妖狩


 力が、溢れていた。今までにないくらい強大な、力だった。穿たれた穴を通るたびに、身体を力が満たしていく。誰に気づかれることもなく、一瞬で別の場所へとたどり着く。常に新鮮な獲物にありつけ、力はさらに増していく。
「気に入ったかしら」
 獲物に牙を立てた彼女に、傍らの影はささやくように問う。
「気に入ったかしら」
 彼女は答えない。哀れな獲物は瞬く間に骨皮だけのモノとなる。しなやかな糸に絡め取られたそれを打ち捨て、彼女は影へと向き直る。
「気に入ったけれど、もう普通の人間では駄目ね。あっさり殺してしまえるから、物足りないわ」
「じゃあ、いいことを教えてあげる」
 影は小首をかしげて笑った。
「じゃあ、いいことを教えてあげる。妖狩の本家を食らいなさい」
「妖狩……? あんな奴らのところに行くなんてごめんよ。消し炭にされるのが関の山」
「妖狩の本家を食らいなさい。あの子の血肉を飲み食えば、不老不死が手に入る」
 彼女の目の色が、変わった。
「不老不死ですって? それは本当? 本当なの?」
「あの子の血肉を飲み食えば、不老不死が手に入る」
 影は笑う。ころころと笑う。
「どこなの? 早くして頂戴。不老不死になれば、いつまでも私は美しいままなのだわ。その男の居場所を、早く、早く教えなさい」
「案内はしてあげる。案内はしてあげる」
 彼女はついと立ち上がった。食い入るように影を見つめ、影は笑んで手首を返す。ノイズと共に現れた裂け目は、不安定に揺らめきながら口を開いていた。ためらいもなく彼女は潜る。裂け目は彼女の美しい姿を飲み込んで、ぱちりとノイズを弾けさせた。
 影はその背を見送りながら、一人でころころと笑い続ける。 
「歳の若い妖狩がいるわ。歳の若い妖狩がいるわ。名前は氷室弓月」
 うっとりと、どこかほの暗い笑みを浮かべ、影は一人の名前をささやいた。
「名前は、氷室弓月……ゆづ。ゆづ」
 影はいつしかノイズに消えて、後には干からびた死骸だけが残された。



 弓月は頬杖をつき、窓の外を眺めていた。時刻はもうすぐ正午になる。数学の授業中だが、いくら聞いても頭の中に入ってこない。大体気が散るような授業をするほうが悪い。どうせ赤点を取るなら、見ない聞かないを徹底したほうが気分的に楽でいい。
 木漏れ日がキラキラと机に落ちている。前にいる女子の白いセーラー服にも、緑がかった光が踊っている。スズメが光の中で舞うのが見える。それをぼんやりした目で追っていると、その中に突然紅が混じった。
(……ん?)
 動いている紅を凝視する。これから暑くなるだろう時期なのに、真っ赤なロングコートを着た女であった。校庭に入ってきたところを見ると、誰かの保護者かもしれないが、どうもそうではないらしい。
 女は校庭の中央まで来ると、躊躇うようなそぶりを見せた。あと一歩が踏み出せない、そんな様子で校庭をうろついている。
 弓月はふと眉をひそめた。人間のものと得体の知れないものが溶け合い、混ざり合ったかのような奇妙な感覚がある。時折投げかけられる視線には、明らかなためらいがあった。まるでこちらの動向をうかがっているような、ひどく鋭く冷たいものも混じっている。
(何だ……?)
