妖狩


 いい加減、限界かもしれない。洗面所で水を被り、大量の汗を無理やり流す。落ちる雫を手で拭いながら鏡を見れば、普段よりも三割増し人相の悪い自分がいた。
「……死相でも出るんじゃねぇか」
 独り言は鏡に跳ね返り、排水溝に流れて消えていく。その様子をぼんやりと眺め、今一度水滴を指で払った。
 夏休みに突入してから数日経ったが、その数日はほとんど寝ていない。一日に五件は当たり前、多い日は十件以上も仕事を片付けている。妖が活動する時間は深夜の二時過ぎ、全て終わって家に帰るのは日が昇ってからになっていた。おまけに夏は夜が短い。夕方にまで侵出してくる奴もおり、その対応にも追われている。
 片付くばかりか増えていく一方で、さすがの弓月も疲労を隠せない。身体的なものならばまだしも、精神的な疲労も蓄積されてきている。今日一日休んでまた明日、とはいかないのが、妖狩の辛いところだ。
「弓月ちゃーん、弓月ちゃーん」
 遠くから由梨江の声が聞こえる。
「お客様よー、今大丈夫かしらー」
 タオルで乱暴に顔を拭い、肩に引っ掛ける。自分に客が来るとは珍しい。仕事の依頼が来るときは、大抵こちらが呼ばれるのだが。
「はい」
 廊下を抜け、玄関へ向かう。途中比呂也とすれ違った。の部活の帰りなのだろう、手には着替えが用意されている。
「風呂空いてるぜ」
「ああ、サンキュ」
 蜘蛛の一件から、何となく二人の関係は微妙だった。あれだけ仕事に連れて行け、とうるさかった比呂也が、突然何も言わなくなった。妖狩の仕事に関連することはもちろん、妖の状態がどうかすらも聞いてこない。安堵している反面、弓月はかすかな居心地の悪さを感じてはいる。
 ともあれ、会話はそれで終わってしまった。いたわりの言葉もなければ、励ましの言葉もない。かすかな苛立ちを無理やり押し込め、弓月はそのまま脇を通り過ぎる。
 と、思い出したように比呂也がつけ加えた。
「弓月、尊杜さんが来てるぜ。今日もその……強烈……いや、凄まじい……いや、うん、元気そうだな」
「別に気ぃ使わなくてもいいんだぜ、比呂也」
 冷や汗をたらしながら言葉を選ぶ比呂也が少し可哀相なので、とりあえずそう言っておいてやる。が、やはり眉間に力がこもることはどうしようもなかった。なるほど、あいつが来ていたのか。これは少しばかり厄介なことになりそうである。
 先ほどよりも格段に重い足を引きずり、ようやく玄関にたどり着いた。スリッパに履き替えた由梨江の足下には、洗濯籠が置かれていた。取り込んできたばかりだろう、たたまれていない洗濯物が詰められている。
「あ、弓月ちゃん。ごめんなさいねぇ、お名前言うの忘れちゃってたの」
 その向かい側には。
 両サイドにメッシュの入ったロングウェーブの髪。バリバリのメイクが施された美しい顔。でかいリングピアス。露出度の高い派手な衣装、下手したらパンツが見えそうなくらいに短いスカート。十センチ以上はあるハイヒール。胸元にはじゃらじゃらとネックレスがかけられ、綺麗に整えられた爪には真っ赤なマニキュア、細い指にはいくつも高そうな指輪がはまっていた。
 弓月の顔を見た途端、そいつは奇妙なしなを作って叫んだ。
「んもぉー遅いじゃないのー! あたしチョー待ったんだからねーぇ!」
「たかだか一分でグダグダ言うな」
 そう切り返せば、相手は傷ついたように「ひっどーい!」と抗議の声をあげる。相変わらず頭の痛くなる奴だ。こいつ確か二十四歳だよな。弓月は思わず頭を押さえ、小さく呻く。
「いい加減歳のことを考えろ、ってぇか何でお前ここにいるんだよ……馬鹿か」
「あたし馬鹿じゃないわよーぉ! 久しぶりにかわいい本家ちゃんに会いにきたんじゃなーいっ」
 妖狩分家、九十九鬼家の嫡男。九十九鬼尊杜がぶすくれてふんぞり返った。
 自分の部屋を香水臭くしたくはないので、風通しのよい茶の間に案内する。由梨江が先に用意していてくれたのだろう、ちゃぶ台の上には麦茶が用意されていた。
「失礼ねー、あたし臭くなんてないわよ。むしろ滅茶苦茶いい匂いじゃない」
 なぜここに通されたのかを一応は理解しているらしい。それがどうも不満なのか、尊杜が後ろで文句を垂れた。
「鼻が馬鹿になってんだ、それは。『過ぎたるは及ばざるが如し』ってぇ言葉知ってるか」
