸を開け、閉め、かばんを投げ出してからようやく我に返った。今は昔を懐かしんでいる場合じゃない。仕事着に着替えて座り込む。時間が惜しい。この推測が当たっているならば、かなり厄介な相手になる。
 長男から譲り受けた地図帳を開く。この辺近郊の地図だ。事件が起こった場所には、既にバツ印がつけてある。五十近くにもなるとさすがに異様さが増すが、問題はそこではない。
 バツの密集地帯のすぐ近くに山があった。稲荷伏山(いなりぶしやま)、という。山と言ってもそんなに高いわけではない。木が鬱蒼と茂った小高い丘であった。頂上には小さな神社が建てられており、地図は赤ペンで印がつけられている。長男は昔から民俗学に興味があったらしい。この付近にある民話や伝説を、一人で独自に調べていたらしかった。その名残なのだろう、
『稲荷伏の社・狐』と小さく書き込まれている。
 バツ印が密集した場所を指でなぞってみる。一見ばらばらだが、線でつないでみればすぐ分かる。
「……やっぱりな」
 山を中心として、線は綺麗な円形を描いていた。
 山のすぐふもとには、おそらく結界が張ってあるだろう。バツ印は山より一センチ程度の隙間を空けてついている。結界にすぐ逃げ込めるように、その周囲で犯行に及んでいたらしい。しかしなぜ、結界の内側で魂を抜かなかったのか――
 不意に、地図帳の裏表紙から紙切れが落ちた。きちんと折りたたまれたそれは、どうも何かの文献のコピーらしかった。拾い上げ、かすれた文字を目で追っていく。そして弓月は、己の直感が的中したことを確信した。
 稲荷伏山の社に祭られたのは、メモにあるとおり狐である。現在起きている事件も、狐の耳と尾をもつ男が関わっている。では、この狐がただの妖怪ではない。一度神へと昇格した、『出戻り』ならばどうだろうか。
 妖が妖気を断ち切る手段は二つしかない。一つは別の空間へと逃げ込むこと。そしてもう一つは、神の住まいに取り憑いて己のものにし、自らの妖気を神気によって打ち消すことである。
 後者は通常ならば不可能だ。妖は基本的に神気が苦手で、触れるだけで消失してしまう者もいる。だが、そんな妖どもでも例外がある。神が妖に堕ちたか、あるいは妖が神となり、再び道を外したか――そのどちらかならば、神の領域に潜むことも不可能ではない。
 いずれにせよ、得心はいった。稲荷伏山の頂上にある寂れた神社、そこが妖の根城になっていることは間違いない。途中で妖気が途切れたのも、神社に住まう狐が張った結界に遮られたと考えれば納得がいく。
「これでやっと動けるぜ」
 弓月は深々と息を吐き、地図帳を放り投げて首をひねった。そうと決まれば話は早い。とっとと終わらせてしまうのが先だ。放り投げてあったジャケットを引っ掛け、身体のばねを用いて立ち上がる。それから扉へ手をかけて、
「弓月ぃっ!」
 成す術もなく顔面にぶち当たった。もろ、である。戸口の向こう、肩で息をする幼馴染が仁王立ちになっていた。どうやら部活もそこそこに切り上げて帰って来たようだ。セットした髪は乱れに乱れ、制服のホックも互い違いになっている。ベルトは後ろから垂れ下がっているし、胴着入れのファスナーは完全に袴の裾を噛んでいるが、さすがに社会の窓は開いていなかった。その気遣いと努力だけは評価に値する。
「ま、間に合ったぁ!」
 満面の笑みで放たれた言葉に、弓月は眉をひそめざるを得なかった。
「何に」
「お前の仕事っ! あっ、そういやどうなったんだ? あれ!」
(ついてくる気じゃねぇだろうな……)
 そんな危惧を抱きつつ、弓月は地図を比呂也に投げ寄越す。
「見てみろ」
「何だコリャ」
「今まで事件があったところに印をつけた」
 地図にはびっしりとバツ印が刻まれている。比呂也はしばしの間、弓月と地図帳を見比べて瞬きをしていた。それを何度か繰り返すうちに、事件の規模を具体的に把握したようである。
「これ……全部あの山んとこじゃねーか? 頂上に狐が祭ってあるとこ」
「ああ。その通りだよ」
「でもあそこって、取り壊しが決まってるんじゃなかったっけか。もしかして、その恨みとかか?」
 取り壊し云々は初耳だが、少なくともそれが大きな理由ではないだろう。
「それを知ってるとは思えねえな。中身は獣、もっと単純な動機だろ」
 弓月は言いながら地図を取り返し、再び机の上に放り投げる。ここで推測を重ねていても、暴走する妖怪を止めることなどできはしないのだ。
 比呂也を押しのけ、今度こそ扉を開く。それから軽く一瞥し、ついてくるなとけん制する。
「お? 出発か? よっしゃ、任せろ」
 が、どうにも通じていないらしかった。制服の上着を脱ぎ、勝手に人のベッドの上に放置する。ワイシャツの喉もとを緩めているあたり、気合万全の様子である。
 それを冷静に観察してから、弓月は腹の底から強く言い切った。
「断る」
「稲荷伏山って、確かバス停あったよな? それとも歩きか? あんまり遅くなると母ちゃん心配するから、できるだけ早めに動こうぜ」
 やはり通じなかった。
「足手まといになるってんなら、ほら、あれだ」
 いや、一応理解はしているのか?
「癒し系だと思って連れてけばいいじゃねーか」
「寝ぼけてんならとっとと寝ろ。そして朝まで目ぇ覚ますな」
 勘違いした自分が馬鹿だった。
「すっきり起きられるんならいいんだけどよ、二度寝しちゃったらアウトじゃね? それだったら疲れて帰ってきてぐっすりのほうがいいなー俺」
 それこそ物心つく前から見知った顔を見て癒されるとでも本気で思っているのか。それともツッコミ待ちなのか。弓月は一瞬だけ考えたが、馬鹿馬鹿しいので途中で放棄した。
「なあ弓月ー、頼むよ、おとなしくしてるからさぁ」
「駄々こねるガキかてめぇは」
 全く、どうにも自分の周りには妙な奴が集まって困る。あれといい、こいつといい、自分勝手にもほどがある。守りきれるか分からないというのに、何でそこまでしてついてきたがるんだか。
 弓月はしばらく逡巡し、やがて眉を寄せて息をついた。ここで断っても、どうせ後ろからこっそりついてくるに決まっている。そこを妖に見つかったら面倒だ。ならば、いっそ目の届く範囲に置いておいて守ったほうがいい。
「……マジでおとなしくしてろよな。それと、あとでロイヤルガーデンのプリン五個おごれ」
「あれ高えのに……」
「命の保障だと思えば安いもんだろうがよ。おら、とっととついて来いよ。癒し系」
 お前って時々意地悪だよな、と女々しい文句を垂れながら、比呂也は弓月の後ろからついてくる。その気配を間近に感じながら、弓月はもう一度嘆息した。