 やがて女は立ち去った。遠ざかる背には、見事な黒い髪が流れている。それが一瞬ざわめいたようにも見えて、弓月はさらに眉を寄せる。
 あれは一体なんだったのだろう。異形のものにしてはあまりにも人間すぎるし、人間にしてはあまりにも異形すぎる。ハーフなんて話は、よほどのことが無い限り聞いたことすらない。もっとも――人間と異形の合いの仔は、大抵どちらかの手によって処理されることがほとんどだ。
 稀少例がほいほいと出てくるはずがない。そうすると、妖怪か人間かどちらかしかないわけだが……
「……妙だな」
「何がおかしいんだ? 氷室」
 独り言が先生に聞こえてしまったらしい。仕方なく視線を戻せば、案の定気を散らせる張本人がいた。
 まだ誰も言ってなかったのか。指摘してやればいいのに。周囲に視線をやれば、机に突っ伏して笑っている奴が多数いた。
 まぁ、たまには狙ったことをしてもいいか。弓月はまっすぐに教師の目を見つめ、
「先生。櫛、貸しますか。ご自慢の髪が、大いにずれて落ちそうですよ」
 弓月はいたって冷静に、珍しく大真面目に、そして力強く――言い切った。教師の頭を彩る髪束が、ぱさり、とかすかな音を立てて床に落ちた。

 そんなこんなで昼休み。大いにプライドを傷つけられた数学教師は、大人気なく担任に告げ口したらしい。職員室に呼び出され、担任にこってりと絞られた。が、肝心の説教内容は頭には入らない。紅のコートの女の影が、脳裏にちらついて離れずにいる。
 教室に戻り、弓月は比呂也に女についてそれとなく尋ねてみた。比呂也は小さくうなって腕を束ねる。数学教師の頭を視界に入れぬよう、窓の外を眺めていたという彼だが、やはりコートの女は見ていないらしい。
「校庭に入ってきてたんだろ? だとしたら、保健室の先生が見てるんじゃねーか?」
 保健室は一階の中央部に面している。校門から部外者が入ってきたときには、真っ先に気づく位置にあった。しかし、職員室から戻る途中で聞いてみたが、やはり目撃の証言は得られなかった。
「そのときに先生がいなかったってことは?」
「体育館で九組と十組が体育やってんだ、いなかったら困るだろ」
 実際に何人かが怪我をして、手当てをしてもらったという話を聞いている。当然、紅コートの女は見ていないそうだ。
「……それにしても、紅いコートねえ……大体さ、こんなクソ暑ぃ時に着るか? フツー」
 比呂也の意見ももっともである。そもそも今の季節は初夏、おまけに今日はかなり暑くなるとの予報が出ている。風まで熱気を帯びているのだ、そんな時にコートなど着込んでいれば、たちまち倒れてしまうだろう。
 となると――やはり可能性は一つしかない。弓月は下敷きで顔を仰ぎつつ答えた。
「じゃあ、フツーじゃなかったらどうだ」
「え? ……あ」
 つまりはそういうことである。人間が妖の力を持ったか、はたまたその逆かは分からないが、人外の力を持っている者は大概痛みや熱、寒さにも強くなる。例外も当然いるし相性もあるが、概ね人から離れれば離れるほど耐性が増すのである。コートを着ている理由は不明だが、それで気を引くこともできるだろう。
「俺好みの女っぽいんだがな……どうすっかな」
 よくよく思い出してみれば、身長が高くてほっそりとした美人だった気がする。弓月はスレンダーな大人の女が好みなのだが、当てはまっていたら少し困る。そんなことを考えていたら、幼馴染が肩を落としていた。相当派手な落ち込みっぷりである。
「おい比呂也、どうした」
「や、俺ってさぁ……何でもない……」
 目が虚ろなのは暑さのせいだろう。とりあえず気にしないことにした。
 比呂也の部活が終わった帰り道。学校帰りの学生たちでにぎわう通りを、弓月は比呂也とそろって歩いていた。
「あれが妖だとすると、獲物を求めてさまよってる可能性がある」
「そんなこと、できるのか?」
「たまにそういう奴がいるんだよ」
 すれ違う人々に目を走らせつつ、弓月は苦々しく言い捨てる。
 妖――妖魔と妖怪、通常はそのどちらも夕刻から夜にかけて行動する。月の光は昔から、よきにしろ悪しきにしろ、魔の力を増幅させる作用があるという。妖狩を筆頭とする同業者たちが、危険を承知で夜半に行動するのは、それだけ多くの妖が活動する時間帯だからだ。
 しかし、稀に該当しない者がいる。人間に擬態する能力を持つ妖がそれである。
「奴らは人間社会に溶け込むために、身体の適応をしてるんだよ」
