妖狩


 所々に苔が生えた石段を登る。紅い鳥居が点々と建てられており、その鮮やかな色彩が深緑に浮いている。
 聞こえるのは足音と息遣いのみ。鳥の声どころか風の音一つしない。
「……なあ、まだか?」
 比呂也の声は少々かすれていた。やや息が上がっている。
「まだだろ」
 それを低い声で突っ返して、弓月は再び前を見る。静かだ。何の音もしない。逆にそれこそが、異質の者の存在を主張している。
 少し頭を後ろへ向ければ、視界の隅に比呂也が映った。どこか悔しそうに瞳を歪め、眉根を寄せてうつむいている。本当に何もできないことが嫌なのだろう。手の中に握りこまれている紙切れは、知り合いの若い神主から譲り受けた札だった。声を上げたり物音を立てなければ、妖に見つかる確立は格段に下がる。
 もちろん、これは気休め以外の何者でもない。普通の人間が妖気の漂う場所に来れば、それだけでも『当てられて』しまうのだ。最悪、妖気に引かれてやってきたものに取り憑かれることもありうる。鬼や性質の悪い死霊の場合、ことにその傾向にある。たとえ神社や寺院でもらう札を持っていたとしても、憑かれるものは憑かれるのだ。鬼も死霊も、人間の負の感情に引きずられてやってくることが多い。
 弓月はともかく、比呂也が異形の者に憑かれる可能性が無いわけではない。本来なら、連れて行くことは避けたかったのだが――
 そこで弓月の思考が途切れる。後ろにいる比呂也が背中を小突いてきたのだった。
「何だよ」
 出来るだけ静かに問いかける。拍子抜けしたのか、比呂也は答えようとしない。
 なぜか、笑いがこみあげた。
「怖くなったのかよ?」
 声に混じったのが分かったのだろう。むっとしたように、怖くねぇよ、とだけ返ってきた。
「心配すんな。妖狩は、何があっても絶対に人間を守るよう首輪がついてんだ。てめぇは安心してぼーっとしてりゃいい」
 もしも危険になれば、そのときはそのときだ。己の使命を全うするべく、体が勝手に動くに違いない。一緒に逃げることも、おそらくはできないだろう。便利なもんだ、と、弓月は胸中で自嘲する。
 比呂也もその返答が気に入らなかったのか、いささかの不機嫌さを伴った沈黙が降りた。後にはただ、静寂と足音と息遣い。
 やがて社の屋根が見えた。後ろを向き、唇に指を当てる。ここからは完全に妖怪のテリトリーに入る。普通の人間がいれば、悲鳴をあげる前に食われる場所だ。比呂也の表情に緊張が走る。動揺して心に隙ができれば、たちどころに当てられる。安堵させるように、一度肩を強く叩き、弓月はそのまま唄い出した。

  とおりゃんせ とおりゃんせ
  ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ
  ちいっと通してくだしゃんせ 御用の無いもの通しゃせぬ
  この子の七つのお祝いに お札をおさめに参ります
  行きはよいよい帰りは怖い
  怖いながらもとおりゃんせ とおりゃんせ

 空気が周辺の気配ごと圧迫される、独特の感覚が肌を焼く。比呂也が息を飲むのが分かった。もう一度肩を叩き、ゆっくりと身を返して最後の段を踏む。
 目を社に戻し、相対するための歌を紡いだ。ささやきにも似た音で、己の武器を導き出す。

