妖狩


 長い廊下を抜けると、簡素な通路に出た。白塗りの塀で囲まれており、背の低い松以外の鑑賞用樹木は見当たらない。ただの通路で終わるのではなく、苔と岩と、白い石とで構成された品のいい庭になっている。今は夜ということもあってか、所々ライトアップされていた。
 隙間なく敷かれた石畳は、綺麗な曲線を描きながら奥に見える木造の家へ伸びていた。沈黙は破られないまま、一行の足は離れへと進められる。
 あの不透明な気配が風に乗って漂い始め、尊杜が周囲に目を走らせる。弓月自身もまた、不穏な空気を肌で感じていた。誰かに見られている。一人ではなく、それこそ何十という数の目が、今こちらをうかがっている。
(離れに何かあるな……)
 一歩ずつ近寄るその度に、気配と視線は濃さを増す。まるで蛇のように、それらは足下を這いずりまわっていた。
 女将は懐から鍵を出し、引き戸にかかっていた錠を外す。隙間から漏れ出てくる濁った気配は、間違いなく旅館よりも濃度が高かった。
「こちらが離れです。私たち夫婦は旅館の東側にある別宅で生活していますので、ここへは物を取りにくるくらいしか利用しません」
 灯かりをつけると、旅館と同様の廊下が目の前にあった。が、旅館の作りが完全に和風なのに対し、離れはどちらかと言えば洋風が強めの和洋折衷になっている。
「こちらは従業員の寮とも兼用になっています。以前はここに住み込んで働く方も多かったのですが……玄関からすぐ右手に行くと共通のお手洗い、左側がお風呂場になっています」
 両隣に並んだ部屋は、今は閉ざされている。向かって一番奥、真正面の重そうな扉だけが、大きく開け放たれていた。口を開けた闇を一瞥し、弓月は背筋のざわめきを改めて確認する。
 あの奥に、何かある。
「それで……こっちが屋根裏で、普段は倉庫として使っています。季節で使うものなどは、全部こちらにしまってあります」
 人気のない扉を横目に、一行は一番奥の部屋へ入る。灯かりをつけてもらってから、弓月はかすかに眉を寄せた。この部屋だけ、異常に古くかび臭い。扉だけが新しかったのだろうか。
 灯かりがついていながら、全体的に薄暗い印象を受ける。出入り口以外は全て押入れになっており、正面に木製のはしごがかかっていた。揺らしても微動だにしない。年季こそ入っているが、随分丈夫だった。真っ直ぐに天井へ伸びており、その先にも小さな扉がついている。
 弓月は確信した。屋根裏部屋に、うごめいている無数の気配がある。妖に似ているのに妖と違う、どちらともつかない不透明な気配だ。
「待て」
 はしごに登ろうとする女将の手を止め、弓月は静かに前に出た。反射でだろう、比呂也がとっさに女将を後ろへ引き戻す。

  とおりゃんせ とおりゃんせ
  ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ
  ちいっと通してくだしゃんせ 御用の無いもの通しゃせぬ
  この子の七つのお祝いに お札をおさめに参ります
  行きはよいよい帰りは怖い 怖いながらもとおりゃんせ とおりゃんせ

 何が起きたのかと怯える女将を背に、弓月ははしごに飛び乗った。ばたばたと暴れる音を頭上に受けながら、乱暴に扉を叩き上げた。素早く足をかけてよじ登り、身体を持ち上げて屋根裏へ入り込む。
 外から差す弱い光に縁取られ、それらは姿を現した。結界から逃れようと慌てふためき、もつれ合っている数十の蛇の群れ。妖狩を恐れてか、こちらに近づこうとはしない。まるで来ることを拒むように、絡まりながら結界に突撃し、次々と白い灰になっていく。
 その頭上に煌めくは、目にも眩しい金の色。
「……へぇ」
 推測が正しければ、彼らを呼び出すための媒体があるはず。だがどうやら、弓月らが到着する直前に何者かが持ち出したようだった。
 最後の群れに左腕を突っ込み、そのうちの一匹を引きずり出す。せめてもの抵抗のつもりだろう、蛇は牙を剥きながら弓月の腕を締め付けた。最後の一匹が結界に触れ、崩れていく。それを見届けてから辺りを確認し、いないことを確かめてから扉を開く。結界を解いて飛び降りると、女将が不安そうに駆け寄ってきた。
「あ、あの……何か、いたのですか……」
 弓月はその美しい顔の前に、ぐいと左腕を突きつける。女将は小さく悲鳴をあげ、一歩後ろへと飛びのいた。
「こいつだろ? 上に数十匹いたぜ。始末はしておいたが、また湧くかもしれねぇ……見たこと、あんだろ」
 女将の顔は、真っ蒼を通り越して紙のように白かった。言葉も出ないらしく、青ざめた唇を震わせてただこくこくとうなずいている。
 頭に金の輪を持つ蛇は暴れていたが、やがてその身が醜く崩れ、残滓は床に小さな山を作った。
「……主が気づいたな。作り物の身体から、魂を引き抜いて持っていきやがった」
「あ、あの……これは、一体」
 座り込んでしまいそうな女将を、比呂也が支えてやる。
 弓月たちの周囲を、離れの周囲を、無数の気配が動いている。様子をうかがっているのだ。妖狩がどのようにして動くのか、次はどう行動するのかを、蛇を用いて探っている。
 あえてそれを意識の外へ追い出し、弓月は軽く息をついた。
「こいつは憑き神の一種だ。憑き神ってぇのは家筋に憑く憑き物で、そいつを操ることができる家系を憑き神憑きって言う」
 憑き神の代表として狗が上げられる。詳しいことは知らないが、憑き神にしたい獣を殺して首を切り、壷に入れて土に埋めれば、その怨みの力と術者の怨念が、犬を狗に変え家に憑くのだとか。ゆえに、妖のようで妖でない、中途半端な気配になる。
 だが、いくら妖でないとはいえ、人間の怨念によって蘇り、怨念の力で動く憑き神は、扱いようによっては人間に危害を及ぼす存在になる――
「憑き神は単体では何もできないし、何もしない。こいつらが危害を及ぼす原因はただ一つしかねぇ。指令を下し、操作する……つまり、憑き神憑きの人間が命令することだ」
 術者の恨みが深ければ深いほど、重ければ重いほど、呪いの力が大きくなる。呪いの力が大きくなれば、被害も当然大きくなる。力の源は憑き神ではなく、全てが術者の心次第なのである。
「憑き神憑きに恨まれれば最後……憑き神をけしかけられて病気になったり、最悪の場合は殺される」
 枝を落とすのではなく、根元から切り倒さなければ、その力を完全に断ち切ることはできない。憑き神だけを潰したとしても、術者を始末しなければ意味がないのだ。
 術者を『始末』する。それはすなわち。
(あぁ、畜生……あの男、分かっていて俺を寄越したのか)
 最低だと口の中で罵ってから、弓月は口の中に広がる苦味を堪えて問い掛ける。
「あんたが怨まれているわけじゃねぇようだな。むしろ、あんたの周囲が怨まれている。あんたに近しい者が、もしかしたら犯人かもしれねぇ。心当たりはあるか」
 女将は瞳を零れんばかりに見開いて、壊れた人形のように首を振っているだけであった。かすかに動く唇に乗せられた「違う」という言葉を眺めながら、弓月は胸もとにのしかかる吐き気を何とかかみ殺していた。

 更けていく夏の日、やがて大粒の雨が地を叩き出し、雷鳴とどろく暗い夜のことである。

(初回アップ:2006.3.11 最終訂正:2009.9.29)

 



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