「何のために?」
「狩りをしやすくするために決まってるだろうが」
 人間の中に紛れ込めば、狩りをすることはたやすい。ましてやそういった輩は皆、任意の姿となることができる。さらには現在の状況だ。元々擬態を得意とし、さらに人を襲う妖怪が、何らかの影響を受けて暴走すれば――その先は言うまでもないだろう。
「……じゃあ、どうやって探すんだ? 探すのは難しいんじゃねえの? 目撃者もいないみたいだしさ」
 弓月は一度視線を外し、軽くため息をついた。
「もしかしたら、ここ以外の場所で紅いコートの女を見てる奴がいるかもしれねぇ……そういうのがないか、後で九十九鬼(つづらき)の尊杜(みこと)にでも連絡つけてみる」
「み……尊杜さんか……なら大丈夫、かな」
 比呂也が引きつった笑いを浮かべる。絡まれたときのことを思い出しているのだろう。
 九十九鬼尊杜は妖狩の分家、自分の次に強い能力を持つ九十九鬼家の跡取りである。頭の回転が速く有能な男だが、いかんせんあのノリとテンションについていけない。比呂也はなぜかターゲットにされており、しょっちゅうもてあそばれていた。弓月自身も血がつながっていること自体が信じられないし、できることならば会いたくない部類に入る。
 学生でなければ、自分で調査ができた。あんな奴の力を借りなくてもいい。しかし、高校進学を取りやめることはどうしてもできなかった。未だ引きずる過去の傷が、幼馴染と離れることを拒絶したのだ。今はもう触れたくもない、重く蓋の閉ざされた記憶。同じことは繰り返したくない。せめて、自分の理解者だけでも同じような道を通らせたくない。
 尊杜と最後に会ったのが二年前、高校進学はもちろん止められていた。妖狩は人の盾、より多くの命を守るために、時間をこれ以上取られるわけにはいかない。弓月に繰り返し語ってきた尊杜に何と言われるか、想像するには難くない。
(あいつ、普段はちゃらちゃらしてる癖に、妖狩のことになると気持ち悪ぃくらい真面目になるからな……)
 あの派手な顔を思い浮かべ、もう一度、今度は深いため息をつく。気は進まないが仕方がない。言及されたら、そのときはそのときだ。
 再度周囲へ注意を向ける。依然として、昼間の気配は現れなかった。

「また失踪事件か、物騒になったなあ……」
 夕食後。テレビのニュースを見ていた養父弘正(ひろまさ)が、おもむろにぽつりと呟いた。
「しかも若い男の人ばかりですってね。うちの子も心配になってきたわねぇ」
 由梨江も心配げに相槌を打ち、優雅なしぐさで茶をすする。そんな両親を横目に、比呂也は皿を抱えたまま胸を張った。
「へーきへーき。弓月が守ってくれるって、な、弓月!」
「プライドってもんはねーのかお前」
「俺超弱いし!」
「威張るようなことかよ」
「だってお前、少なくとも正義の味方じゃん? だーから大丈夫! 期待してんぜ、弓月!」
 無条件の信頼は、時折妙に苦しくなる。妖狩はお前が思ってるように、弱い者のために戦ってるわけじゃねえ。そんな言葉をかろうじて飲み込み、弓月は短く「あっそ」と言い捨てた。さほど気にした様子もなく、比呂也は鼻歌交じりで台所に向かう。今日の洗い物は比呂也の当番だ。あの調子だと、胸中を悟られてはいないようだ。柄にもなく安堵し、弓月は再びテレビを眺める。
 ニュースは続く。被害者は日本の各地に点々とし、だんだん中心に向かっていくにつれて増加している。被害者は白昼のうちに行方不明となり、その地点から近い場所――付近の山、あるいは破棄された旧道のトンネルなど、人気の少ない場所に放置されているのだという。皆乾ききったミイラ状態の死体で発見されており、目撃情報も一切無い怪事件として、この一週間報道されっぱなしだった。
 ミイラ状態ということは、全身の体液が抜かれているのだろう。白昼堂々さらわれ、犯人の目撃情報が皆無、そして人気のない場所で変死体が発見される、ということは、やはり人間の犯行ではないだろう。
 しかし、各所の同業者とて何もしていないはずはない。これくらいの予想は駆け出しだってできる。
(とんでもねぇスピードで移動してるのか? ……まさかな。いくら妖でも、そりゃ無理だ)
 風穴は妖の世界につながっている。しかし、その開き方はあくまでもランダムだ。場所の特定などできはしない。強い怨念があればできるかもしれないが、妖自体がそんな感情を持っているとは聞いたことがない。妖は負の念に惹かれるものであって、負の念を抱くものではないのだ。
