龍の血脈


 風が吹きぬける。その流れに髪を遊ばせながら、細身の青年がゆったりとした足取りで歩いていた。
「んー。きもちー」
 伸びをして、ついでにあくびをする。
「何や、えろうぽかぽかしとるなー」
 左肩には大きな荷物を背負っている。細く骨ばった体には不釣合いなほどに大きい。それを何回か背負い直すたびに、彼の左手首についた金色の腕輪が音を立てた。鎖が腕輪の途中から垂れており、その先には親指のつめほどの翡翠がついていた。見事な龍の細工が、珠に巻き付いている。
「っと……ふー、おもぅなぁ」
 髪をかきあげ、彼は空を仰ぐ。空はどこまでも青く、澄み切っていた。
「んー……きもちーはきもちーんやけど……」
 はた、と彼は留まり、きょろきょろと辺りを見回した。見たこともない住宅街に出てしまっている。右も左も分からない。
「このままやったら間に合わへんな……迎え来てもらお」
 携帯を取り出し、そのまま短縮でボタンを押す。呼び出し音の後、低い声が耳を打った。
『はい』
「あ、昇(しょう)? 俺や、俺ー」
 電柱にもたれ、彼は電話口に語りかける。少々の沈黙、それから明らかに疑っているような声がした。
『……俺俺詐欺はごめんですが』
「あ! ちょぉ待ちぃ!! 切るな切るな、俺や、果蓮(かれん)や!」
 名前を出したと同時に、電話口の男は納得したようだった。
『ああ、果蓮か。今日の会合、まさか出られないのか?』
「ちゃう。いちおーこっち来たんやけど、道が分からん」
『……はあ?』
「そやから、道に迷った」
『……俺も急いでるんだけど』
 心底呆れた声で、相手は言う。が、ここで引き下がってしまえば確実に会合に遅れる。長に怒られるのはごめんだ。自分は京都で他はこの辺り。多少では片付かないハンデを持っているのだから、それくらいは許される……ことを祈って、彼は必死で電話を切られないようにする。
「迎え来てくれへん? この辺分からへんねんって」
『自分で歩いてけ。切るぞ』
「あああああッ!! ほんま頼む!! そないにいけずなこと言わんといて! 歩くんしんどいし、ここいらのこと俺ほんまに分からへんねん! ほったらかしやったら俺行き倒れてまう!」
『……あーもー』
 必死さが通じたのだろう。盛大なため息のあと、相手は疲れたように尋ねてきた。安堵のため息をつき、浮いていた汗をぬぐう。
『今どこにいんだ』
「『宮の坂三丁目の二』や」
『……それ、柚江(ゆえ)の家の近くだろ』
「れ? そーなん? 思い出せへんかった」
『まあいいや……迎え行くよ。そこ動くな』
「あいー。よろしゅ」
 ぷちんと音がして会話が途切れる。彼……果蓮は再び空を見上げた。見渡す限りの蒼だ。
「おおー」
 そのまま見上げていると、足下に擦り寄る何かに気づいた。視線を落とすと、真っ白な猫が足にまとわりついている。
「お、かいらしぃにゃんこさんやな」
 しゃがみこんで喉を撫でると、ごろごろいいながら頭をこすり付けてきた。上等なビロードの手触りをしている。よほどいい暮らしをしているのだろう。
 瞳は透明な水色をしていた。賢そうな目の光が印象的で、首の紅いリボンがよく似合う。
「おまん、どっから来たん? はよのんのせんと、ご主人様にどやされるんやないの?」
 話しかけても返事は返ってこないが、彼にとっては別に気にもならなかった。しばらく猫を相手に遊んでいたが、バイクがエンジンをふかす音で立ち上がる。
「あ」
 と同時に猫が逃げ出す。軽やかな身のこなしで塀に登り、そのままどこかに行ってしまった。名残惜しそうに見ていると、肩をたたかれる。
「昇、来たん」
「まあな」
 無造作に髪を束ねただけの精悍な青年は、呆れたようにヘルメットを手渡した。F1レーサーなのだと聞いているが、果蓮には身近すぎていまいちピンと来なかった。
「何やってたんだ?」
「にゃんこさんと遊んでたん」
「……あそう」
 バイク用のスーツに身を包んでいるからか、たくましい体の線がよく見える。レーサーをしていながら、彼も他の者の例に漏れず、道場主をしているからである。
「早くしようぜ。遅刻すると咲(さく)姉にどやされちまう」
「あいよ」
 ヘルメットを被り、果蓮は彼の後ろに飛び乗った。もう一度ちらりと猫が消えた場所を見ると、猫は尻尾を揺らしてこちらを眺めている。
 それに大きく手を振れば、昇が頭をどついた。
「いだっ!! 何すんねん!」
「アホか! 危ねーだろーが!! じっとしてろ、振り落としても知らないからな!」
 文句をブツブツ言いながら、昇のたくましい胸に腕を回す。バイクが進みだす。
 と、一瞬強い視線を感じて、反射的に後ろを振り向いた。自分の長い髪が視界を遮るが、邪魔だからといって払うことはできない。
 気配がしたのだ。無感情な、だが強い視線と共に、刺すような気配が背中を射抜いたのだ。それが何者のものなのかは分からない。
 嫌な予感がする。先ほど感じたものは、もう風に押し流されてなくなっていた。
(考えすぎやとええんやけど)
 果蓮は空気の鋭い流れに髪を遊ばせながら、じっと風を探っていた。

(2006.4.3)

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