妖狩


 うだるような暑さが肌に貼り付く、夏休みの昼下がり。弓月は公立図書館から帰る道すがら、先日の事件について話していた。つい五日前の出来事だが、慣れすぎて麻痺した感覚では遠い過去のようにも思えてくるのが不思議である。
「弓月、そういや傷、もういいのか? 出歩いたらまずいんじゃ」
「よかぁねぇが、俺がぶっ倒れてるわけにはいかねぇんだよ」
 傷はまだ治っていない。医者には事故で切ったと言い、幾針か縫ってもらった。ようやくふさがりつつはあるが、完治までには時間がかかるそうだ。ちりちりと熱に焼かれて痛む箇所、右のわき腹に軽く手を置いた。
 幼馴染は、あれからも当たり前のように隣にいる。そして、以前と同じように変わりなく接してくる。心のどこかが安堵する反面、焦燥にも似た感情が弓月を支配しつつあった。
 比呂也は何も知らない。何も知らなくていい。何も知らなくていいのに、知りたがっている。『こちら側』のことに、これ以上首を突っ込まれたくない。隠してきた事実や自分の醜態を、これ以上知られたくない。
 一応ざっとではあるが、突然現れたあの二人のことだけ話してある。相手が真帆に取り憑いていた鬼だったことも、真帆が鬼に憑かれていたことも、自分が真帆を斬ったことも、全部隠して誤魔化した。今更綺麗なふりをしたところで、意味も無いことなど百も承知だ。それでも、そうしなければいけないと思った。
 もういっそ、あの出来事自体が悪夢だったと片付けられればいいのに。そうすれば、こうして後ろめたい思いをしなくてすむ。あんな思いをしなくてすむ。
(畜生……何なんだよ、ホントによ)
 投げやりに胸中で吐き捨ててから、弓月は空を見上げる。太陽は相変わらず容赦なく道路を焼き、あちこちに濃い影を作っている。どこからともなく聞こえてくる蝉の合唱が、余計にだるさを助長していた。
 重い心地で汗ばんだ髪の毛に指を突っ込んだとき、比呂也が急に声をあげた。
「弓月……あの人」
 指を差すのは失礼だ、ととがめる暇もなかった。陽炎の揺らめくアスファルトの向こう側、ここからわずか十メートル先の場所に、それはいた。
 黒い艶のあるチャイナドレスを当たり前のように着こなし、髪の毛は昨晩と同様背中で散切りにされていた。さすがに太陽の下だからか、血色は夜よりも良く見える。汗一つかかずに陽射しを受けて佇んでいる。そして何よりも間違えようが無い、薄い肩から立ち上る強い殺意と、凍えそうなほどに冷たい眼差し。
 体中の血が引く感覚がした。先ほどまでの熱も全て、血と共に冷えて落ちていく。頭の奥から警告音が響いてくる。
 妖狩本家の最後の末裔。憎しみに囚われた矛盾の純血。宵K幻その人が、こちらをひたと見据えていた。
 自然、足が止まる。互いの距離はおよそ二メートル。刀の間合いに入らないギリギリの場所にいる。こんな真昼間から、一体何をしにきたのか。表情の抜け落ちた白い面からは、考えが一切読めない。
 緊迫した空気が流れ、辺りの気配がぴんと張り詰めた、そのとき。
「氷室弓月」
 静寂に染み入る蝉の合唱を切り裂き、嫌味なほど響く声が低く弓月の名をなぞる。
「今度は何だ? てめぇの仕事は終わってるんだろ」
 さりげなく幼馴染の前に立ち、それに答える。この男は危険だと、本能がしきりに警告を発していた。敷かれたレールの上だとはいえ、自分は『人間』を守るためにいる。
 奥歯を噛み締めて発した問いに取り合わず、男は淡々と言葉をつないだ。
「お前に仕事ができた。共に来い」
「あ?」
 鏡にも似た無機質な瞳に、こちらの顔が映っている。動けない。蛇ににらまれた蛙の心地とは、このような状態を言うのかもしれない。
「お前が選ぶ選択肢はない」
 わざとなのだろう。こちらが嫌がる単語を選び、的確に投げつけてくる。自分の無力さを浮き彫りにする――自分がいかにがんじがらめなのかを知らしめるそれに、弓月は一瞬だけ言葉に詰まる。
「ちょ……ちょっと待てよ!」
 と、背後から制止の声があがる。次いで肩に手が置かれ、比呂也が会話に割って入ってきた。
「俺も一緒に行く! 弓月一人じゃ心配」
「人間の雛が」
 そんな比呂也の言葉を無情にも断ち切り、K幻は薄笑いを浮かべる。ごく薄く唇に刷かれたそれは、紛れもない嘲笑だった。
「何も出来ぬくせに、何も理解していないくせに――盾の使命に口を出すな」
 使命。何度聞いても嫌な言葉だ。自分のあり方を強制されているようで吐き気がする。幼馴染と決定的に違う、自分に流れる血を嫌でも認識させられる。どれだけ親しくなろうとも、どれだけ近い場所にあろうとも、自分と相手は全く違う生き物なのだと。越えられない一線があるのだと、嘲笑われているような気分になる。だが、どれだけ否定したところで、どれだけ逃げようとしたところで、結局はそれに縛られているのもまた事実。
 潮時、なのだ。ここで境界線を示しておかねば、比呂也は今後も危険にさらされ続ける。弓月は一度唇を噛み、肩に置かれた手のひらを乱暴に振り払う。それから拒絶の意を込めて、相手の身体を押しのけた。戸惑いにも似た色を浮かべ、比呂也が弓月に視線を送る。
「比呂也。何度も言わせんな。本来ならただの人間が首突っ込んでいいものじゃねぇんだ」
 でも、と続けられる前に、先制して言葉を封じた。
「足手まといなんだよ、お前がいると」
 顔をできるだけ視界に納めないようにして、弓月は小さく吐き捨てた。見なくても分かる。どうせまた、傷ついたような目をしてこちらを見ているに違いない。自分と違うことくらい分かっているはずなのに、昔からこいつは変わらない。そんなこと一切関係ないと、そこすら踏み越えてこちらにやってくる。
 決して嫌いではない。むしろ心地よかった。けれど、これ以上は駄目だ。自分は妖狩で、相手は人間。結局同じものにはなれず、同じようには生きられない。
 呆然と立ち尽くす比呂也に背を向けて、弓月は改めてK幻と対峙する。顎をわずかに持ち上げ、右目をすがめて彼は嗤っていた。
「K幻。話を聞く。場所を移そうぜ」
「我同意(ウォ ドンイ)、弓月(ゴンユエ)」
 K幻が慇懃な態度で答えを返す。恭しくゆっくり発音された異国語の裏には、やはり冷えた嘲りがこもっている。
「先帰ってろ」
 いたたまれなさを隠すため、振り返らずに声をかけた。普段ならば即座に戻ってくる返事はなく、投げた声は陽炎の中へと散って消えた。