 大体三メートルも離れているのに香りが分かること自体おかしいのだ。妖狩は基本的に身体能力が他の人間より優れている。五感も例外ではない。自分が相当参っているのだから、彼が分からないはずがない。鼻が既に麻痺しているか、それとも分かっていてあえてやっているのか。この男は時折常識を逸脱した行動に出るので、本当にどちらなのか検討もつかないのだった。
 常軌を逸脱つながりではあるが、このオカマ『出戻り』である。掟に従って女として育ち、途中でいきなり男に戻り、ある日突然再び女として生き始めた、妖狩としては珍しい経歴を持っていた。その理由が単に「面白そうだったから」というから手に負えない。それも含め、弓月はこの男に関わるのが面倒だった。
「あら、嫌ぁね。知ってるわよそれくらい。いっぱいつけすぎると、元からある魅力が引き立たないってことでしょ。だからこうしてほどほどにしてるんじゃない」
「明らかに違ぇよ」
 本当に疲れる相手である。とりあえず座布団を出して座らせた。夏休みの初日から、とんでもない大凶を引き当てたものだ。この目眩は、強くなる陽射しだけのせいではない。
「んで、何の用だ」
「そうそう。忘れるところだったわー」
 忘れるところだったのか。頭痛がひどくなってきたところで、ようやく尊杜は本題に入る。花が開くような笑顔を作り、ちょこんと首をかしげてかわい子ぶった。
「まずはぁ、高校進学おめでっとー」
 これは意外だった。一番反対していた人物から、祝いの言葉がもらえるとは。何か裏があるに違いない。
「満喫してるぅ? 高校生活。青春ね、青春。あたし行ってないからうらやましいのよねー。今夏休みでしょ? 絶好の仕事期間よね! ま、学校があったって本家の弓月なら全然こなせてるわよねぇー? 本家様ってすごいわー」
 嫌味が混じっている気がする。やはり怒っているようだった。
「うるせぇな。仕事してんだからいいだろ」
「大体情報収集はあたしがやってるけどねー。ま、しょうがないか! 弓月は青春真っ盛りの高校生活エンジョイしてんだし」
 やっぱり嫌味が混じっていた。なぜここまで言われなければならないのか。妖が活動する夜は引きこもって出てこず、昼間も基本的に何もしていないこの男に、仕事の一環として情報収集を頼むのは当たり前だと思うのだが。
「……お前暇人だろうよ。大体昼何してんだよ」
「いやーね、あたし暇人じゃないわよ。日々お家で内面外面に磨きかけてるの。あと、たまーにお仕事」
 そういうのを暇人と言うのではないだろうか。とりあえず、心の中で思うだけにとどめた。
「暇人に仕事やってんだからありがたく思え」
「無償だけどねー。んー、まあいいわ。本題ね。弓月が時間ないのにいつも頑張ってくれてるのは知ってるから、これを言うのは酷かもしれないけど……」
 ちゃぶ台に肘をつき、両手を組んで弓月を見据える。それから、ゆっくりと言葉が紡がれた。
「あんた、鬼の始末だけ避けてるわね」
 一瞬、思考の奥が硬く凍りつく。言葉の意味を理解するのが遅れ、反応ができなかった。
「忙しいのは十分承知の上だけど、鬼も含めるか含めないかで大分数が違うのよ。聡明なあんただから、分からないはずはないでしょ? 今回の件もそう。あたしにさりげなく回してるつもりだろうけど、あんた、何のつもりなの?」
 尊杜の双眸の奥が見えない。昏い色だけが広がっている。普段は朗らかに笑っている彼が、今は表情の片鱗すら見せずに淡々と音を連ねていく。女に見える優しげな顔立ちは、まるで人形のような不気味さすらあった。
 汗が、背筋を伝って滑り落ちていく。
「今更何を恐れているの、氷室弓月」
 視線を外して、落とす。握り締めた両手は嫌に震えて、汗をかいていた。
「たかが鬼でしょう、それとも鬼が怖いとでも言うわけ? 今更? 幼いときから妖を屠り続けてきたあんたが、今更鬼ごときが怖いとでもいうのかしら」
 本当に――初日から大凶を引き当てた。弓月は力いっぱい歯を食いしばった。
 記憶の底にある蓋に触れられている感触が気持ち悪い。封じていた十年前の『あの時』が、今にも動き出しそうで恐ろしい。
 振り払うように強く、両手を机に叩きつける。激しい音と共に表面が揺れ、自分のグラスが傾いて倒れた。グラスの甲高い悲鳴が、水分と共に畳へ吸い込まれていく。溶け残った氷だけが、弱々しく陽光を反射していた。