  ひらいたひらいた 何の花がひらいた
  れんげの花がひらいた
  ひらいたと思ったら いつの間にかつぼんだ

 手のひらに現れた重みを握り、弓月は声を張り上げた。
「隠れてねぇで出てこいよ! いるんだろ、稲荷伏山の銀狐!」
 刹那、社の戸が勢いよく開いた。銀の髪と瞳の狐が、弓月の前に降り立つ。青年の頭部に生えた、せわしなく動く二つの耳は、間違いようも無く獣のものだった。人の形を取っていても、周囲の妖気が薄れる気配はない。
 あの噂に少々つけ加えると、身長は弓月の方が高かった。首には金属の首輪をしている。何かに例えるならば、『西遊記』の孫悟空が額につける金冠のような、そんなイメージに近かった。
「ハッ……なるほど。お稲荷様も、元を正せば妖狐ってぇわけか」
 青年の手が動いた。首輪が形を変え、妖孤の腕に巻きつく。逆の先端は真っ直ぐに空に伸びていく。
「物騒なものを持っているな、人間。わざわざここへ何をしに来た」
「邪魔しに来たんだよ」
 完全に、金属が刀に変化する。青龍刀のごとき片刃の剣だ。鍔は無く、柄は腕に食い込んでいる。皮膚を撫でる力の流れは、神主の持つ浄化の力と同じだった。妖がこれを持つには、やはり一度は神の場にまで昇格する必要があるだろう。
 重そうなそれをゆったりと構え、妖狐は声を放つ。
「邪魔をするならば容赦はしないぞ」
「やってみな。狐風情が、妖狩に勝てると思ってるならな」
 逆に挑発をかけてみた。分かりやすいが、引っかかればしめたものだ。
「ふ――氷室弓月か。丁度よい。五十人目はお前に決まった。あの鬼のことは気に入らないが、こうして集められたことは感謝すべきだろうな」
 そして、狐はあっさりと挑発に乗った。うっかり口を滑らせたことに、弓月は胸中で口笛を吹く。自分の名を知っているということは、すなわちここ最近で暗躍している鬼とやらが教えたに間違いない。
 空いた左手が翻り、次の瞬間には珠が出されていた。弓月は軽く目を細め、珠を眺める。無色透明だが水晶ではないらしい。妖怪が時折持っている妖力の塊だろう。だとすれば、中央部分に見える光の塊が、奪い取られた魂に違いない。
「へぇ、そいつが例の宝玉か。いいモノ持ってんな」
 効果のないことに驚いたのか、妖狐が目を見張って後じさった。次いで唇を噛み締め、弓月をにらむ。
「残念だな。俺にはそういうのが効かねぇんだ、よッ!」
 その懐に素早く飛び込んだ。靴裏が石畳と砂利を噛んで音を立てる。つま先に体重をかけて刀を押し込めば、妖も負けじとそれを受けた。妖怪の剣と『月朱雀』が噛みあう。ギリギリと悲鳴をあげる刀から火花が散る。浄化の刃と浄化の刃が、狩る者と狩られる者、双方の間で大きく軋む。
 再度刀が悲鳴をあげる。その一瞬、刃が強く押し返された。弓月と獣は同時に飛び退き間合いを取る。
「くそ……妖狩の一族には、妖術が効かぬのか」
 妖狐は歯を食いしばり、弓月を鋭くねめつけた。
「いいじゃねぇか。これで一つ賢くなったな」
 あえて不敵な笑顔を返してやり、弓月はゆるく歌いだす。

  かごめかごめ 籠の中の鳥は

 歌わせまいと、妖は間合いを詰めて斬りかかる。妖怪の刀を受けつつ避けつつ、低いアルトは途切れない。余裕の表情が相手に焦りを与えることを、十分すぎるほどに知っている。

  いついつ出やる 夜明けの晩に

「やめろ」
 相手が呻く。
「歌を、歌うな!」
 左腕を、刃が走る。一瞬だけ痛みが走ったが、傷自体は大したことがない。浅く薙いだだけだ。だから弓月の歌は止まらない。

  つるとかめが滑った 後ろの正面 だぁれ?

 びん、と、何かを弾く音がした。
「動くなよ。てめぇにはちっとばかし用があるんでな」
 糸籠に手足を固定され、妖怪が動けなくなる。少しでも動けば体は裂け、ばらばらになる。当然暴れることも考慮して、ある程度の隙間は確保してある。妖もそれに気づいてか、悔しげに歯を噛み締めた。
 弓月の耳は、既に別の音を捉えていた。社の奥に潜む、別の何かに気づいていた。神主以外の存在であることは、力の波によって分かっている。

