龍の血脈
三
通された客間は性に合わない。果蓮はそれを断り、縁側に出て腰を降ろした。少しだけ太陽に熱された風が、頬を撫でていく。目蓋に映る光が眩しくて、目を細めた。 しばらくして、禊が茶菓子と茶を運んできた。足下には猫がじゃれ付いている。 「飲むか」 「おおきに」 手に取ってから、ふと周りの静けさに気づく。いつもなら、たまに顔を出すと、ここの当主が慌てて飛んでくるというのに。喉を鳴らして擦り寄る猫を撫でながら、果蓮は尋ねた。 「禊。滝次はんは?」 「父さんなら」禊はわずかに首を傾げて眉を寄せた。「昨日羽目を外しすぎてぎっくり腰になった」 「ぎっくり腰ぃ?」 「ん」 禊は短く返事を返し、それから空を仰ぐ。 「昨日は久しぶりに家に帰れる日だったんだ。でもそれでうっかり」 小さなため息が、庭に向けて落とされる。 「……母さんが亡くなってからは、あまり体調がよくなくって……入院したり退院したりだったから、ちょっと元気になったのかなって思ったんだけど」 庭の木の葉がざわめいた。軽くめまいを覚えて、果蓮は眉をしかめる。 「果蓮? どうした」 禊の手が肩を支える。 「いい、何でも、あらへん」 空気が取り込めない。何でもないと笑ってみせるが、顔の筋肉が強張って上手く笑えなかった。 「苦しいのか?」 喉に何かが引っかかっている。 「……ッ」 嫌な汗が噴き出た。額から流れたそれは、顎を伝って滴り落ちる。心臓が、ありえないほどの勢いで波打っていた。速く浅く呼吸を繰り返すが、それでも苦しいことに変わりは無い。果蓮は力を込めて、胸を押さえた。これで鼓動が戻るとは、欠片も思ってはいないが。 「果蓮!」 禊の表情が見えない。あれだけ明るかった周囲が、どろりと赤くにごっていく。 「く……そ……何で、こないなときに……ッ……!」 急激に体内から熱いものがこみ上げてくる。歯を食いしばって耐えるが、喉に引っかかったものが苦しさに拍車をかけた。手で口を塞いだ次の瞬間、ひどい吐き気と咳が同時に襲ってきた。 紅の色が、暗くなっていく。音が消えていく。手足が痺れて冷えていく―― 『こんな子供に、当主が務まるわけがない』 そういったのは、どこの誰だったか。 『神威殿は一体何を考えているのだ』 そう叫んだのは、どこの誰だったか。 『正当な血が何だ。汐留、あのどうしようもない馬鹿がっ』 そう罵ったのは、どこの誰だったか。 『大体汐留が悪いのだ。とっとと早死にしおって……しかも、全ての権限は息子にゆだねると。やはりあいつを当主にするべきではなかったのだ』 そう嘲ったのは、どこの誰だったか。 『まあ待て。子供は病持ちだ、これはもう長くはなかろうて』 そう笑うのは、どこの誰だったか。 『分家の東雲(しののめ)の話では、あと十年持つか否かほどだそうだぞ』 自分の知らない大人たちの会話。父親に兄弟はいなかったはずだから、おそらくはその遠い遠い血縁か何か。一度も会ったことの無い大人たちの視線に、ただ黙ったまま座っているしかなかった。 『まもって、あげるからね』 そう約束したのは、幼馴染だった。 『かれんのこと、ぜったいに』 そして、それを破ったのも、幼馴染だった。 『ぼく、たくさんべんきょうして、かれんのことまもってあげる』 そして、そのまま時が流れて。 目を開いた。禊の家ではない。身を起こそうとした果蓮は、視界に入ったものをみて表情を硬くした。 「……ッ、何で、俺はここにおるねん」 客間なのだろうか。整えられた和室だった。病院ではないだろう。鹿威しの鳴る涼しげな音がしている。目をやれば、開け放たれた障子の向こう側で、もう一声鹿威しが鳴った。 「果蓮、起きたんだね」 首を向ける。白衣を着た若い男だ。かすかに口元に浮かべた微笑は、女性ならばたちどころに虜になってしまうだろう。甘く優しげな顔立ちをした彼に、実際女性からかかる誘いなど数え切れないに違いない。 東雲証(あかし)、風龍出雲の分家東雲の当主であり、若くして龍の一族の主治医を務めあげる、果蓮の幼馴染だった。 「禊さんから連絡があったんだよ。もう少し遅かったら、手遅れだったかもしれない。よかった、無事で」 果蓮は顔を背けた。ただ、言い知れぬ嫌悪感を覚えた。 「……ッ……よく言う……心にも、あらへんこと」 果蓮は静かに、冷たく音を吐く。 「僕は……そんなつもりじゃ……」 証は笑みを消し、哀しそうに呟いた。 「嘘つきや。……お前らは、みんな……嘘つきや」 「違う。みんな、君の事を思って」 わずかに口元を歪めれば、証が顔を上げた。哀しそうに揺らぐ瞳は、それでも果蓮の口を止めるに至らない。 「ほんまはちゃうやろ。