妖狩


 足の裏で、玉砂利が騒がしく声を立てる。白いはずのそれは、木漏れ日の色に染められて淡い緑に輝いている。
 弓月一行がたどり着いたのは、街中よりも少し外れた閑静な宿であった。真夏の暑いときにも関わらずに涼しいのは、森の中に建てられているゆえか。宿自体も昔ながらの造りをしており、落ち着いた雰囲気が森によく合っている。
 弓月は改めて宿の内部を覗き込む。戸は大きく開け放たれていて、一見すると高級なホテルにも見える。
 ロビーは全て樹木をそのまま使用しており、ワックスがけされた床が濡れたような光沢を放っていた。使われている材木は樫なのか、楠なのかは分からない。樹木特有の柔らかな香りが、今もなお生き残っているように思える。屋根を葺いている瓦も、日光を照り返して鈍い銀色に煌めいていた。
「いやーん! すっごぉーい! 何コレ何コレ、タダで泊まれちゃうなんて素敵! ねーひろちゃん!」
「いや、あの、俺別行動ですから」
「そんな冷たいこと言わないでぇー」
「お願いします抱きつかないでください」
 後ろから飛ぶ能天気な言葉たちに、弓月は思わず脱力する。尊杜の緊張感はさることながら、幼馴染がいることに、いろいろなものが突き抜けてしまった。
「おいお前ら、あんま騒ぐな。俺は仕事で来てるってこと忘れんなよ」
「あーやだやだ、仕事脳って怖いわー」
「てめぇも仕事で来たんだろが」
「仕事請けたのはあんたでしょ。あたしはひろちゃんと一緒に遊びに来ただけぇ。タダでこんな素敵なところに来れるなんてサイコーよね! ひろちゃんと温泉入ったりあはんうふんしたりするんだからぁ」
「しません、絶対に断じてしませんから」
 じゃれつく尊杜に、比呂也はいささかげんなりしている。本当に嫌になるほど、普段の光景と変わらない。
(よく言うぜ……タダになったのは、俺が仕事で使うからだっつーの)
 呆れながら、胸中で呟く。
 今回の仕事に関しては、比呂也には伝えなかったのだ。K幻の言葉に相当ショックを受けたのか、比呂也もまた弓月に何も問いかけてはこなかった。どこか思いつめた表情の彼を残し、弓月は早朝出発した。尊杜は後で合流という形になっていた、はずだったが。
 結局尊杜は比呂也を連れて現れた。尊杜は尊杜でこんな調子であり、比呂也も仕事に関することには一切触れてこない。
「俺は傷心旅行のつもりだぜ? お前とは目的が別なの。足手まといはいねーから、安心しろよ」
 突き放したその口調は、意外にも弓月の胸に突き刺さった。
 ――心のどこかでは、寂しいと思ったのだろうか。そうだとすれば、こんな自分の様子をあの男はどう取るのだろう。矛盾を孕む純血の、氷にも似た眼差しを思い起こしながら、弓月は身体を反転させた。
 中では着物姿の美しい女性が待っていた。年は三十の初めか半ばだろうか、しとやかな落ち着いた雰囲気をまとっている。
「いらっしゃいませ、氷室様。宵様からのご紹介は受けてございます。本日ははるばる遠方から、ようこそおいで下さいました」
 彼女は丁寧に頭を下げて弓月たちを迎え入れる。
 その華奢な肩の向こう側を、不意に何かが横切った。次いでその影を追うように、妙な空気が周囲を押し包む。妖のものと酷似した、しかし妖のそれとは異なる奇妙な気配が、澱んだ空気と相まって流れ込んでくる。
(何だ……?)
 目を凝らしてみても、既に影はどこにもなかった。隣の尊杜をさりげなく見やっても、相変わらず比呂也に絡むことに夢中である。気づく気づかない以前の問題だ。
 幸か不幸か、女性は全く気づいたそぶりを見せなかった。やがてゆっくりと背を伸ばし、かすかに微笑みを浮かべて話を続ける。
「私はこの宿の女将を勤めさせていただいております、 橘 《たちばな》紅葉《もみじ》と申します。どうぞお見知りおき下さい」
 そしてもう一度頭を下げてから、若い女将は旅館の奥を示した。
「お荷物は一番奥の右手のお部屋、『流水の間』へどうぞ。大浴場もございますので、どうぞそこでゆっくりと疲れをおとりください。お食事は七時半になりましたらそちらへお運びいたします。依頼の件についてはその後にいたしましょう。こちらです」
 優雅な身のこなしで先に立ち、客人たちを案内する。
 尊杜と比呂也の漫才を聞き流しながら、前方を歩く女将の肩口を観察する。すらりと伸びた白い首筋には、やはり何の変化も見受けられない。足捌きも軽やかに、音も立てず歩いている。
 気のせいか。そう思った、瞬間。
「きゃああ!!」
 尊杜の悲鳴が耳を突いた。
「いやーん、蛇ぃ! 気持ちわるぅい! ひろちゃん助けてぇ!」
「う、うわ! 尊杜さん、どうしたんですか! ちょ、苦しいんです、けど……」
 尊杜はどうせ抱きつきたかっただけに決まっている。だが、その瞳は油断なく廊下の曲がり角を射抜いていた。比呂也も表情を強張らせ、同じ方角を見つめている。
 足を止めてしまった女将の隣に立ち、弓月は今一度進行方向を注視した。何もいない。だが、何かがおかしい。あの妙な気配は濃く立ちこめるばかりだ。妖のようでありながら、しかし妖のそれとも違う、絡みつくような不透明な感覚が、足下からじわじわと這いあがってくる。
「女将さん。この旅館……蛇は、よく出るのか」
 答えは、返ってこなかった。見開かれた双眸が、全員の視線が集まる場所を凝視している。肌は血の気が失せて、真っ蒼になっていた。わななく唇が何事かを呟き、そして閉じられる。
「……はい、ここは、昔から……蛇が多いですから……」
 二呼吸の間を置いて、女将はようやくそれだけを口にした。

