妖狩


 ひとつ、ふたつ、間が開く。妖が奇声を発して身悶えた。耳を劈(つんざ)くその声は、妖の炎をかき乱す。次々とはじけ飛ぶ火の粉を避けて、弓月は大きく前進した。
「……ッ、く」
 傷口の全てから痛みが走る。
「この……ッ!」
 目の前に揺れる天火人を斬り伏せる。ひとつ、ふたつ、みっつ、刀を振るって唄を紡ぐ。

  かごめかごめ 籠の中の鳥は
  いついつでやる 夜明けの晩に
  鶴と亀が滑った 後ろの正面だぁれ?

 形成された糸の籠、触れるもの全てを裂いていく。次々と火の塊が塵となり、隙間を縫って移動した。痛みは止まらない。気絶する前に、何とかして終わらせなければ。

  ふるさともとめて 花いちもんめ
  ふるさともとめて 花いちもんめ
  あの子が欲しい あの子じゃ負からん
  この子が欲しい この子じゃ負からん

「さまよい歩きし迷い子ほしい!」
 数十もの針をその手にはさみ、渾身の力で腕を払う。風船の割れるにも似た音が、あちらこちらで響き渡った。
 喉の奥で息が絡まっている。呼吸がうまくできない。唄が紡げない。咳き込みながら前に進む。刀を振り上げ、渾身の力で振り下ろす。肉を裂き、骨を砕くあの感触、知らずのうちに手が震えた。ほんのわずかな狙いの狂いが、鬼の身体を通り過ぎる。刀の切っ先はアスファルトを噛み、がつりと硬い手ごたえを伝えた。
 哄笑が起こる。視界を何かが横切った。何かを認識する前に、強い衝撃が打ち込まれる。熱いものがこみ上げてきて、歯を食いしばった。無理やり飲み下せば、喉を焼いていく感触がする。
 胸元の傷が血を流している。先ほどから止まる様子がない。徐々に下がっていく体温は、意識を蝕みつつあった。
「ねえ、どうしたの! ねえ、どうしたの!! たったそれだけ、たったそれだけ、弱いわ、弱いわ!!」
 耳障りな甲高い声が、狂ったように哄笑を刻んだ。糸籠を引きちぎり、針を砕き、ゆったりと歩みよってくる。手をつき半身を起こしても、それ以上身体が言うことをきかなかった。
(まずい)
 冷や汗が頬を伝い落ちる。血の後を追って生まれる痛みが、集中力と体力を奪っていく。
(……駄目だ、頭じゃ分かってるのに……人、斬るって思うと手が震えちまう)
 刀の鍔が鳴る。清炎はもはや、薄っすらと刀身を覆うだけとなっていた。
(……どうする)
 ノイズが鬼の背後に散る。天火人の群れが、音もなく亀裂から溢れてくる。鬼が何かを告げているが、耳鳴りがひどくて聞こえない。じりじりと中央に追い詰められる。逃げ道は無い。血は、止まりそうにない。
(……どう、する)
 心だけが焦る。虚ろに燃える火の群れが、一瞬だけ笑った気がした。
 そのとき、
「弓月!!」
 声が、した。かすむ景色の手前、自分の目の前に影が一つ滑り込んでくる。もう何も言わなくても分かる――幼馴染の少年だった。
「比呂也……! 馬鹿、何で来たんだよ!」
「昼間に、おかしくなった真帆と同じ気配があったから。真帆のこと思い出して、また声が出なくなっちまったら、って思ったら……いても立ってもいらんなくて」
 膝をつき、肩を支える比呂也の横顔は、普段と違ってひどく真面目だった。冗談で言っているのでも、あてずっぽうに言っているのでもない。
 気づいて、いたのか。彼女の中にいた異形の存在に。今まで必死に隠していた事実は、とっくの昔に知られていたのだ。力ない笑いが口をつき、そうか、とだけ呟いた。
 天火人の数が、先ほどより増えている。膨れ上がる妖気が傷口を蝕み、生み出された痛みが意識を苛む。
 急に力が抜けて、弓月は膝をついて座りこんだ。比呂也の手が肩をつかむ、その感触すら痺れているように遠い。このままでは比呂也も巻き添えになる。それだけは避けたい。
 攻撃を受けたときに広がった傷口から、おびただしい量の血が流れ出していた。いまや黒い衣服の大半が、鉄錆の臭いがする体液に染められている。力が入らないのもそのせいだろう。
「俺に、何かできることあるか?」
 情けない。妖狩のくせに人間に心配されるとは。盾の使命を全うできていない。人間の力を借りてしまえば、それこそ何もしていないことになる。契約違反になる――いや、違う。朦朧とする意識の一部が目覚めた。
 助けを乞うことに、躊躇う必要などない。妖狩がどう、という問題ではない。今は彼の力を借りなければ、両方の命すら危うい状況なのだ。
「比呂也、ちぃと肩貸せ」
 言いながら、肩に額を預ける。一瞬だけ彼の体が緊張するのが伝わってきた。なぜか分からないが笑みがこみ上げてきて、思わず笑う。そのままの状態で、低く小さく口ずさんだ。