  ふるさともとめて 花いちもんめ
  ふるさともとめて 花いちもんめ
  あの子が欲しい あの子じゃ負からん
  この子が欲しい この子じゃ負からん

「社に隠れた御方が欲しい」
 歌と共に生まれた飛針が、半ば開かれた扉の向こう、閉ざされた社の奥へと吸い込まれていく。一時の間は、呼吸と共に刻まれる。一つ。二つ。三つ。
 三つが四つに切り替わるその刹那、血も凍るような悲鳴と共に何かが転がり出てきた。骨と皮ばかりの姿だが、腹ばかりが不気味に膨れ上がっている。
「餓鬼……だな。こりゃ」
 う、と比呂也が呻く声が聞こえた。とっさに視線を投げかければ、口許を押さえてこくこくとうなずいている。まあ、この反応は仕方がない。
 人間の魂を喰らう鬼は、胸に生えた針を抜こうと醜くのた打ち回っていた。元々は人に取り憑いて空腹にさせる妖怪だったはずだが、知恵でもつけたか、人間の精気の塊を集めて喰おうとしていたようだ。その辺りの区別はあまり詳しく知らないが、そんなことはどうでもいい。
 妖孤の目が見開かれ、早口に誰かの名をささやく。紡いだ名は風にさらわれ、誰を呼んだのかを知ることはできなかった。
「待っていてください、今、手当て……!」
 そして次に発された言葉は、ほとんど悲鳴に近かった。狐は餓鬼に向けて手を伸ばす、掌に収めていた珠が落ちる。餓鬼がそれを取ろうと這いずり寄る。汚らしい染みの筋がつく。
 その土気色の手が、あと少しで珠に届く――直前、弓月は珠を拾い上げた。冷たくも暖かくもない、透き通った塊だ。中を頼りなげに泳ぎ回る光の筋は、思っていたよりも大分力強い輝きを帯びていた。
「これに魂を入れてやがったんだな。結界の外で魂を抜いたのは、結界内で神気を帯びた魂は食えねぇからか。チキン野郎め」
 糸に戒められた腕を懸命に伸ばし、妖孤は再び悲痛に叫ぶ。
「やめろ! それが無ければ、その人の病が治らない! 頼む、やめてくれ!」
「病?」
 話が見えない。弓月は珠から目を離し、妖狐のほうへ向き直る。銀の狐の眼には、薄い水の膜が張っていた。
「その人は、病に侵されて旅から戻ってきた! 病を治すためには、五十人の人間の魂を取り込まないといけないんだって! あの鬼も、あの人もそう言ったんだ! だから頼む! 珠を返してくれ……!」
 足下には瀕死の餓鬼。珠を返してくれと懇願する妖孤。「その人」。弓月はポケットの中にある、長兄が集めていた文献の内容を思い出した。
 この土地に立ち寄った神官が、狐をこらしめて改心させたというものだったが、不思議と狐は神官の言うことを聞き、以来悪さはしなかったという。しかし神官は流浪の身ゆえ、狐に社を託して旅に出た。話はそれで締めくくられていた。
 ならば仮に、長い間彼を待つ獣がいたとしよう。それに目をつけた他の妖が、神官に成りすまし、帰りを待ちわびる獣の前に戻ってきたならばどうだろう。答えは火を見るよりも明らかだ。感極まった獣は、疑いもせず偽の神官を本物と思い込み、忠実にその言を守るに違いない。
 妖術は心の隙間をついてかけるもの。待ちわびた人間に出会った喜びを、餓鬼は恐らく利用したのだろう。それにしても、ただの餓鬼がそんな力をつけているとは想定外だった。これも先日取り逃した鬼の仕業なのかもしれない。
 そんなことを考えつつ、弓月は妖狐へ言葉を向けた。
「お前なあ、妖怪のくせして妖術かけられてどうすんだよ。こいつは餓鬼。てめぇをだまして、集めた魂を食おうとしてやがったってことだ」
「嘘だっ!」
 妖孤は必死に声を張る。認めたくないとでも言うように、何度も何度も頭を振った。
「だって……だって、約束したんだ、また戻ってくるって……! 俺は二百年も、それ以上も待ったんだ!」
 弓月はふと、両親のことを思い出した。行ってくるとただ一言言い置いて、結局戻ってこなかった父と母。身重の体のくせに、これくらい何でもねぇと豪快に笑っていた母。いつも母を気遣い、柔らかく笑んでいた優しい父。生まれてこなかった弟。
 待つということは、つらい。帰ってくると信じて待っていなければ、孤独に潰されそうになる。たとえ周囲に人間がいたとしても異質は異質。人間の輪に入れない存在は浮くしかない。
 だから寂しかった。寂しかったから、帰りを待っていた。死んだ事実が受け入れられず、家族がいつか帰ってくるのだと思い込んでいた――人間は具体的な死の形に触れなければ、永遠にそれを理解することはできないのだ。今目の前にいる、哀れな獣のように。
(ったく……人間も妖も、面倒臭ぇ生き物だぜ)
 懐かしいような、いたたまれないような複雑な心地のまま、弓月はポケットに手を突っ込んだ。
「バァカ。人間の寿命なんざ長くて百二十年だよ。そいつは結局帰ってこなかったんだ」
 指先に触れる硬い感覚を握りこみ、
「見てみろ。こないだそれらしき人物の墓行って、ちょっくら失敬してきた」
 手を伸ばしてそれを見せる。
「死ねばみんな一緒だがな、こういう神職についてる奴ってのは、大体死後も力が残ってるらしいぜ。肉は残らねぇから、持ってこれんのは骨だけだ。大分時間が経ってるもんだから、力自体は弱いみてぇだが。どうだ」
 今度こそ、狐は餓鬼を見た。しつこく弓月の足元にまとわりつき、珠を奪おうとしている餓鬼へ焦点を結び、しっかりと。
「それは……じゃあ、まさか」
「やっと目ぇ覚ましたか、このアホ狐」
 妖術が解けたことに怒ったか、それともいい加減業を煮やしたか。耳につく叫び声をあげ、餓鬼が弓月に飛び掛ってきた。
「ったく、こらえ性のねぇ野郎だ。空気を読まない奴は嫌われるぜ?」
 刀の切っ先を石畳に滑らせる。紅の先端に火花が散り、あっと言う間に燃え上がる。
「――地獄で閻魔に扱かれてきやがれ」
 鋭く息を吐きながら、速く大きく刀を振った。流れて燃え上がる白炎が、一瞬で餓鬼を灰へと変えた。