 以降はこれといったことは起こらず、風呂から上がってすぐに夕食となった。風呂は森林の美しさが楽しめるすばらしいものであったし、食事も質素だが品よく盛られ、味も絶品である。尊杜が逐一比呂也に絡み、比呂也が必死で逃げ惑う。そこに弓月がいないだけの、普段と変わらない光景だった。
 そんな様子を眺めながら、弓月は旅館の空気を観察していた。やはり様子がおかしい。他の部屋に泊まっているはずの客、風呂に入ってくる客はおろか、すれ違うはずの従業員すらいないのだ。現に今も、紅葉という女将と弓月たち以外の姿が見えない。この『流水』の間以外の場所から、全く人の声がしてこないのである。
「……静かなのはいいけどぉ」
 食後の緑茶を飲みながら、尊杜が呟く。
「……静かすぎるわね。ちょっと不気味かも」
 どうやらそのあたりも、依頼に関わっているようだ。弓月は軽く双眸を細め、女将を見やる。女将は幾分か躊躇っていたが、やがて弓月の視線から逃れるように、白い面を少し伏せて話し始めた。
「夫の家は、代々この宿を営んで生活しておりました。私も一年前にここに嫁ぎ、夫の手助けをしながらここを運営していたのですが……結婚を控えたときから、私たちの身の回りにおかしなことが起こり始めたのです」
 尊杜の目つきが変わった。ついと瞳を細め、女将のことを見つめている。否、女将の周辺を観察している。目を細めるのは、意識を別方向へにめぐらせている際の癖だった。女将はそれに気づいていないのだろう。ぽつりぽつりと言葉をつないでいく。
「まず、式の三日前に夫の両親が亡くなりました。あまりにも急で、夫もひどく悲しんでいました。その翌日に、私の両親までもが逝ってしまい……式を一年延期して、それから結婚をしたのですが……延期を決定した当日に妹が行方不明になってしまいました。式のわずか一週間後に、今度は夫も倒れてしまい、今もなお寝たきりです」
 涙を堪えているのか、女将は幾度となく瞬きをした。かろうじてしぼり出されている声音もひどく震え、詰まり、聞き取るのがやっとである。憔悴した表情には、哀しみと絶望が深く刻み込まれていた。
「私を祝福してくれた友人たちも、突然病気になったり、酷いときは亡くなったりしています。従業員は、私といると巻き込まれると思ったのでしょう。次々と辞めていってしまい……今では私一人です。本当は……お店を閉めてしまおうかと思っていたのですが、ちょうどそのときに……宵様と、それからお連れ様がいらっしゃって……」
 これで終いだ、とでも言うように、女将はそっと白い指先で目頭を押さえた。
 なるほどな。弓月は一つ深呼吸をして腕を組む。話された状況のあちらこちらに、誰かの強烈な悪意がうかがえる。これだけ立て続けに不幸が起こるとなると、やはり人為的な呪いがかけられているとしか考えられない。
 だが。
(『人間のかけた呪い』は範疇外だって、アイツも知ってるはずだが……)
 妖以外のことに関しては、こちらの知識で対処することができないのだ。
 妖の術は、術者を潰すことによって解除されることがほとんどである。だが人間の呪いの場合はこうもいかない。人間の恨みの深さに比例して、呪いは効力を増してゆく。一部の例外を除き、術者を潰したとしても効果は継続されることがほとんどである。
