妖狩
陸
弓月は刀を手にしたまま、黙って窓際に腰掛けていた。二日前から止まない雨の音だけが、静寂を満たしている。そのまま帰ればよかったものを、比呂也も部屋にいて座り込んでいる。この状態のまま、既に丸一日が経過していた。 弓月は一切眠っていなかった。眠気はない。どうせ眠ったところで十分な睡眠は取れないのだ、だったら起きていて集中力を切らさないほうがいい。 尊杜もまた同じように寝ていない。が、こちらは夕方までたっぷりと寝たからであって、そのほとんどを弓月に任せていた。仕事の責任はあくまでも弓月にある。彼は手伝いをするだけであり、付き添いをするだけなのだ。 比呂也は弓月のちょうど反対側に陣取っている。こちらは不満の色が濃く、何かを言いたげに黙りこくっている。 普段なら、こんなときでも馬鹿話の一つや二つしているというのに。弓月は頭の隅でそんなことを考えた。そして思い返す。こうなることを望んだのは、他ならぬ自分自身なのだということに。 「なーんの気配もないわね」 尊杜がつまらなさそうに呟いた。返答を期待していたのだろうが、弓月はあいにくと気が乗らなかった。 「尊杜さん」 と、比呂也が低く尊杜を呼ぶ。 「なーに? どしたの、ひろちゃん」 「……なんとも思わないんですか。弓月、これから、人を殺そうとしてるんですよ」 怒気を孕むその声に、尊杜はふざけた空気をしまいこんだ。それからかすかに苦笑する。彼でさえ、どう答えれば良いのか悩んでいるらしかった。 「あのね、ひろちゃん。妖やそれを使役する人間、憑かれた人間が人に仇を成したとき、それを狩るのが妖狩の義務なの。あたしは妖狩だから、弓月がこれからすることが……間違っている、と言うにはいかないのよ。義務はこなすべきものでしょう? 破ったならば罰を受ける」 悔しそうに顔を歪ませる比呂也へ、尊杜はどこか懇願するように言葉を並べる。 「あなたはフツーの人間だから、ちょっと分かりづらいだろうけど……妖狩はこの宿命を放棄することはできないの。放棄したって、どうせ妖に狙われて殺されて食べられちゃうのがオチってもんよ。妖を退ける力を持つことに変わりはないから、それが危険であることにも変わりはないし。自分で放棄することもできないから、自分の命が断てないようになってるのよ。それが妖狩の『契約』。要するに、人間ほったらかして勝手に死んだりやめたりするな、ってことなの」 そのとおりだ、と弓月は胸中で苦く吐き出した。 結局選択肢は三つしかない。人間として生きることもできない、悔いて自殺することも叶わない。身体を乗っ取る妖から、乗っ取られた人間を助けることもできない。殺すか殺されるか、契約に背いて自滅するか。生きるか、死ぬかのどちらかしかないのだ。 これ以上話されたらたまらない。積もりに積もった感情が爆発しそうになる。 「おい、尊杜……おしゃべりがすぎるぞ」 声のトーンを落とし、刀に意識を巡らせる。刀が力に反応し、白い炎が吹き上がった。尊杜は特に怯えた様子もなく、 「これくらい、知っててもいいんじゃないかしら? 無駄に隠したって傷つけるだけじゃない。伝えておけば、彼も傷つかずに済んだのにね」 返す言葉には棘すら含まれていた。挑戦的なまなざしに、弓月は何も言うことができない。一瞬にして炎は消える。黙ったまま紅の刀を抱き込んで、再び窓へ視線を投げる。雨の日の夕方、依然として外は薄暗い。この部屋に面した竹林の奥は、既に夕闇に閉ざされ始めていた。 気配にもっとも近い部屋『竹風の間』、手前にある池の表面は、降りしきる雨の雫と風とで不安定に揺らめいている。 「……何でだよ」 歯軋りしながらしぼり出された問いかけは、普段とは異なる強い苛立ちがにじんでいた。 「何で黙ってた。何でそういうことするんだよ」 あえてそちらを見ないまま、弓月は幼馴染の声に応じる。 「てめぇはただの人間だ。ただの人間に教える必要なんざねぇだろ。それに、これは俺の仕事だ。遊びじゃねぇ。放っておけば、もっと犠牲者が増える。それを防ぐために始末するだけだ。憑き物は主の命令しか聞かねぇ。主を殺さない限り、この家は死者が出続ける。昨日も言っただろ。なんで分からねぇんだ」 感情を殺していたつもりだったが、最後まで隠しきれなかった。相手にも伝わってしまったらしい。震える声音が、彼の怒りを如実に表していた。 「人間も斬るなんて……俺、聞いてねぇよ」 弓月は思わず窓から目を放し、比呂也を眺めた。比呂也はまっすぐに弓月をにらんでいる。 「妖狩は人を守る盾なんだろ? 人間のことは守るんじゃなかったのかよ。そそのかされてただけの人間だっているかもしれないだろ!? なあ、何でだよ、事情も聞かずに斬るなんてあんまりじゃねぇか!!」 昔から、こいつはそうだった。弓月は一度奥歯を噛み締める。 お調子者でお人よし。無条件で相手の言うことを信じてしまう。だから傷つくことだって多かったのに、こいつはまるで学習しない。 何度嘘をついても、何度遠ざかろうとしても、溝を越え、線を踏んで、手を差し伸べてくれた。分け隔てなく接してくれた。そこに救われていた。そこに憧れていた。 「妖に同情の余地なんてねぇ。共感の余地もねぇ。事情なんざどうだっていい。何度も言わせるな」 「相手は人間だろ」 「だが妖を使って人間を殺した。同列としてみなされる」 「憑き神は妖じゃねぇんだろ」 「人間でもねぇだろう?」 