 刀を消し、未だ呆然とする妖狐を解放する。彼は重力に逆らわず、かすかな音を立てて石畳へ座り込んだ。
 弓月は珠を宙に放り投げ、一刀の元に断ち割った。解放された魂は、次々に自分の体を目指して消えていく。これで昏睡状態にあった人々は目を覚ますはずだ。死者が出なかっただけマシだと思おう。
「もう、帰ってこないんだな」
 虚ろな声音で狐は言った。視線の先には社がある。中にはもう誰もいない、空っぽの社がある。
「もうすぐ取り壊されるぜ。手入れする人間がいないからな」
「おい、弓月。そんな言い方しなくても……」
「事実だろ」
 見かねた比呂也のフォローを突っぱね、弓月は再度狐を眺めた。呆然と座り込んでいた銀の妖は、やがてふらりと立ち上がり、おぼつかない足取りで歩き出す。方角は北。この先は崖しかない。
「おい、どこ行くんだよ」
 腕を引っ張り、足を止めさせる。狐はさびしげに微笑んで、そっとその目を伏せた。
「俺はもう、存在する意義をなくした。約束がなければ、俺がここにいる意味はない。俺はもう、ここには必要ない」
 約束がなければ消える。なんとも単純で、なんとも馬鹿馬鹿しい。これが本当にこの山の主か。弓月はかすかに目をすがめ、つかんだ腕に力をこめた。
 つかまれた狐は唖然として、弓月のほうを見返してくる。
「え」
「せっかく助けてやったのに、その礼もねぇのか、てめぇは」
 渾身の力で胸を締めあげる。こちらの剣幕に気圧されてか、妖孤は涙目になって耳を伏せた。
「大体てめぇ、この山の稲荷神の癖に何勝手に消えるとかほざいてやがる」
「……あの」
「てめぇの主がどうだったのかは知らねぇがよ。命を粗末にしろたぁ言ってねぇだろ」
 がくがくと存分に揺らしてから、弓月は手を離してやった。頭の中身が整理できていないらしい。再び石畳に腰をつけ、銀の狐はぽかんとしてこちらを見つめている。
「あの……」
「社が無くなったから何だ。この山があるじゃねぇか。社が必要ならまた建てりゃいい。俺の知人に頼んで、とりあえずは何とかしてもらう。てめぇが死ねば、それもできねぇぞ」
 弓月は狐に背を向けた。こんな説教をかますなんて――こんなおせっかいを焼くなんて、自分らしくない。
「それよりてめぇがいなくなれば、この周囲にある結界が消滅する。妖が跋扈し放題だ。それは困る。俺としちゃ、てめぇがいねぇと仕事が増えるから面倒臭ぇんだよ」
 甘いな、と内心で舌打ちする。これではまるで、見逃してやると宣言しているようなものではないか。
「妖としてのてめぇは、二百年前に死んだ。じゃあ今ここにいるてめぇは何だ? 今この場にへたり込んでるてめぇは、一体何なんだ? 今てめぇのすべきことは何だ、てめぇはそれを放棄するつもりか?」
 古の契約に縛られている自分と、過去に交わした約束に縛られている妖狐。似た者同士だと思ったのだろうか。似た者だからこそ、助けようと思ったのか。
 違う。自問を心の内側で突っ返す。自分は妖狩で相手は稲荷、土着神になればある程度利用できるようになる。それだけだ。
「勘違いするなよ。てめぇは神にまで登った妖だ。そういう奴は、元に戻せば使えるようになるからな。ま……せいぜい死ぬまでここにいて、俺の役に立つこったな」
 ポケットに手を突っ込み、階段を降りかけてふと気づく。足を止めて振り返り、ポケットから小さなお守り袋を引っ張り出す。
「やるよ」
 ぽんと狐へ投げ寄越し、拾うのを確認してから再び階段を下り始める。比呂也が慌てて後に続き、狐は一人残された。
 やがて呼び止める声が追いかけてきた。
「あの! ……あの、ありがとう! 大切に……するから!」
 涙に濡れるその叫びに、弓月は片手を振って応えるのだった。
 連なる鳥居をくぐりぬけ、アスファルトの道を踏みしめる。比呂也が思い切り息を吐き、盛大な伸びとあくびをして空を見た。
