妖狩


「比呂也!」
 空に向けて突き出した手が、力を失っていく。あのままでは息ができず、窒息死するだろう。
(あぁクソ、面倒臭ぇことさせやがって……!)
 刀を大きく振りかぶり、弓月は早口で炎を呼んだ。

  三つとや 皆様子供衆は楽遊び 楽遊び
  穴一こまどり羽根をつく 羽根をつく

 刀が白をほとばしらせる。唄に導かれて生まれた炎は、流れに沿って駆け巡り、一瞬にして燃やし尽くす。何が起こったのか分からないらしく、比呂也は目を幾度も瞬いた。
「……あれ?」
「あれ、じゃねぇよ。ホントお前邪魔しかしねぇな、足手まとい」
 腹いせに、思い切りすねを蹴りつける。さすがに自分のしでかしたことについて反省をしているのか、比呂也はばつが悪そうに目をそらした。
「……ごめん」
「ごめんで済むなら警察はいらねぇんだよ、大馬鹿野郎」
 これでは何のために突き放したのか分からない。呆れてため息をついてから、弓月は奥でヒステリーを起こす女を指し示す。
「俺が言った意味が分かったか? あの女、お前を殺そうとして蛇を呼び出した。そうじゃなけりゃ憑き神は動かねぇ。憑き神は怨念で動く生き物……使う奴の心ん中に、常に怨みと憎しみがなけりゃ」
 ぶつりと言葉が途切れた。頭の中が白くなっていく。
 比呂也の後ろ側に、新たな大蛇が現れていたのだ。既に距離は一メートルもない。牙を剥き、目前にいる獲物を食い殺そうと口を開いている。このままでは比呂也が危ない。刀を構え直す時間もない。他の武器を呼ぶ余裕も無い。
 ならば。
 弓月はとっさに比呂也の肩をつかみ、強引に立ち位置を入れ替えた。比呂也が何かを言うか言わないか、判別する暇すらなかった。
 左肩と二の腕に、太い牙が突き刺さる。痛みと熱が同時に襲うが、歯を食いしばって耐え抜いた。呻きも喉で押し留めた。腕の痺れは何とかなるだろう。汗は雨が流してくれる。顔色だけは仕方がない。
「弓月! 弓月、お前、俺をかばって……」
 狼狽する比呂也を目で制す。ここで心を乱してはならない。下手をすれば、錯乱している間に憑き神をつけられる。その前に決着をつけねばならない。これだけ何度も呼び出しているのなら、そろそろ限界が近いはずだ。おそらくこの蛇を何とかすれば。
「……うるせぇな、ちったぁ黙れよ」
 噛み締めた歯の間からそう言うと、弓月は痛みを堪えながら刀を逆手に持ち、大蛇の喉を突き通した。大蛇は鮮血をほとばしらせながらのた打ち回り、やがて絶命して消え去った。
 楓の身体が二つに折れた。濡れた大地に横たわるのは、それとほぼ同時だった。案の定、力を使い果たしたのだ。人間にも妖にも、肉体の限度というものがある。むやみやたらに力を使えば、命すら削られて死に至る。
 雨に傷口が濡らされ、血は止まることなく外へ流れ出していく。手先が血液を失って、自分の体ではないくらいに硬く冷たくなっていた。
「弓月、止血したほうが」
 皮手袋に包まれた手を握り締め、比呂也が焦りをにじませる。先ほど喧嘩したことを忘れているのだろう。だが不思議と、幼馴染の体温は心地よかった。
「構うな。これくらい大したこたぁねぇ」
「だけど」
 今は甘えている場合ではない。弓月は刀の先で旅館を示し、比呂也の手を解いて指笛を吹いた。一陣の風と共に、尊杜がふわりと地面に降り立つ。
「こいつを元の場所に連れてけ」
「りょーかい」
「何、弓月、おい」
「比呂也」
 鋭く言葉を遮って、弓月は一つ頭を振る。突き放したというのに、本末転倒もはなはだしい。拒絶したというのにこの様だ。
 けれど、これだけはどうしても譲れなかった。たとえ絆がなかったとしても、恐らく自分は同じことを言うだろう。
「……てめぇは、幼馴染が人を殺す瞬間を見てぇってのか」
 呟くように尋ねると、比呂也は黙ってうなだれる。
 憑き神の呪縛を解くためには、妖狩が自らの手で断ち切らなければならない。だが、たとえ妖として認識されていたとしても、相手はただの人間なのだ。人間を斬るのに躊躇わない者はいない、でも斬れないとは言わせてもらえない。自分は妖狩で、妖を斬るのは当然だから。
 できないのならば逃げるしかなかった。逃げられないと分かっていても、逃げずにはいられなかった。怖かったのだ。幼馴染に嫌われるのが、絆が壊れてしまうのが怖かった。だから突き放したのに、こいつは来てしまった。これが最後の賭けだったのに、そんなことすら関係なしに来てしまった。
 本当に馬鹿だな、こいつも俺も――小さく一人ごちながら、弓月は再三比呂也を促した。
 比呂也が一度口を開く。が、何も思いつかなかったのだろう。うつむいて首を振り、尊杜の背に担がれる。来たときと同じようにして、尊杜の姿がかき消える。それを最後まで見届けて、弓月はゆっくりと楓の元へ歩いていった。
 彼女は仰向けに横たわり、顔を背けていた。
「言い残すことは」
 低く問うと、楓は喘ぐ息の下でぽつりと呟いた。
「私はね、……姉さんが大好きだったの……優しくて、頭がよくて、大好きだった……」
 走馬灯が見えているのか。それとも幼い記憶を思い返しているのか。水に溶ける告白を、弓月は丁寧に拾い上げて胸に収めていく。
「私は体が弱くて、たまに外に出るといじめられて……泣きながら帰ってくると、姉さんはすぐに飛んできてくれた。泣き止むまで、ずっとそばにいてくれたの……」
 黒い布に包まれた胸がせわしなく上下する。命を削って蛇を呼び出していたのだ、もう長くない。
「ずっと一緒よって、約束したの……でも、あの男は姉さんを私から奪ってしまったの……ずっと一緒じゃ、なくなっちゃったの……許せなかった、姉さんを奪ったあの男も、結婚を承諾した両親も、結婚を促した姉さんの友人も、みんな許せなかった……」
 しかし弓月は、黙ったまま続きを待った。きっと彼女も聞いてほしいから、最期の力を振り絞って語っているのだろう。そう思えたのだった。
「姉さんが大好きだった……でも、それと同じくらいに許せなかったの……姉さんに、ただ傍にいてほしかった、ただそれだけだったの……よ……」
 ぱたりと目を閉じた。長い睫毛が震えている。雨ではない雫が幾筋も伝い落ちていく。呼吸も浅く、ゆっくりになってきていた。
「これで、お終い……人を呪った、反動、よね……私は、罰を、受けるのだわ」
 小さな呟きに、弓月は答える。
「罪はいつか償われる。……償い終わったときは、あっちで存分に幸せになれ」
 確証はない。だがそれでも言ってやりたかった。
 自分にそんな資格があるのかどうかと問われれば、それは否だ。しかしそうすることで、この女性が少しでも救われるのなら。助ける方法が選べないなら、せめて言葉で楽にしてやりたい。それくらいならきっと許してもらえるだろう。
 弓月は静かに目を閉じる。
「……そう、言って、もらえるなんて……ありが、とう……辛いこと……押し付けて、ごめんな、さい」
 最期の言葉も拾い上げ、弓月は刀を振り下ろした。