  ほうほう蛍来い あっちの水は苦いぞ こっちの水は甘いぞ

 鋭い殺意が向けられて、弓月は比呂也に耳打ちする。
「左だ」
「え」
「左に避けろ」
 比呂也が力強くうなずいた。弓月の腕を引き、自分もまた左側へと逃れる。鬼がその爪をアスファルトへと突き立てて、炎の玉が破裂する。

  ほうほう蛍来い 山道来い

「伏せろ」
「合点だ!」
 比呂也は弓月に覆いかぶさり、一緒に大地へと伏せた。胸と腹をしたたかに打ったが、文句を言っている暇はない。風船の破裂するのに似た音が、激しく空気を震わせる。火の粉が降り注いでくる。次いで過ぎるつむじ風は、鬼の少女が通り過ぎたことを意味している。頭上を鋭く爪が通る。コンクリートの塀がひび割れる音がした。

  行燈(あんど)の光で また来い来い

 鬼が体勢を立て直す前に、唄を完成させた。意識する。この男に相応しい武器を、意識する。
「手」
 痛みを堪えて起き上がり、弓月は軋む手を差し出した。わずかの間逡巡し、比呂也は弓月へ手を伸ばす。出された比呂也の手を握り、握ったまま腕を引く。何もない空間から引きずり出されたその弓は、『月朱雀』の持つ色と同じ紅を宿していた。
 突破するにはこれしかない。比呂也に退魔の力を持つ武器を渡し、少しでも血路が開けるようにした。力を消耗しきった自分一人では、比呂也を守ることなどできはしない。これが結果として彼の命をつなぐことになる。
 なるほどな。これがいわゆる『解釈方法の違い』か。勉強になったよ。弓月は心の中で虎牙に感謝した。
「これ……」
 比呂也の手は、緊張に震えていた。
「弦を引け。そうすりゃ勝手に矢が装填される」
 もうそこまで天火人は迫っていた。何も無い揺らめきの向こう側、そこに邪悪なものが宿っている。鬼の娘は依然として哄笑している。けたけたと笑い続けるその姿に、もはや正気は見られない。あれは、異形のものだ。もう人とは呼べない。
「……怖ぇか?」
 しゃべるのが億劫だ。息をすることすら辛い。だが、比呂也に不安を与えてはいけない。弓月は尋ねて、かろうじて笑ってみせる。
「もっと怖ぇの知ってるから、怖くなんてねぇよ」
 暗に自分を差しているのだろう。こんなときまで引き合いに出さなくていいのに。気遣いなのだろうか、それともただの皮肉なのだろうか。どちらでもいい。
「上等だ。じゃあ見せてもらうぜ、その自信をよ」
「分かった。だから弓月、」
 ぬくもりが離れる。真摯な表情を月が縁取る。いつもと同じ、目をまっすぐに見据えて彼は言う。
「あの子のこと――あの子の心、解放してやってくれよな」
 どこまで分かっているのだろうか。相変わらず何も分からないままなのかもしれない。
「お前しか、あの子のこと……助けてあげられるのは、いないんだからさ」
「……俺には斬るしかできねぇぞ」
「分かってる。お前がそれを嫌ってるのも、分かってるつもりだ。だから」

「俺もこれから、ここに立つ。お前が妖狩として、使命を果たすところを最後まで見てる。お前一人が苦しむのはもう嫌だから、一緒に背負ってやりたいんだ」

 彼の言葉は。
「……できるわけねぇだろ」
 思った以上に深く、強く、弓月の心に響いた。
 震える足に力を込めて、立ち上がる。切っ先がアスファルトに擦れて火花を散らす。
「てめぇなんぞに背負えるか。甘ぇんだよ」
「やってみなくちゃ分かんねぇだろ」
 真紅の矢をつがえて引き絞る、その横顔は月明かりに照らされて凛々しく見えた。
「お前のこと、支えてやるって決めたんだ」

 夏の深夜、妖の刻。夜の気配を切り裂いて、矢が戦いの火蓋を打ち落とした。

(初回アップ:2006.3.11 最終訂正:2009.9.29)

 



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