「お、月綺麗だなー! さーて、今日も疲れたし帰ろうぜ!」
「お前何もしてねぇだろ」
「いいんだよ、ほら、俺癒し系だし」
「言ってろ」
 街灯をいくつも通り過ぎ、いくつもの角を曲がって帰路に着く。人通りは皆無に等しいが、不思議と不気味さは感じられなかった。一人で勝手に盛り上がる比呂也を時折いさめつつ、いつものように並んで歩く。軽口を叩きあい、比呂也のつまらない冗談に笑い、それに応じること一時間。
「そういやさ、弓月。狐に見せたやつあるじゃねーか。あれ、もしかして本物……?」
 家に着くまであとわずか、というところで、比呂也がおもむろに問いかけてきた。あー、と弓月は首をひねり、重くなった肩を回してから答える。
「違ぇよ。知り合いの神主に力移してもらって適当に小細工した木の欠片」
 ポケットに残っていた欠片を取り出し、見せてみる。比呂也は最初こそ怖気づいていたが、本当にただの木片だと確信がもてた途端ぞんざいに扱い始めた。親指で上部へ弾き飛ばし、コインよろしくキャッチしてみせる。
「何でそんな面倒臭ぇことやったんだよ、お前らしくねーな。ホントにかっぱらってきたのかと思ったのに」
 これはいささか心外だ。いくら何でもそこまでろくでもないことはしない。自分にだって、一応矜持とかプライドとか、そういった類のものはある。ましてや養ってもらっている身、まかり間違っても養父母の名を落とすような真似はしないよう、この十六年間心がけてきたつもりである。
「馬鹿野郎、墓泥棒なんて縁起でもねぇこと誰がやるか」
「だよな。悪い」
 からかわれると思いきや、意外に素直に謝ってきた比呂也に驚き、弓月もまた押し黙る。ここは普段なら、男子便所に平気で入ってくるお前が世間体語るな! だのうるさく言うくせに。珍しいこともあるものだ。
「……あのさ、弓月」
 黙りこんでから数分の後、比呂也が言った。
「何だよ」
「お前、やっぱすげえ優しいよな。うん、全然変わんなくて安心したぜ」
 しみじみと、しかしやたら嬉しそうに語られた言葉が、胸に重くのしかかる。彼は何も知らない。もう一人の幼馴染のことも、妖の区分が人間にまで及んでいることも。何も知らない、ということは、本当に――幸せなのだと思った。
 こういう風に穏便な終わり方ができることなど、本当に稀であることを彼は知らない。だからこそ、こうしてついてきたがる。昔から変わらないのはこいつのほうだ。どんなに危険だと言ってもついてくる。何だかんだで、自分はそれが嬉しかったのかもしれない。だからつい、本当に危ない仕事以外に連れて行くことを許してしまっていた。
「へへへ。やっぱ弓月はすげぇよ。次もよろしくな」
「うるせぇよ、ちったぁ役に立つ努力しやがれ、チキンめ」
「ひでぇ」
 止めなければならない。これ以上仕事について回られれば、いずれこちらの行動に支障が出る。何の力もない者を守りながら戦うのは、考える以上に至難の業だ。妖の活動が活発になっている今、一般人を連れて動き回るのは危険すぎる。
 分かっているのについ折れてしまうのは、ひとえに自分の甘さのせい。だが、その甘さのせいで理解者を失うのは避けたい。もうこれ以上、巻き込むわけにはいかないのだ。忌々しい運命のせいで失った、かつての友人のようなことにはなってほしくない。
 弓月はひっそりと嘆息し、天を仰いだ。屋根の影から顔を出す月は、弓月の胸中を見透かすかのように、ただ静かに地上へ光をこぼしているだけであった。

 涼しい風が深緑の海をざわつかせていく、初夏の頃である。

(初回アップ:2006.2.14 最終訂正:2009.9.29)

 



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