だからこそ――境界線を示さなければならないのだ。頼むからここで引き下がってくれ。比呂也が何かを言う前に、弓月は素早く割り込んだ。 「人間を十人助けるために、一人の犠牲が必要ならば、俺は躊躇いなくそっちを選ぶさ。たかだか人間が、盾の使命を理解することなんてできねぇんだよ。いい加減に気づけ」 比呂也がついに沈黙する。弓月もまた口をつぐんだ。胸にあるのは強い苛立ちと虚しさだけである。 ――絆ほど脆弱なものはない その通りだ、と弓月は思った。価値観が噛み合わない、たったそれだけでいともあっさりと断ち切れる。人間との絆なんて、作らないほうがよほど楽だったのかもしれない。受け入れられる温かさも、認められる喜びも、知らなければよかった。初めて彼と会ったときに、拒絶しておけばよかった。そうすれば、こんなことで罪悪感に苛まれることもなかっただろうに。 眉間に力を込めて舌打ちする。同時に雷鳴が轟いた。蒼白い光が網膜を焼き、次いで腹に響く音が鳴る。雨足もひどくなる一方だった。 闇と雫の帳が下りた向こう側。どこまでも紅い傘が見えた。気配が波となって押し寄せてくる。こちらを闇へといざなうように、女はゆるりと手招きをした。 全身のばねを使って立ち上がる。逃がしはしない。 「尊杜、お前はここにいろ」 返答の前に窓を引き開け、雨の中へと躍り出た。 水の雫が竹を打つ音とそれを揺らす風の音、そして雷鳴が竹林を濡らし続けている。その隙間を縫いながら、弓月はただひたすらに駆けていた。衣服も髪も、もはや水を吸い取りきらない。張り付く前髪を何度も払う、そのたびに裾や髪からしずくが飛んだ。 女の姿は、竹林の奥にひっそりとあった。女は黒い着物をまとい、紅い唐傘を差していた。気配は今や滝のように流れ、雨と共に弓月の頬に叩きつけられている。 「こんばんは。こんな雨の夜に何の用かしら?」 美しい顔を笑みが彩っている。ただ笑っているだけであるのに、背筋が寒くなるような不気味さすら漂っていた。紅すぎるほどに紅い唇だけが、白い面にくっきりと浮き出て見える。 「妖狩の契約に基づいて、お前を始末しに来た」 「まあ……こんなに雨が降っているのに、ご苦労様ですわ」 にらみつけて告げる弓月に、しかし楓は逆にころころと笑ってみせた。 「だけどね、坊や。私はここでは死ねないのよ。だって」 刹那。 ご、と風が強く吹きつけた。雨粒が体を容赦なく打ち据える。 「私の姉さんは、まだ幸せになっていないもの。私は死ぬわけにはいかないの。姉さんの、幸せのためにね」 次いで、空気の流れが変化する。女の背後に一つの影、今まで見たものよりも何倍も大きい大蛇だった。人間の身長すら超えている。その周辺を小蛇が取り囲み、鎌首をもたげて威嚇している。 「幸せ、ね。じゃあなおさら、俺ぁお前を始末しなっきゃな。お前が犠牲になることで、お前に殺される予定の奴らは救われる」 かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に つるとかめが滑った 後ろの正面…… 「弓月!!」 形作られつつあった糸籠が、響く声によって霧散した。 水音を跳ねさせて駆けてくるのは、つい先ほどまで旅館にいたはずの幼馴染だった。息を弾ませ、傘すら差さずにこちらに向かってくる。 「てめぇ、何で来やがった」 「お前には関係ねぇよ。お前が楓さんを殺すってんなら、俺は楓さんを助ける」 弓月のほうを見ようともせず、比呂也は二人の間に割り込んだ。楓の細い腕を取り、旅館の方角へと引っ張っている。 「楓さん! そんなことをしたら、お姉さんが悲しみますよ! さ、早く戻りましょう」 そういうことか。麻痺していた思考がようやく答えをはじき出した。 比呂也は楓を説得するつもりなのだ。怨念で動く生き物を使役するのだから、その心は怨念に侵されている。説得を試みたところで意味がないのに、どうしてここまで無謀なんだ。弓月は比呂也の肩をつかみ、力ずくで剥がしにかかる。 「おい、馬鹿野郎……何してやがる、今すぐ離れろ」 「ふざけんな! やってみなけりゃ……」 弓月の手を振り払い、そこでようやく比呂也の口が止まった。隙をついて後ろに引っ張り込み、身体を入れ替えて相手を見る。 気配が強くなっていく。紛れもない、これは怒気から来る殺意と怨みだ。微笑までたたえていた顔は、憤怒のそれに変化している。 「そう、あなたもあなたも私から姉さんを奪うつもりなのね……許さない、許さない、許さないわ。呪われろ呪われろ呪われろ呪われろ、呪われろ!!」 しぼり出されひび割れたその音が引き金となり、蛇が一斉に襲い掛かってきた。小さな蛇の群れが津波となってなだれ込んでくる。その向こう側で大蛇が牙をむき、弓月を目指して突き進んできた。 あの大蛇は面倒かもしれない。刀を構え、足の裏に力を込める。 「ぅわあっ!」 その直後。バランスを崩し、比呂也は成すすべもなく転倒した。無防備な獲物を見逃すはずがない。 「馬鹿野郎!」 とっさに身を翻して助けようとするが、楓がそれを許さない。大蛇を数匹引きずり出し、袖の下にある壷から無数の蛇を呼び出し、けたたましく笑っていた。どっと蛇の群れが比呂也を飲み込む。悲鳴とくぐもった呻き声が、流れを縫って聞こえた。 (初回アップ:2006.3.11 最終訂正:2009.9.29) |