 弓月が思案をめぐらせる目の前で、にわかにニュースキャスターが声をあげた。次いで
 大きく表示されたテロップには、
『新情報! 行方不明男性の周辺に現れていた、紅いコートの女性の行方は!? ――某県北東門(きたあずまかど)町にて目撃情報』
 紅い、コートの、女。北東門町で、目撃。北東門町はここだ。キャスターは続ける。一番新しい犠牲者は昨日の夜行方不明になり、今朝見つかったばかりだ。場所は違う。ここではない。もっと遠い。一日では到底たどり着けないほど遠く離れた山奥だった。どうやって移動した。男性が行方不明になる前に女がうろついているのを周辺住民が見た。他の場所でもそうだった。どうやって移動した。一瞬で移動できる術はない。夜半に移動した? タクシーを使った形跡はないという。徒歩? 不可能だ。電車も新幹線もそれらしき人物を見た人はいない。飛行機? 違う。船。違う。一瞬で移動など人間にできるわけがない。妖でも不可能に近い。近いはずだ。
「……弓月ちゃん」
 思考に由梨江の言葉が混じる。普段のおっとりした姿からは想像できないほど、彼女は狼狽していた。
「比呂也、台所にいないわ。家中探しても見当たらないの。お皿は洗いかけでそのままだし……」
 そんな馬鹿な――言いかけて、弓月はとっさに身を起こした。
 空気がざわついている。奇妙な雰囲気が辺りを包んでいた。ぴんと張り詰めた空気、神経をじかに撫でられているような不快感。ざわざわと風が鳴っている。その音の合間を縫って、女の笑い声がした。甲高く不気味な声が、耳を舐めて流れていく。
「弓月ちゃん? どうしたの?」
 由梨江の問いかけに答えず、弓月は庭に飛び出した。笑い声は止まない。サンダルを突っかけ暗い空を見上げた。それから周囲を見回し、
「蜘蛛の糸……」
 竹の葉についた透明な糸を見つけた。気づけば笑い声は止み、生温かい空気が辺りを満たしている。そのくせ手足が凍えるほど冷たいのは、妖気が充満しているからだ。
「弓月ちゃん」
「出ないでください」
 厳しい声音で制すると、弓月は素早く部屋に戻った。窓を閉め、鍵をかけてカーテンを引く。
「おばさん。勝手口の鍵には、異常ありませんでしたね」
「ええ……弓月ちゃんの言うとおり、お塩盛っておいてあるわ」
 塩は清めの力を持つ。入り口に二つ盛っておけば、悪いものを内側に入れず、悪いものを外へ出さない簡単な結界を作り出す。破られたとは考えにくい。
 弓月は台所へと足を向けた。小さな器に盛られた塩は、依然として綺麗なままだった。扉は薄く開いており、冷たい妖気が境界線の外側にわだかまっている。
 内側には入られていない。入られていないならば、外に出たのだ。あるいはおびき出された。扉に触れることはできなくても、声をかけることならできる。境界線の外に出れば、人は無力な餌となる。
「馬鹿野郎……!」
 自分の詰めの甘さを痛感し、歯軋りをして弓月は呻く。修行不足だった。いつ連絡が取れるとも知れない男に頼る前に、違和感を覚えた時から徹底的に洗い出していればよかった。妖狩がついていながら、何と言う失態。だが、それを悔やんでいる時間はない。
「おばさん、誰かが訪ねてきても、絶対に扉は開けないでください。できることなら、怯えずに待っていてください。絶対に、生きたまま連れて戻ります。ですから、俺の言いつけを守って待っていてください」
 由梨江は黙って唇を噛み、祈るように両手を組んだ。弘正が、そんな妻の肩をそっと抱いてうなずく。
「わかった。気をつけてな、弓月ちゃん」
「弓月ちゃん……絶対に、帰ってきてね……絶対よ」
 両親の死を思い出したのか、由梨江は瞳に涙を浮かべて弓月の手を握り締めた。細かく震える小さな両手を、弓月は力いっぱい握り締める。
 人間と妖狩は、心を交わらせることなどできない。いつか誰かがそう言っていた。けれど、今この瞬間だけは人間であらせてほしい。意思持たぬ盾だとしても、道具だとしても、人間なんだと思わせてほしい。
「分かりました。死なないで、帰ってきますから」
 二人の養父母は、ようやくかすかな笑みを見せた。不安に彩られてはあるが、自分の子どもに向けるのと何ら変わりない、暖かな笑みであった。

(初回アップ:2006.3.2 最終訂正:2009.9.29)

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