 真夏の昼間だというのに、この場所はひどく冷える。それは周囲が日陰ゆえか、それともこの男がいるせいか。廃ビル群の奥にある一つの部屋で、弓月はK幻と対面していた。
 陽の差さぬ薄暗いコンクリートの空間の中、どこからか入り込んできた光を反射して、K幻の眼差しに蒼い燐光が散っている。
「あと一人はどこに行った」
 嫌な気配を拭うため、弓月はわざと矛先をずらす。
「お前には関係ない」
 が、にべもなく突っ返され、話題を元に戻さざるを得なかった。
「……仕事のことだってんだろ。てめぇがやればいいだけじゃねぇか」
「俺は気に入らないから請けない。だからお前に回ってきた。それだけの話だ」
「請けなかったら」
 拒否権がないことなど分かってはいるが、あえて聞いてみる。
「言わずもがな、だ」
 K幻は顎を軽く上向けて、口角をつりあげるだけだった。
 有無など最初から存在せず、引き受けろということか。拒絶をねじ伏せ押しつぶすそれは、強制以外の何者でもない。
「……やりゃいいんだろ」
 まるで自分の人生と同じだな。弓月は投げやりな心地で認識する。選択肢などといいながら、結局は一つも選ばせてもらえない。生かされ、強制され、死んでいく。自分というものを殺して、自分の意思とは別なことをして、それが苦しくないはずないというのに。
「最初からそう言えばいいのだ」
 彼は当然とでも言いたげに、小さく鼻を鳴らした。
「で。内容は」
 拒否権がないならば、さっさと話を終わらせてしまいたい。こんな男と一緒にいても気がめいるだけだ。埒が明かない。
「さる旅館の主からの依頼だ。周囲の人間が既に巻き込まれている。事態は一刻を争う。分家を連れて行け。ただの人間を連れて行くよりか、よほど役に立つ」
 悪意の込められた『人間』の発音に眉を寄せたとき、ふと弓月の脳裏にある疑問がよぎる。
 既に被害が出ている、規模の大きいものをわざわざどうして、『雛』であるはずの自分に仕事の話を持ってきたのか。自分は妖狩であるとはいえ、本家の純血に比べれば濃度は低い。この男の実力を考えれば、それこそ数時間もたたずに殲滅してくるだろうに。
 言外に疑問がにじんだらしい。K幻はかすかに右目を細め、再び唇に嘲笑を刷く。
「お前の好みそうな、絆とやらが絡んでいるゆえにな」
 絆。それをくだらないと言うならば、虎の名の男とこの男の間にあるものは一体何だというのだろう。言葉が孕む矛盾が気になり、弓月はかろうじて声を絞る。
「てめぇはあいつとはどうなんだよ。言葉に矛盾が出てるぜ、純血様」
 くくく、と喉の奥で彼は嗤う。
 またこの顔だ。無知の子どもを嘲笑う凄艶な笑み。本当に気に喰わない。苛立ちのままにした舌打ちが、汚れた壁に当たって砕ける。
「絆ほど脆弱なものはない。すぐに断ち切られる脆い糸を求めるよりは、簡単に生み出される激しい感情の鎖に縛られていたほうがいい――憎み憎まれ、恨み恨まれ、殺したいと望み、殺されたいと願う。その上で互いに執着し、互いに依存している」
 暗く濁った感情で紡がれた関係を語るK幻は、薄く笑っていた。嘲りの色は既にない。その面は、冷たい光の消えた眼差しは、背筋が凍るほどに虚ろだった。
「ここにあるのは憎しみと恨みと殺意と、ガキのような執着心と依存だけだ。それでいい。それがいい。そうでなくてはならない。そうでなければならない」
 ゆっくりと、ここからでも分かるくらいに細く、彼の瞳孔が縦に裂ける。

