妖狩


 弓月は憑き物が嫌いだった。人間を器にして取り憑く彼らが嫌いだった。外見は本人でありながら、全く別のものに変えてしまう奴らが嫌いだった。そのくせ、斬る感触は人間のそれらが嫌いだった。
 やはり、無意識に避けていたのだろう。それともあえて目に入れないようにしていたのか。意識の底に沈んでいた……否、あえて奥に沈めておいた記憶から逃げるために。
 弓月はわざと、肩に担いだ刀を鳴らす。きちりとわずかな金属音を立てて、紅い刃は闇を映した。
 深夜一時半。暗い裏路地を通りながら、弓月は隣を歩く尊杜に尋ねる。
「お前一人で行くことは考えなかったのか」
 昼間の格好とは異なって露出は少ないが、彼の衣装は依然として派手なままだった。いくらなんでも蛍光グリーンはないだろうと思うが、口に出して突っ込む気力もない。
「皇楽(すめら)と妃綺(きさき)が二人がかりで勝てなかったんだから、かよわいあたしが一人で勝てるはずないでしょ」
 弟の皇楽と妹の妃綺。あの二人は弓月より年下だが、その腕は若いながらかなり高いレベルに入る。そのためか、学生の二人が奔走し、専業妖狩のこの男はほとんど何をしているか分からない、というのが現在の九十九鬼家の状態である。弓月自身、仕事に赴く彼を見るのはこれが初めてだった。
 そういえば。
「皇楽と妃綺は」
「元気よ。一応、ね」
 規則正しいヒールの音が、真夜中の路地裏に木霊する。無機質な壁に無機質な音が跳ね返り、彼の内側に込められた苛立ちを物語っていた。
「皇楽は左足と左腕を骨折、妃綺はあばら三本と右腕と鎖骨を骨折したけど、生きてるだけで奇跡だわ。……女だったって。十五、六の、イマドキの女の子。あの二人が勝てないんじゃ、よっぽど怨みが深いんだわね」
 鬼はただの憑き物ではない。相手の恨みを嗅ぎ取り、それを引きずり出して取り憑く。取り憑いた器の怨念が深いほど、鬼はその力を増していく。そして憑かれた人間は、怨みに染まった魂を食われて身体を乗っ取られてしまうのだ。
 その後の行動はただ二つ。物理的な空腹を満たすことと、空腹を満たすための狩りを実行するだけ。救う方法は無い。人を狩り、人を喰らう人の皮を被った化け物になり果てる。そうなった以上、妖狩はそれを斬らなければならない。人に仇なす妖は、いかほどの理由があれ始末する――たとえそれが、自分を受け入れてくれた幼馴染であったとしても。
 口腔内が唐突に苦味を訴えた。視界がぶれてノイズが走る。耳鳴りが酷い。その向こう側で『彼女』が笑っている。嗤っている。十年前と同じ姿で、十年前と同じように、笑っている。
「……弓月?」
 塀に手をついて身体を折り曲げ、急にこみ上げてきた吐き気を無理やり喉奥へ押し戻す。額に浮いていた汗が、二筋三筋顎を伝い落ちていった。胃は未だ痙攣し、刺すような痛みが残っている。
「やだ、顔色悪いわよ。まさか本当に怖いの?」
 声が、情けなくかすれて震えている。記憶の蓋が開きかけている。
「違ぇ……昔死んじまった奴のことを、思い出しちまっただけだ」
 このままではまずい。刀を振るばかりか、満足に戦うことすらできない。
 落ち着け。彼女はもう死んだ。十年前に死んだのだ。そうだ、彼女は。

「あの子はあなたが殺したんだものね」

 唐突に湧いた声が、弓月の耳を貫いた。呼吸が止まる。心臓が跳ねる。
「誰だ! どこにいる!」
 尊杜の緊迫した物言いが、やけに鈍い残響を帯びている。そして、
「あの子はあなたが殺したんだものね」
 彼女の言葉は、それと相反するように通って聞こえた。
 闇の中に、くっきりと浮かび上がる影が一つ。見たことのないセーラー服を血まみれにして、指の先も口周りも血まみれにして、少女は笑っていた。艶やかな黒髪を乱したままで、滑らかな白い肌を染めたままで、少女は嗤っていた。
「久しぶりね、ゆづ」
 呼吸が、止まる。汗が、流れる。
「久しぶりね、ゆづ」
 一人で輪唱をするように、少女は茫洋とした口調で繰り返す。今まで一度も見たこともない、会ったことすらない少女だ。
 だが、知っている。ねっとりと全身にまとわりつくような、この気配。十年前と同じ――あのときと同じ、鬼の気配だ。
「私のこと、覚えてる? 私のこと、覚えてる?」
 息を吸おうにも、ひゅう、とかすれた音しかしない。瞬きができない。喉が渇いている。膝から力が抜けて、みっともなく震えていた。
「死んだと思った? 死んだと思った?」
 記憶の蓋が――開く。
 十年前、幼馴染は二人いた。岡田比呂也。そしてもう一人。鬼に憑かれた、少女が一人。
「真帆(まほ)……違う、真帆に憑いてやがった、鬼、か」
「そうよ」
 少女は虚ろに笑みを返す。異形の者に憑かれた証、二本の角が影を落とす。
「そうよ。ゆづ、ねえ、やめちゃおうよ」
「どういう……ことなの、弓月」
 尊杜の言葉に答えられない。喉に声が貼り付いて、これっぽっちも出そうになかった。十年前のあの時と、真帆を殺したときと同じように。
 ぐらりと強い目眩が襲う。バランスを崩し、体重が後ろに傾いた。
「ゆづ、ねえ、やめちゃおうよ……私を斬るのは、もう嫌だよね」
 脳が言葉を解した瞬間、右のわき腹を壮絶な力でえぐられた。
「私を斬るのは、もう、嫌だよね」
 悲鳴すら、あげることができなかった。