「……てめぇには関係ねぇ」
 息と共に言葉を吐き出す。何とかしてこの話をやめさせたかった。
 だが尊杜の口は止まらない。妖狩が武器を取り出すため、意味を含む唄を唄うように、彼は続きを口にする。
「あら、関係あるわ。だってあんたは妖狩で、あたしも妖狩なんだもの。あたしたちの存在意義は何? あたしたちの使命は何だったかしら」
 グラスから流れ出る液体には見向きもせず、尊杜はいっそ冷たく言い放った。
「俺は、俺のやり方でやってる。鬼の類をやらない代わりに、その倍は違う奴を斬ってる。それの何がいけねぇんだよ」
 これは弓月なりのささやかな抵抗だった。妖狩の生という鎖に縛られて動けない自分の、面倒くさい契約をした祖先に対する唯一の反抗であった。自分のすべてが妖狩に捧げられているわけではないという、がんじがらめの中の主張だった。
 鬼は斬らない。憑き物憑きも斬らない。もう二度と、そんなことはしたくない。彼女のことを思い出すなんて、そんなのはごめんだ。開きかける蓋を必死で押さえ込みながら、弓月は尊杜をにらみつけた。
「いけないわよ。我々は、選り好みなんてできる立場じゃないの。人間の盾にならなくちゃいけないんだから、倍やったとかそうじゃないとかは一切関係ない。どれだけ迅速に脅威を減らせるか、それだけじゃない」
 それでも尊杜は顔色一つ変えない。弓月の抵抗をいともあっさりとはねつける。
「人間なら、自分の意思で戦わないことを選べるわ。でも我々は意思を持たぬただの盾なのよ。盾が自分を主張すれば、このシステムは崩壊する。あんた個人の意思なんて関係ない。妖を殺すか、自分が殺されるか、自滅するかの三者択一。あんただって、十分分かってるでしょう」
 そんなことは知っているし、嫌と言うほど理解している。使命を全うするために、散々繰り返し自分に言い聞かせてきたことだ。戦うか死ぬか自滅するか。それだけしか、選択肢は用意されていない。たとえどれだけ反発したところで、結局三択のどれかを選ばされる。抵抗することに意味などないと、嘲笑われているように選ばされる。
 どれだけ使命を拒んだとしても、敷かれたレールから飛び出すことなどできないようになっている――こんなのは、理不尽だ。どうしようもないじゃないか。弓月は悔しさに唇を噛み締めた。
 一つため息を零し、尊杜は語調と表情を和らげる。
「ま……でもそれが、あんたなりの昇華方法なのよね。それは嫌いじゃないわ。あたしだってあんたぐらいの頃、しょっちゅうそんなこと考えてたわ。回数は減ったけど、最近でもたまーに思う」
「意外だな」
 悩みなんかないと思っていた。そう告げると、彼は柔らかく苦笑する。マニキュアの塗られた指先を翻し、小さく首を振った。
「でしょうね。こう見えて、意外と悩みが多いのよ。困ったときは、人生の先輩で妖狩の先輩の、この尊杜さんに相談なさい」
「嫌だね」
「あ、ひっどーい。ちょっとやめてよね、ガラスのハートなんだから」
 このまま話が終わってくれればいい。このまま何もなかったかのように、さっさと帰ってしまえばいい。そんなことをふと思い、祈るような心地にもなりはしたが、やはりそう簡単にはいかなかった。
「それで、弓月。何で鬼の話を出したと思う? 別にあんたをいじめるわけじゃないのよ」
 何でも何も、ここに来た時点で既に分かっている。依頼人がここに来る、つまりは仕事の話以外に他ならない。心の奥底が、再びゆっくりと凍りつき始める。
「……俺に鬼退治をやれってか」
「相変わらず勘が鋭いわ。その通りよ。あんたが頼んでたとんでもない鬼……そいつ、どうもあたしの敵みたいなのよね。敵討ちって奴だけど、あんたの力を貸してほしいの」
 妖が絡んでいては拒めない。これは妖狩の使命だから。結局は選ばざるを得ない状況になる。本当に腹立たしい。腹立たしいのにどうにもできない。
「……わかった」
 冷たく強張る唇を動かし、弓月は喉の奥から何とか声をしぼり出した。

(初回アップ:2006.3.6 最終修正:2009.9.29)

 



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