 もうすぐ月が満ちる。が、三日前の月でも十分に明るい。地を蹴り闇を裂くその姿は、白い矢のようでもある。
 獣の耳は人間の足音や話し声を捉えていた。獣の嗅覚は複数の人間の匂いを感じていた。
 足が浮いた。体が宙に舞う。屋根の上から獲物である彼らを見下ろした。五人――男が三人に女が二人。性別など彼にはどうでもよい。魂が手に入れば、男だろうが女だろうが、老いていようが若かろうが、全て同じだからである。
 酒の強い匂いがする。酔っているようだ。歌を歌い猥談をしてはげらげらと笑っている。
 その前に、彼は音も無く飛び降りた。
「あぁん? 何だお前」
 一人が気づき絡んでくる。が、獣は答えない。
「さては俺らが羨ましいんだなー?」
「んなダセェ格好じゃモテねーぞ、お兄さん」
 笑いが起こる。女達も品の無い声で、きゃあきゃあと騒いだ。
「ヤダー、この耳何?」
「コスプレぇ〜? チョーかわいいんですけどぉ」
 獣が手を伸ばす。袖で隠れた手のひらの上に、球形の塊が一つだけ乗っている。
「何だい兄ちゃん、プレゼントぉ?」
 答えない。沈黙のまま、空いた片手で袖を引く。澄んだそれには曇り一つ無い。酒臭い顔が五つ、その珠を見つめる。
 見つめて、見つめて、見つめて、見つめて、見つめて。一斉に、倒れた。
「これで……四十九」
 珠の中に漂う光を眺め、彼は囁いた。ゆるりと銀の尾を振って、柔らかくそれを抱え込む。
「あと、一つ」
 嬉しそうな響きは、月の光と共に零れる。
「どうかしら?」
 その隙間より笑い声。
「どうかしら、順調? 順調?」
 彼はかすかに眉を寄せ、声のするほうへ目を向ける。華奢な影は闇夜の中で、薄らと笑みをたたえていた。
「……順調に決まっている」
「約束は守るわよ。約束は守るわよ」
 すがるような、追い詰められているような、切迫した色彩が彼の瞳を彩った。
「本当だな? 本当に、治るのだな」
「妖狩は必ず邪魔をする。妖狩は必ず邪魔をする」
 影は笑う。ころころと笑う。
「そんなことはさせない」
 彼の手のひらに納まった、美しい珠がきらめいた。月光を弾き、濡れた光沢を放っている。
「あの人を救えるのならば……たとえ妖狩だろうと関係ない。魂を抜き、あの人の糧としてくれよう」
「期待してるわ。期待してるわ」
 二人の背後でノイズが走る。影の姿がひらめいた。彼の姿も矢となり消える。ノイズはやがて収束し、ふつりと音を途絶えさせた。
 道端に転がるのは静寂と、魂の抜けた身体が五つ。吹き渡る風は、無情にその頬を撫でていくばかりである。

(初回アップ:2006.2.14 最終修正:2009.9.29)

 



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