* * *

 ゆづ、と最初に呼んだのは、真帆が一番最初だった。
「何でゆづなんだ」
「だってなんかかわいいでしょ」
「弓月って呼べばいいじゃねぇか」
「だめー、それじゃあニックネームになんないじゃん」
 可愛いだなんて言われ慣れてなくて、照れ臭かったことを覚えている。
「……勝手にしろっ」
「うん、わかった」
 彼女は二人目の友達になった。異端の自分と、友達になってくれた。
 やがて、妖と戦っていることを知られた。比呂也あたりから聞いたのだろう。そうしたら、どうやったら助けられるかと真剣に聞いてきた。何もしなくていいと答えたら、彼女は涙目でこう言ったのだ。
「駄目! ゆづはすっごく大変なんだって聞いたんだもん! 大事な友だちのこと、助けてあげるのは当然でしょ!」
 本当に嬉しかった。嬉しかったのだ。

 ゆづはさ、と、彼女は言う。いつものように少しだけ大人びた表情で、優しく笑いながら言う。
「比呂也君といっしょに住んでるんだよね」
「うん。俺、親いねぇもん」
 河川敷、歩く先には比呂也がいる。二人にトンボを捕まえるのだと、躍起になって飛び回っていた。そこに自分と彼女が混ざっていないだけの、至って普通の光景だった。
 少しの沈黙の後、彼女はもう一度ゆづはさ、と切り出した。
「比呂也君のこと、どう思ってるの」
 どうしてそんなことを聞くのだろうと、そのときは不思議でたまらなかった。
「好きだよ」
 それはただ単に、友達としての意味だった。他意はない。自分にとってすれば、比呂也も真帆も、平等に好きだったのだ。
 ――彼女もそうだと、思い込んでいたのだ。
「そっか」
「何で?」
 彼女は笑ったまま、ゆったりと頭を振った。
「何でもないの」
 彼女の長い黒髪が、夕日に染まった風に撫でられてなびいたのを覚えている。

 最近真帆が変なんだ、と比呂也は言った。
「ずうっと『ゆづはいいなぁ』っていってる」
「あ?」
「あとね」
 今よりも随分と線の細かった彼は、不安げに大きな瞳を瞬いてうつむいた。
「『ゆづ、どこか行ったりしないのかな』って……いってる」
 そのときはまだ、言葉の意味を深く考えることをしなかった。できなかった。しようとも、思わなかった。
「俺……何だか、こわいよ。真帆のおでこ、へんなふうにもりあがってて……真帆じゃないみたいで、こわい」
 症状を聞いた時点で、異変に気づくべきだったのに。
「大丈夫だ。たぶん、すぐなおる」
 聞こえなかったふりをした。自分の身内がまさか、そんなことになるなんて思いたくなかったから。
「なあ、弓月はならないよな。ずっといっしょがいい。弓月のことも、真帆のことも、俺大好きだもん」
「行かねぇさ。みんな俺が守ってやるよ。それが俺の役目だもんな。比呂也も真帆も、みーんな守るぜ」
 分かっていなかった。テレビ番組のヒーローのようにいくわけがないと、あのときは理解していなかったのだ。異形の者だけが妖ではないことを――身近な人間が妖になる可能性があることを、受け入れようとしていなかったのだ。

 ゆづはさ、と、彼女は言う。いつものように少しだけ大人びた表情で、優しく笑いながら言う。
「すっごいずるいね」
「何の、はなし」
 路地裏、佇む先には彼女が一人待っていた。幼い指先も服も顔も真っ赤になっていて、ただいつものように微笑んでいる。長くて艶のある黒髪も、それを吸って重たく肩に垂れ下がっている。横たわるのは恐らく彼女の両親か、それとも全く別の人か。至って普通でない――日常の裏側の光景だった。
 少しの沈黙の後、彼女はもう一度ゆづはさ、と切り出した。
「わたしが比呂也君のこと、好きだってしっててあぁ言ったんだ」
 どうしてそんなことを聞くのだろうと、愕然とした意識の向こうで思った。
「そんなこと、ねぇ」
 それはただ単に、友達としての意味だった。他意はない。自分にとってすれば、幸広も比呂也も明美も真帆も、皆平等に好きだったのだ。
 しぼり出した声はかすれて、情けなく震えていた。彼女は笑みを深めて指を持ち上げる。
「ゆづ」
「真帆」
 どこにも視点を映さない彼女の瞳は、まるで鏡のようにこちらを映していた。
「わたしね、ゆづなんか死んじゃえばいいって思ったの」
 空虚な眼差しに映る自分の顔は、ひどく狼狽して泣きそうだったことを覚えている。そして彼女の表情は、ぞっとするくらいに嬉しそうだったことを覚えている。

 掌に残った刀の感触を覚えている。刀を通して伝わってきた、彼女の体の細さを覚えている。首をはねる直前に、彼女が叫んだ言葉を覚えている。妖狩の掟を、心の底から呪ったことを覚えている。童歌を歌えなくなったことも、声すら出なくなったことも。
 全部、覚えている。

(初回アップ:2006.3.6 最終修正:2009.9.29)

 



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