「絆はいらない。裏切られればそれで終いだ。ここにはそれがない。裏切られることもない。最初から、互いを信じてはいないのだから」

 思わず一歩後じさり、男の顔を凝視する。絆を脆いと言い、己のそれは憎悪と依存で構成されたものだと言い、ゆえに信頼も裏切りも存在しないと言う。具体的な言葉で表すことはできない。具体的にどこがということも分からない。ただ感覚的な部分で、やはり彼は狂っているのだと、確信した。
 そして唐突に、自分もいつかこうなるのかと――漠然とした焦燥を覚えた。
 相手をまるで信じられず、負の感情でがんじがらめになって離れられなくなる。裏切りはない。だが、今のように温かくて心地よい関係には二度と戻れない。
 生々しいくらいにリアルな想像が脳裏をよぎり、それを振り払うために一度首を振る。この男はこの男、自分は自分だ。可能性は否定できないが、それは恐らく今ではない。だから今考えるべきことではない。考えてしまえば抜け出せなくなる。
「……てめぇの話を聞いてっとうんざりする。仕事に差し支えるからやめてくれ」
「お前が聞いてきたことだ」
「揚げ足取りすんな」
 弓月は目眩を訴え始めた頭を押さえ、低くうなる。この男といると、こちらまでおかしくなってくる。もうこれ以上は付き合えない。
「話は終いだ。引き受ける。それでいいだろ」
「それでいい、我が末裔よ」
 本当に嫌味な男である。再度舌打ちをしてからようやく、弓月は解放されたのだった。

(初回アップ:2006.3.11 最終修正:2009.9.29)

 



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