風の龍の家は、病に侵されて……もう三年も持たん……そう言ったのは、どこの誰や。お前やないか」 証が黙り込む。果蓮は軽く鼻で笑うと、身体を起こした。胸倉をつかむ。 「俺の命はあと三年。どうせもう助からへん」 「そんなことない! そんなこと……果蓮、僕は君に生きていてほしいんだ」 全てが空々しくしか聞こえない。果蓮は乱暴に、証の胸から手を離した。自分の指先が震えている。 「俺のこと、ほんまに助けたい言うんなら……そいならいっそ、一思いに殺せばええねん」 「果蓮……そんなこと言わないで。絶対に、僕が助けてみせる。あと少しなんだ、龍家を蝕んできた、あの病を治療する薬が……」 今更、もう遅い。果蓮は虚ろに、心の中で呟いた。 龍の病。世界の理を司る生き物たちを蝕む病。発熱とめまいから始まり、やがては全身の痺れ、視力の低下、聴力の低下などの症状が出る。一時の急激な発症による身体への負担は、決して軽いものではない。体力を削られ、やがては死に至る。治療方法は無い。 龍の血を濃く受け継ぐ天の龍にのみ発症するはずの病は、稀に体質と相まって他家でも見つかる場合がある。果蓮はまさに、その稀な発症例だった。 初めて症状が出たのは、父が亡くなり、母が後を追うように逝ってしまった、その日の夜のことである。涙が枯れるまで泣きはらし、そのまま倒れた。原因不明の発熱、診察に駆けつけた東雲の前当主が告げた言葉は、おそらく龍家に衝撃を与えたのだろう。見舞いに来た龍の長の、わずかに揺らめく紫闇の瞳を、果蓮は今もはっきりと思い出せる。同情と憐憫と、はっきりとは見えない複雑な色を帯びた目は、熱で霞む視界の中でも鮮やかすぎるほどだった。 父を失って行った初めての会合では、知らない顔が大勢、いなくなった父のことを蔑み、遺された果蓮を蔑んだ。なぜすぐ死ぬ子供を当主にしたのだと、怒りの矛先はこちらに向いた。頬を張られ、腹を蹴られ、しばらくは歩くこともままならず、寝たままの生活をしたものだった。 全てが灰色で、全てが味気ない。父母の死と、すぐに訪れるだろう自分の死。たとえどれほど足掻いたところで、結局は無駄なのだ。 思わず自嘲の笑みが漏れた。 「果蓮……そんな顔しないで」 「もう、何もかんも遅いんや。死期が遅ぅなるか早ぅなるかの違いやろ。さっさと殺しぃ」 風が、果蓮の細い髪の毛をなぶっていく。 「……これ以上、誰にも迷惑かけとぅない」 知っている。当主になるときに、どれだけ神威氏がひどい非難を浴びたのかを。飛鳥氏が自分のことのように、心を痛めていたのかを。他の龍家の人たちが、どれだけ自分のために時間を割いてくれたのかを。 「……もう……疲れた……」 だから、もう終りにしたい。先も見え透いた自分の薄っぺらな人生を終りにして、支えてくれた人たちに、せめてもの恩返しとして。 「……果蓮……駄目だ、生きなくちゃ。まだ、これからなのに」 証の手を、再三振り払う。 「お前になんか分かるか! ……お前は、俺を売ったんや……!」 とうとう、証が手を下ろした。そっと立ち上がり、哀しそうにこちらを見ている。 「……禊は……どこや」 「奥。客間にいる」 「……帰る……呼んで、きぃや」 無言のまま、証は廊下へと消えた。風が、吹いている。草木をそよがせるその音を聞きながら、果蓮はただじっと顔を覆っていた。 「……何や……この、風」 が、ふと面を上げる。不自然に緩急のついた風は、やけに肌をざわつかせた。風だけではない。かすかに乾いた土のにおいもする。乾くということは、火気が混じっているということか。 見られている――瞬間、果蓮は布団から跳ね起きた。無造作に転がっていた己の刀をつかみ、抜刀の構えを取る。宝刀『流松籟(りゅうしょうらい)』は、持ち主の動揺を察してか、鯉口を切ると共に鋭い風の気を放った。 「……」 空気が張り詰めている。息苦しさすら感じるほどだ。相手は仕掛けてこない。明確な殺気を垂れ流したまま、動かない。天に腕を伸ばした大樹の頂上、葉に隠れて見えない場所にいる。 「果蓮、どうした」 禊の声がしたと同時に、気配は消えうせた。 「……いや、何でもあらへん」 「元気そうだ。よかった」 安心したのか、禊が涙ぐむ。どうも昔から、変わっていない。果蓮は思わず微苦笑し、わずかに低い彼の頭を撫でる。 「また死に損ねたさかいに」 「そういうことを言うな」 今度は拗ねたように呟くと、背を向ける。その背中に、果蓮はふと疑問を投げた。 「証は」 「ん、これから学校に、資料を取りにいくと言っていたぞ。帰ってもいいそうだ」 「さよか」 それだけ呟いて、果蓮は禊の姿を追う。あの気配はもう、完全になくなっていた。 (2006.12.22) |