 こちらが得意としているのはあくまでも『妖の術を破ること』であり、『かけられた呪いを解除すること』ではない。この女性に起きた立て続けの不幸が仮に人間のかけた呪いであったなら、妖狩を呼ぶことに意味などない。
 なのにあの男は自分を呼んだ。ならばここに意味がある。
 そこまで思考を詰めて、弓月はふと顔を上げた。
「女将さん。それ以外に何か変わったことがあったか? 何でもいい。妙な生き物を回りに見るとか、そんな些細なことでいい」
 弓月の鋭い眼差しが女将を射る。彼女は一度言葉を切り、しばらく記憶を探っていたが、やがて思い当たることがあったのか、小さく声をあげた。
「あの……夢を、見るんです」
「夢」
 繰り返す弓月に、女将ははい、とうなずいてみせる。薄い唇は細かく震え、弓月を映す瞳も恐怖のため大きく見開かれていた。
「頭に金色の輪がある蛇の夢……私の家族の体からその蛇が次々と出てきて……私の体からも出てくるんです、出てくるなんてものではない、食い破られてくるんです! 痛みと恐ろしさで目が覚めるんです、息もできないくらいに怖くて、痛くて!」
「蛇……か」
 だから気配が胡乱だったのか。ならば心当たりが一つある。人間の扱う呪いの、『一部の例外』に属する奴らだ。となれば、話はまた変わってくる。
 目を細めた弓月をすがるように見つめ、女将は頭を下げた。
「お願いします、このままでは私の夫が死んでしまいます……! どうか、どうかお助け下さい!」
「……分かった。仕事だから金はもらうが、後でいい。女将さん、それよりもこの宿を案内してくれねぇかな」
 暗い影をまとっていた彼女の顔が、初めて笑みを浮かべた。何度も頭を下げながら、弓月の頼みを承諾する。弓月は尊杜に目配せをし、ついてくるように促した。
 立ち上がろうと腰を浮かした時、聞き慣れた声が背中にぶつかる。
「女将さん。俺もついていっていいですか?」
 一瞬、耳を疑った。
「いろいろ大変そうですし、何ならお手伝いもしますよ」
「おい、てめぇ」
 幼馴染をにらみつければ、逆ににらみ返された。普段のような、あのふざけた空気は欠片も読み取れない。
「別に、お前の足引っ張ろうってわけじゃねぇよ。俺が勝手にやってることだから、お前には関係ないだろ」
 どういうわけか言葉に詰まり、弓月は沈黙する。と同時に、表現しがたい感情が胸の内を侵食していく。
 苛立ちとは違う。寂しさとも違う。どちらとも取れない曖昧なそれを果たして何と呼ぶべきなのか、判断することはできなかった。
 そもそも、彼をそうして突き放したのは自分ではないか。これが正しい距離なのだから、何を今更――そう、『何を今更』こう思う。正しい関係になっただけなのだ。それなのに苛立ち、寂しいと思うなんてどうかしている。
 知らずに漏れた舌打ちが聞こえたのか、比呂也はかすかに眉を寄せて弓月を眺めていた。
「あの……」
 交互に双方を見比べていた女将に背を向け、弓月は声を投げかける。
「ほっといてくれ。どうせすぐに、自分の力量を思い知る」
 突き刺さる視線から逃げたくて、弓月は今一度舌打ちした。

(初回アップ:2006.3.11 最終修正:2009.9.29)

 



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