 電車を降り、帰る途中の道すがら。弓月は一人、陽炎を踏みしめて歩いていた。比呂也も尊杜ももういない。駅に着いたあと、それぞれが各々の用事があると言って別れてしまった。今は弓月ただ一人が、ぶらぶらと当てもなく歩き回っている。
 もう昨日のことになる。あの後――女将からは責められると思っていた。妹のかんざしを持ち帰り、渡したときに弓月はあえてこう言った。
『俺を恨みたければ恨んでもいい。憎みたければ憎んでも構わない。あんたの妹を殺したっていう事実は変わらないからな』
 憎まれると思っていた。罵られると思っていた。だが、そんな弓月を待っていたのは、女将の感謝の言葉だった。
『妹を救ってくださって、ありがとうございました』
 無理やり言っているようには見えなかった。心の底から感謝をしているように、女将は頭を下げたのだ。
『妹が、夢の中で教えてくれました。あなたは悪くないとも言っていました。本当に……嬉しそうに笑って、もう大丈夫、と……あの子の心をを救ってくださったのに、どうして憎むことがございましょうか』
「憎んでくれりゃ、いっそ楽なのによ……」
 ぽつりと零れた独り言は、焼けたアスファルトに触れて消える。
 罵ってくれればよかった。そうすれば、人間と妖狩の考えが違うからと思い込むことができたのに。境界線を引いて、溝を開いて、一人になることができたのに。
 重い足を引きずりながら坂を登る。ここを越えて公園を突っ切れば家に着く。双子はもう家にいるだろうか。どういう顔をして会えばいいのだろう。
「よー」
 いきなり肩が叩かれる。否、殴られたと言ったほうがいいだろう。蛇の牙が突き立てられた、ちょうどその部分を的確にえぐっている。あまりの痛みに悶絶し、思わず電柱にすがり付いて額を打ちつけた。声を出さないのは、なけなしのプライドである。
 後ろを振り向けば、そこには満面の笑みを浮かべた金髪の青年がいる。さすがに日中は暑いのだろう。革のジャケットを腰に巻きつけ、白いタンクトップにジーンズだけの涼しげな姿だった。
「何だ? 新しい遊びか?」
「違ぇよ馬鹿たれ……」
「約束どおり、話しに来たぜ」
 人の話を聞かなさそうな男だとは思っていたが、本当に人の話を聞かない奴だ。どこかの誰かを連想させる。呆れてものも言えなかった。
 そんな弓月の様子を知ってか知らずか、青年はにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「ここで会ったのも縁だ。ちっとばかし話ぃ聞いてやるよ」
「は」
「いいからいいから」
 いきなりの超展開に、頭も身体もついていかない。その間に腕がつかまれ、かなり強引に引きずられていく。
「これから俺と話するぜ!」
 まるで喉でも鳴らしそうなほど、金の虎はご機嫌だった。今はそんな気分じゃないと主張しても、案外スルーされそうな気がする。
 やれやれだ。弓月は現状に反して重いままの心を、しっかりと抱えなおして引きずられていた。

 雨の名残で空気が潤み、陽炎と共に景色をぼかす、夏休みの昼下がりのことである。

(初回アップ:2006.3.11 最終訂正:2009.9.29)

 



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